第3話 小倉宿の今昔

文字数 3,285文字

 長崎街道の宿場を全部、訪ねてみようという気持ちになった。私は中間市に住んでいる。北九州市に隣接し、小倉の中心地には都市高速で走れば三十分で行ける。  
十代で東京に行き、定年で故郷の中間に戻った私は、地元の事をあまり知らない。小倉城には行ったけれど、大昔の小倉宿の所在地や実態は、いよいよ分からない。長崎街道に好奇心を持つと、新たな世界へ関心もあり、行って見たいと心が躍るようになった。
ネットで探すと、宿場に興味のある人が大勢情報を公開しており、江戸時代安政の頃の小倉宿の配置図面が見つけた。小倉北区を流れる紫川に、常盤橋が掛っていた。この橋が、長崎街道の始発点といわれている。
 街道を西の方へ下って長崎までの道筋だが、藩主達が参勤交代の都度、宿泊する地区として、およそ四里(十六キロ)毎に、徳川幕府公認での宿場が設けられた。長崎街道は二十七宿場があるといわれる。小倉宿―黒崎宿―木屋瀬宿―飯塚宿―内野宿―山家宿―原田宿―田代宿―轟木宿―中原宿―神埼宿―境原宿―佐賀宿―牛津宿―小田宿―北方宿―鳴瀬宿―塩田宿―塚崎宿―嬉野宿―彼杵宿―松原宿―大村宿―永昌宿―矢上宿―日見宿―終点の長崎である。脇街道として現在の有明海沿岸の町、鹿島市、太良町を通る六角宿―高町宿―浜宿―太良宿―潟江宿を歩き永昌宿に合流する道もある。
 私の宿場巡りの計画は、車での日帰り。各宿場まで行き、土地に住む子孫の方に話しを聞き、そこでいろいろ考えたり何かを感じたりすることである。一年がかりで巡りたいと思っている。果たしてどうなることになるのか、見知らぬ人々と会え、話を聞けるのだろうか、心配でもあり、楽しみでもある。
 安政の小倉宿の地図をコピーし、早速、現在の小倉室町という所に行ってみた。宿場だった地域は、五百メートルか一キロの長さの街道である。道の両側に商売の家が並ぶ構造になっていたが、ざっと見たところ、昔の商売を続けている家はなさそうである。古家を改築され、間口の狭い今風の飲食店が所々にある。
 開店前のようだが、「久津(くづ)の葉」という店の前で、鉢植えの木を剪定している男性がいた。ここで商いをしている人のようだ。何か昔のことを耳にしたり知ったりしてないかと、声を掛けた。昔の配置図面を広げ、見てもらいながら話を聞いた。
「私は、この店舗を借り、飲食店を二十年間続けている。小倉で獲れるタコを使い、妻と二人でやっているから、長く続けることが出来た。私の出身は門司区葛葉なので、それをもじって店名を久津の葉とした」と話してくれた。
「常盤橋は、明治時代に鉄の橋が作られ、宿場に繋がっていました。その後、常盤橋の数十メートル先の上流と下流に、四車線で歩道付きの大橋が作られた。古い常盤橋は取り壊す計画だったが、地元の識者の『この橋は、長崎街道の始発点であり、歴史的に貴重な遺産である』と助言もあり、行政も得心。昔の木製の橋に復元造り替え、平成八年に完成した」と説明してくれた。
常盤橋を歩いてみると、腐りにくい木造の板や柱が使われおり、人だけが通る橋になっている。橋を向こう側に渡ると京町になる。橋の傍に、昔ながらの宣伝塔がある。実際の物は、これの倍はある大きな宣伝塔で、下部は公衆トイレだったと掲示してある。
 「久津の葉」の店主は、並びの店の説明もしてくれた。「うちの隣は四年前、フランス料理をする若い人が開店。人気があり、夕方は人が並ぶほどである」。「その手前の店は、コンクリート建物のように前面だけが加工してある。しゃれた美容院。でもうちと同じ木造で百年前の住宅なのです」と、私が知りたかった界隈の状況を語った。
