第106話 母と妖怪 エッセイ

文字数 1,648文字

物心ついた頃から、約束事は守るものだと、父母に仕込まれた気がする。生きていくのに必要
な約束がある。大きな約束は憲法で、小さなものは口約束である。野生動物も守るべき事は、行動で本能的に知り生きていく。定年後、帰郷し実家から数キロ離れた所に家を建てた。ある日実家に行くと、父は外出中で母が炬燵に入っていた。「家の天井裏に猫がいて、父さんに話しても、取り合ってくれない」と言う。高齢の父は耳が遠かった。昔、「猫また」という噂話があり、猫は鼠を食べるが、年をとると妖怪になり人をも食べるという。母は猫嫌いだった。「野良猫が今、床下にいる。私の悩みを誰も聴いてくれない」と辛そうに言う。「分かったわ。私が野良猫を追い出してやる」と、きっぱり言ったのは妻だった。過去、孫の比較で嫁と姑は難しく、我慢しあう関係だった。私は座敷の畳を上げ、床板を外した。妻はエプロンを着て、床下に潜り、先頭で匍匐前進した。懐中電灯で照らすと、猫の目がきらっと光った。「コラー!」と彼女は大声で叫び、棒で床下を激しく叩いた。猫は明るい方向へ飛んで逃げた。後で外を点検すると、隣接する物置の壁下に開放口があり床下へ入る場所があった。目聡い妻は「ドアを開け放した時、猫が床下に侵入したのね」と冷静に解明した。跡片付けし手を洗い、炬燵へ戻った。母は畳に座し、床下の捕り物劇の成行を感じたのだろう。お茶を出し、妻の手を握り「有難う。貴女だったらやってくれると思っていた」と涙を流した。初めて母の涙を見た。妖怪猫に、余程悩まされたのだろう。私も同情し、また嫁姑の和解に涙が滲んだ。数年後、母が逝き、その後、父も亡くなった。遺産は現金を姉妹に分け、私は100坪の土地と平屋住宅を相続した。居間を改造し事務所に作り替えた。工事で天井板を外した屋根裏を見た。欅の太い丸太梁が縦横に組み合わされ、見事な建て方である。改築後、事務所で仕事をしていると、天井から不気味な音がする。母が言う「天井裏の妖怪」か、見えない故に恐怖を覚える。「誰だ!」と大声をあげ、棒で天井を突き上げる。何かが屋根裏にいる。母が苦悩した妖怪退治を、天国に約束した。ある日、出勤するとトイレ前の板間にゴミや埃が散乱している。「変だな」と思い、見上げると、天井板の一部片側が外れぶら下がっている。「何んだ、これは?」家中を見回わるが異常なし。取敢えず、外れそうな天井板を持ち上げ、棒で支え処置をした。大工さんは、1週間後でなければ来れないという。通常は事務所入口より出入し、家の玄関は使わない。事件の4日後、家の玄関室ドアを開けるや、堪えられない悪臭が充満している。下駄箱の上に、全身の毛を逆立て、黒いサッカーボールのような妖怪が私を睨みつける。4日間閉じ込められ、絶食のドラ猫が蹲っている。頸に飛び付き噛みつく形相だ。餓死寸前、糞尿をしたのか、その臭さは凄まじい。玄関を開け放す高所から飛び降り、ぼろ布のように逃げていった。母が悩まされたドラ猫の犯行と確証を掴んだ。防衛策を実行した。車庫から裏庭へ入る木戸の下に隙間がある。板を打ち付け入れぬようにした。猫は1.5mのブロック塀でもジャンプし、昇り庭に入る。塀にプラスチック製の棘の付いた猫除けグッズを置いた。飛び乗った瞬間、腹を刺し痛がるだろう。猫の嫌がる匂いの粉末も周囲に撒いた。だが塀のプラスチック棘を抜き足さし足で、歩くドラを発見。私を見て挑戦するように「ニヤー」と鳴いた。「畜生!効果なし」次は有刺鉄線を設置した。猫が歩く現場を見ていないので効果はまだ分からない。南側からの侵入は防御できた気がする。北側にも木戸はあるが、無人の隣家との境のブロックは低く、軽く乗り越えられる。自宅と隣家の間に高さ1.8mのネットを張った。屋根にも上ってみたが進入口を発見できない。作戦の不備を衝き、ドラは庭に侵入する。約束はまだ果たせないが、まだこちらには、次の対策がある。私の姿をみるとドラは逃げる。
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