第21話 シュガーロード 長崎街道

文字数 989文字

 R2年6月に日本遺産に登録された”シュガーロード”は長崎街道での物語である。江戸時代、唯一の海外窓口だった出島に荷揚げされた砂糖は、長崎から小倉へ続く長崎街道を通り、京・大坂、江戸へと運ばれた。街道沿道は中国から菓子作りの技法なども入手しやすく、有名な銘菓が生まれた」と物語る。
 銘菓に小城羊羹が含まれている。「なぜ小城羊羹が長崎街道の名物なのか」と人は不思議に
思う。小城町は長崎街道から外れ、佐賀宿からも牛津宿からも10km離れた場所にあるのだ。05年の平成大合併は佐賀県の牛津町も小城市と合併し旧牛津宿は小城市に含まれた。
 私は牛津宿を見学後、小城町の老舗である羊羹資料館村岡総本舗に行った。創業は明治で
戦争の兵隊の菓子として需要があり全国的に有名になった。だが、江戸時代に羊羹製造はしてな
い。長崎街道と小城羊羹の結びつきには無理がある。私は「物語だから脚色が入ているかもしれない」と思った。
 小城町内には20軒の羊羹製造販売店が軒を連ねている。私は羊羹の情況を現地調査した。
村岡総本舗の近くに深川家住宅があり、27代目深川純治館長が小城歴史の蘊蓄を披露した。
同席していた僧侶も追加の説明をした。
 「小城羊羹の創始者は森永惣吉である。弟子の田中は羊羹製造に心血を注ぎ、親子3代、糖
尿病で手足を切断する程だ。味は大評判で予約なしでは手に入らない」という。
 深川氏は「シュガーロードの道程は間違いだ」と主張「長崎出島で砂糖は徳川幕府への献上物
として輸入されていた。宿場ごとに販売すれば公金流用で打ち首なる」と宣う。
 実情は「唐津が石炭を上海へ運び砂糖を上海で仕入れ、有明海から牛津川経由で牛津宿の
土場で卸していた。そこを起点に長崎宿や小倉宿の街道沿いへ砂糖は流れて行った」と力説する。
 現在の牛津駅の傍に江戸時代は土場があった。倉庫が建ち並び米や品物が持ち込まれ、牛津
宿は西の浪花と呼ばれ大層繁盛していたそうだ。
 当時は小城羊羹の存在は無かったという。
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