第71話 畦町宿のギャラリー畦 唐津街道

文字数 827文字

 ナビを設定した畦町公民館に着くと、宿場の絵図が掲示してある。600mの宿場は古民家はなさそうだが、唐津街道の両側に家が並び人々が住んでいる。周囲は山と田圃だけで、ポツンと宿場が存在する。
 畦町宿は福津市にあり、1642年青柳宿(古賀市)と赤間宿(宗像市)が遠すぎるということで、鳥の巣村 と本木村の一部を合併し宿駅を設置したという。
 通りの民家に1軒だけ「ギャラリー畔」と看板をあげた岩熊さんの店がある。教員を退職し、畔町歴史研究 会の事務局長として情報発信をされている。
 宿駅の成り立ちを聞き、「原町小休み所「と宿場の違いを教えてもらった。全国の宿場には”馬継所”というものがある。幕府から前後の宿へ荷物や手紙を届ける駅の権利を与えられており、どの宿場においても1箇所しか設置できない決まりがあったという。
 何匹もの馬を常駐させ、公私の荷物を前後の宿へ届け、リレー式で運ぶ馬継システムである。価格が公務は3文で民間で4文と値段が違う。
 岩熊さんの先祖は田畑を持った紺屋という染物屋さんだった。宿場では銭勘定があり、商人のほとんどが計算や文字の読み書きが出来ていた。商売人のことを「銭もうけといい、しゃばい」と言われた。農民は物々交換が主で計算はない。しかし農地に対しては、こだわりを持ち「我を通さねばならず、性格が激しい」と言う。
 武士には殿様へ直接会える者・廊下で会える者・庭で会える者と身分が分かれていた。農家にも同じようにこの土地へ、最初に入植した者が上・次に入植した者は中・最後の小作人は下とランクが分かれていたらしい。
 庄屋は村単位で存在し、その下に組頭や頭取という役付き農民が居た。村ごとに米の倉庫があり管理するシステムだった。江戸時代を詳しく研究されており、岩熊さんには教わる知識が多かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み