第24話  北方宿本陣の稗田家の子孫   長崎街道 

文字数 1,013文字

北方町の道路沿いに家が並んでおり、藩主や幕府の要人が泊まった本陣跡だけが昔の儘の白壁
の化粧した姿を残してあった。
 人が住んでいそうな気配はするが、構わず垣根のない庭に入っていった。後ろから「御用ですか」と女性が声を掛けてきた。「宿場を見学しています」と言うと無害と判断したのか警戒心をとき笑顔で応対してくれた。
 本陣の稗田家の子孫の方で、結婚後名前が変わったと言いながら「父母が最近まで本陣跡に住んでいました。自費で修理するのでお金が掛かっていたようです」家の前に本陣跡と看板が掲示されているが、行政で税金を使ってもっと維持費を補助したらと感じた。
 お寺の傍に車を止めたとき、前の薬局は入り口に土嚢が一列に積んであった。「何故?」と思った。「近くの六角川が今年も洪水を起こし、ここまで水が来ました」と言う。
 街道を進むと公民館があり、壁に近辺のマップと見所が掲げてある。中に入ると元役所勤めらしい年配者が話し始めた。
 「西杵炭鉱というのがあり、前の道路は石炭を運ぶケイブルーカーが設置されていた。近くの六角川は暴れ川といい大潮の時、有明海から海水がこの北方まで逆流し上ってくる」と話す。私が北九州方面から来ましたと言うと「私は北九州市立大学を卒業したので分るが、遠賀川と六角川では性格が違う。満潮で6m海面が高くなり海水が川を逆流しくる。それに大雨が加わると、佐賀平野はフラットであり土手を越え水が舗道に溢れ、このあたりは一面水浸しとなる」。
 2階の屋根近くまで海水が上がってくるなど、北九州では想像出来ない高さである。
 大昔からこの状態だから江戸時代の人は、自然を利用し海水が上流に逆流するとき船で上流に
荷物を運び、干潮になると下って荷を有明海まで出て米や石炭を運んだのだ。
 末裔の稗田さんの言うことを証言してくれた。「川の性質が違うのだ、牛津宿で川の傍に土間があり川舟から米俵を積卸しする陶板の絵が理解できなかった。漸くその理由が分った」。
 六角川は曲がりくねっており、洪水をよく起こっていた。この付近の街道宿場も洪水が多く、鳴瀬宿や塩田宿を変更し北方宿 塚崎宿に移転したのが分る気がした。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み