第62話 若松宿のアーケード街の前田茶園  唐津街道

文字数 971文字

 街道は、小倉から戸畑を通り、洞海湾を船で渡って若松へ着く。渡船は今でも住民の足代わりに活躍している。途中、中島があったが若戸大橋の橋脚の土台になっているという。
 この地にも仲哀天皇と神功皇后が立寄られ、この時、お供をしていた武内宿弥が、「海原の滄瞑たる、松の青々たる、我が心も若し」と言い「若松」の地名になったという。
 洲口番所は船着番所で1711-1716年に福岡藩が人や品物の出入を監視した。1751年、若松代官が廃止され黒崎代官の管轄になり、1871に廃止された。解説の石板が設置されている。
 そこから唐津街道は陸路を進む。善念寺・吉祥寺を通りエトス本町商店街に入る。道幅も広いアーケード街で再生の努力が見られる。 接客中の薬局の主人に尋ねると「隣が歴史に詳しい」と言う。前田茶園の社長は来客中であったが、店の外に出て若松宿との商店街の物語をしてくれた。
「小倉の魚町銀天街がアーケード発祥であるが、戦後の国策で補助金8割商店街2割負担で作ってもらった。車社会がシャター街にしてしまった。10年前位に国が臨時予算で無償でアケードを撤去すると希望を募った。諸般の事情で取り壊したのはわずかだった」という。「雨天には良いが、電気代はかかるし、商店が少なくなりマイナスの方が大きい。取り壊せば個人の家も再利用出来ると思うのだが、思惑や権利が絡むと国の好意も受け入れられ なかった」と複雑な事情を語った。
 以前行った直方市の街道=古町アーケード街でも前田茶園があった。後ろは立派な旅館であった。「兄が経営する茶舗で後ろの旅館を買い取る話もあったが、景気が悪くなり今は前の場所を賃借ししている」という。
 アーケド街で生き残っている御茶屋さんも多い。後藤寺の駅前アーケードの今村茶舗も土産で買った1000円のお茶は八女茶の本物で、一回で3煎まで入れても味は落ちない。普通のお茶はグルタミン酸が入り1煎はうまいが2煎目は不味く捨てる。また、今村舗へ買いに行こうと思っている。
 前田社長は若松の観光マップの作製にも携わったようで、店の奥からマップを持ってきて見せてくれた5年以上前のもので、貴重品だ。詳し歴史を物語ってくれた。
 後で当店のHPを見ると息子さんが専務で色々なイベントや情報発信を行い、若松を盛り上げようと努力されていた。
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