第123話 中津 諭吉館 中津街道

文字数 1,023文字

中津街道の終点である中津宿を捜しに、東九州高速道路を走っていった。 九年前に買ったプリウスのナビは、新しい東九州高速がまだ未完成だったため、途中の道路や中津や宇佐のインターなどは載っていない。道無き道をナビは表示する。新しい道路のため、ついつい中津インターを通り過ぎ、宇佐インターまで行ってしまった。
 下の道を中津迄戻ることとし、取りあえず中津城を目指し走った。30分過ぎてもナビは変な道を案内する。区画や道路が変更整備され、市庁舎が、以前は中津城付近にあったが不便なためか、移転したらしい。
 中津といえば、福沢諭吉である。一万円札に肖像画あるから国中の有名人である。学問の進め、慶応義塾大がの創設者。ここまでは知っているが詳しくは知らない。とりあえず諭吉記念館にいった 。観光案内用の設備は整っている。入場券は三館共通券があると言うので、それを買った。中津城に中津歴史博物館が入場できる。中津市は、初めて来た。この先どんな興味深いことが待っているのだろうか。
 入場券売り場で「中津宿はどの辺りですか」と所在地を聞いた。「ちょっと待ってください」という。歴史に詳しそうな人が対応してくれた。色々、調べて頂いたが、「宿場というのは聞いたことがありません。歴史博物館に行かれたら分かるかもしれません」という。「え!」
 諭吉は、幕末に生まれ、明治維新を経験しているが、吉田松陰とか坂本龍馬・高杉晋作などの勤王の志士と、行動をともにしなかった。下級武士の出身であり、政治的なものより、学問の方を究めようとした。海外へ三度も渡航し、時代に先行する欧米の知識を身に着けようとした。日本で覚えた英語を欧米で使ってみたが、ちんぷんかんぷん通じなかったらしい。そこで外国に住み本場の英語を習得し、学問の進めを書いたのだろう。杉田玄白の解体新書にも拘わったという。子だくさんで八人の子供がいたが、夫々有名人になっている。東京での活躍したのだろうが、中津出身であり郷土の誉と記念館は立派ものを創設している。
 歩いて中津城がすぐである。川に面した平城で黒田官兵衛こと黒田高孝が、戦国時代に造ったという。江戸時代に、細川忠興が入城、その後小笠原長次、奥平昌成が幕末まで治めていた。川の向こうは小倉藩の領地である。
 小倉口から中津へ入ってくる。この道が中津街道であることは間違いない。すぐそばが城であり厳重に塀が築かれていたのであろう。街道は南の方へ下って行く。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み