第104話 下関の吉田宿 高杉晋作 山陽道

文字数 518文字

長府藩初代藩主の毛利秀元の次男毛利元知が、その領地の一部を与えられ石高1万石であった。神田川と木屋川の間に城を構え、後ろは山、前は海、敵からの防衛には最適の地だった。街道が山陽道と赤間関と重なり交通の要所であり、吉田宿は多くの店があり栄えていた。幕末は高杉晋作の奇兵隊の宿舎兼訓練所となった。高杉もこの地に思い入れがあり、お墓も「東行庵」にある。地域の人たちは高杉をこよなく愛し、いまだに多くの年中行事が行われている。月命日には東行庵の周りを「箒の日」と決め、世話人会が掃除をしている。10年20年と続き現在30年もの間、箒の会は続く。今年、厚労大臣の表彰を受けることになっている。柴田さんが47歳の時から地域の人と続けているという。東行庵は晋作の愛人「おのう」が、晋作没後、「梅処尼」となりその菩提を弔った庵。現在の建物は明治17年、山懸有朋、伊藤博文らによって建てられた。高杉晋作が名乗った「東行」の号は、「西へ行く人(西行)を慕いて東行く我が心をば神や知るらん」と歌ったという。生前、晋作は愛人おのうに「梅処」という名をつけ、好きな「梅」の一文字に思いを込めた。なんと公私ともに凄い若者が躍動したものだ。高杉は享年29歳だった。
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