第73話 椎田宿の延塚記念館  中津街道

文字数 938文字

 東九州自動車道は以前、一般道に切れ切れの高速があり時間がかかった。各所にトンネルが開通、小倉から大分まで直通で便利になった。しかし5年前のマイカーのナビに掲載が無く、道無き空間を飛ぶ。築上町椎田に着いたが、国道10号は道がくねくね曲がり、車の通りは多いし宿場の所在が分からない。無人の椎田駅に寄っても何も表示がない。駅は貴重な情報源だし、観光になる地元宿場の掲示がほしい。
 近くの築上町役場を訪ねた。椎田町と築城町が合併し、今春新築の4階建ての立派なビルがあり、大勢の職員がいた。こんなに人が必要なのだろうか。受付嬢に”延塚記念館”を尋ねると都市計画課の人を呼んでくれた。「多分、記念館はあそこの背の高い建物でしょう」と大きなガラス越しに指さした。「資料がありますので3階まで案内します」と言い、エレベーターで上がった。中津街道の椎田宿という冊子を呉れた。町が今年、作成発行した物だった。
 宿場は国道から少し外れたところで、記念館のある通りが中津街道である。古い建物に売却の看板があり、窓ガラス越しに覗くと室内は古式の間取りのようだった。延塚記念館に説明文がある。「飢饉で農民が食べる米もない年があった。窮状を察し、慈悲の心で代官が米倉を開放し米を与えた。藩や幕府に反逆したことになり、代官は責任を取り切腹した」という。後世まで言い伝えられ記念館が建てられた。
 2階屋の古式建物に吉元麵製作所とあり、ガラス越しに中が見える。ドアをあけ宿場のことを尋ねた。社長らしき人が外に出て熱心に説明して貰った。「ライオンズクラブが木製灯籠を造り、説明板を置いた。この通りが宿場で、その先で国道が横切っている」という。
 信号を越えると、寺があり、里程標を発見できた。更に、苗や観葉植物を販売店があり、古い造りの建物で、後部は白壁が落ち痛みが激しい。透明ビニールの奥の方に店番の老婦人が椅子で居眠りしていた。
 古式建物か続き、店先に発泡容器がぶら下がり”魚や”と書いてある。室内は冷房が効き昔風板台に魚が並べられている。90歳のご婦人が店番で「古民家を改造し前は魚屋、後ろを住居としている。住み心地はいい」という。「商売はいまは、やっとで、お得意さんがいるから商売できる」という。
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