 私は、店の中がどうなっているか知りたかった。店主は「どうぞ」と親切にドアーを開けてくれた。カウンターがあり、天井の梁はむき出しで、丸太の柱などは「和の歴史」を感じさせ風流である。奥にテーブル席がいくつかある。タコのコース料理は税込み3800円で、年配客のリピーターが多いという。小倉駅や繁華街に近いので、時代に合った商売で店主のやる気があれば、やっていけるということである。外に出てあたりを見ると、以前は室町商店街という鉄柱が立ち、大看板が掛けてあったという。今は鉄が腐り、道の両側に一メートルの高さで切り残されていた。戦後は「室町界わい」といった方が通りが良かったらしい。わい雑な町というのが第一印象。そのわい雑さも今は薄れているようだ。
 宿場道を更に進むと、宿場図面の中津本陣の跡が、門垣文具店という店になっている。宿場の土地の権利が役所に登録され今に続いているのだ。店のガラス戸を開けると、高齢の御主人が座っていた。昔風の文具店で、淋しそうな感じの店内だ。昔の様子を尋ねてみた。「この場所は、江戸時代は中津藩の本陣があったところです。当時、家主は大きな商売をされ繁盛していましたが、高杉晋作が小倉城を攻撃し、明治維新となり、この小倉宿は一挙に変化してしまった。小笠原藩主が小倉城を攻められ劣勢となると、藩政を執り行う場所を香春宿の方へ移動すると下命されました。藩主と昵懇の仲であった中津本陣の主人は、小笠原藩主に付き従って行くことを決断したそうです。明治となり、元本陣跡は売りに出されました。その跡地を我々の先祖が、手に入れたのです」と、過去の門垣家の歴史を語った。
 「昔は骨董品店をやっていたのですが、時代の変化を感じて、文具店を始めました。小倉に陸軍兵舎も近くにあり、商売は順調でした。最近は、川向こうの魚町銀天街などが栄え、宿場跡は、商いが衰え、今では書道の先生が御得意先で、ぼちぼちやっています。私の代で終りでしょう。娘は飯塚に嫁ぎ、帰ることはないでしょう」、と寂しそうである。
 宿場の商いは辞めても、江戸時代の子孫の方が、住み続けていそうな木造住宅もある。宿場の跡地には、再開発された場所もある。七軒の町屋を、ダイワハウスが買収し、四十一階建て小倉DCタワーを建設した。堂々と聳えるタワーだ。街道添いの一階のスペースを一部ガラス張りにし、当地の江戸時代の写真や物品を展示してある。昔の町屋生活がしのばれ懐かしいような珍しいような思いがする。建築の際、宿場歴史を偲べるよう配慮したのだろう。
 宿場に並行して南側にある賑やかな国道沿いを歩いてみた。リバーウオーク北九州という大きなショッピングモールがある。国道199号線には、車がひっきりなしに走る。歩道を歩いて行くと、明治時代の木造建物が管理状態もよさそうに残っている。「ブルーブルー小倉」という看板があり、スコーンが350円とある。中に入ると、若者の男女の衣類が陳列されている。若い男性店員が来たので、コーヒを頼み、話を聞いた。
 「東京に本店があるのですが、社長が小倉に来た折、明治時代の建物を見て気に入りました。社長は山口出身で、七十歳台。米国へ仕入れに行く人ですが、とにかく日本の古い物が好きなのです。リバーウオークの道路向いにあり、明治の頃、小倉警察署だった建物に惹かれたのです。取り壊し、駐車場にする運命にあったところ、社長は、『歴史遺産として残したい。自分が買い取りたい』と、手に入れたそうです。この建物で衣料品を販売し二十年が経ちます」と説明があった。今では福岡県の有形文化財に指定されている。
 「なかなか出来ない、良い話ですね」と、若い店員と共に私は、社長の心意気に拍手を送った。金持ちが歴史遺産に投資し、店として運営しながら古い建物を維持するのは素晴らしいアイデアであると思う。店に陳列の藍染の服も、若者に人気があるらしい。
 小倉駅から歩いて行ける旧小倉宿には、むかし八十軒超の店が軒を連ねていた。西小倉駅の近く、宿場の入出口となる「西搆口」があった。人の出入りをチェックしたという。
 小倉宿は、区割りはそのまま残されている。昔の面影はすでにないが、古い家を改装し、新たな今風の商売も、所々に根付いている。現代社会に対応しながら古き良き物は残し、逞しく生き続けていってもらいたいと心から願う。
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