第7話 木屋瀬宿大甕は3石半と古銭の展示 長崎街道

文字数 885文字

 土間にある大きな甕は、3石半の量の酒が入るという。舟庄屋の謝礼として福岡藩から1年に貰う入る入る大きさらしい。実際に甕を見ると「これだけの量の米を貰っていたのか」と、現実的でよく理解できる。1年間に一人1石を食べるというから、3人半分の報酬だと思えば、管理料として妥当な量かもしれない。
 土間の机と木製の長椅子に座り梅本先生の話を聴く。江戸時代における石高にたいする貢租の割合を「免」めんと呼ばれていた。本来は、石高から租税としての納付分を差し引き、残りを農民に自由な処分を免(ゆる)した分のことを指すが、江戸時代以降は貢租の占める割合を指すようになったという。梅本先生はファイルを実態を示し説明する。
 遠賀川は大洪水が何年に一度、農地に被害をもたらす。福岡の黒田藩主も米収穫の被害を止める為川の両側に堤防の建設を進めていった。川と田畠と同じ高さを仕切るように土盛りの堤防が延々と続いている。私が子供の頃、遠賀川堤防が決壊し、家や家畜が濁流で流され大被害があったことを覚えている。
 昔、梅本家は舟庄屋として、河原にある米場で、米俵を船に積込む管理をしていた。現在は何もないが戦後、国土省が遠賀川底の砂を除去する作業があった。この場所は大昔から舟の積荷を乗せ下ろした米場であった。梅本さんの父親は落ちている小銭を全部拾い集めたという。土間のガラスケースに西暦600年から江戸末期までの中国や日本製小銭等が、展示してある。現物の横に銭の名前と年代が書いてある。まさに銭のミニ博物館である。米を基盤とした経済体制だったが、銭が日常取引では流通していたのを確認できた。
 福岡藩で経済状況が厳しくなると、独自に藩札を印刷し、それをロウの代金として支払ったりしたと言う。藩主に銭を貸しても、現物の陶器で返したりしたそうだった。
 私の父は慶長大判を額縁に入れ飾っていた。本物であれば、何十万円もするだろうが。
額から外して金色の貨幣を見ると、横に「慶長年間に造る」と現在の明朝体で印刷してあった。
本物だと金に刻んだ文字なのだろうが、これは金メッキの偽物だろうと思った。
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