第88話 家族と山に挑戦 エッセイ

文字数 1,985文字

 一度は日本一の山へ登りたいという願望があった。この年になるまで夢は実現せずじまい。もう高齢者だし無理だと諦めていた。3年前の4月、「富士山に登ってみようぜ」と埼玉に住む息子から誘いのメールがあった。前年、帰省した時、我々夫婦の話を聞いていたのだ。登山経験は無いが、「折角の息子のご好意には報いたい」と妻は乗り気である。5月初旬、私と妻は福智山に試しに登った。「コンニチワ」と下山者が声を掛けてくる。老いも若きも登山を楽しんでいる。何度も休憩し、登った900mの頂上は、風が強く気温は16度。岩陰でお握りを頬張る。近くの山や街並み、青空。地上では見られない眺望は別世界である。「富士登山、宜しく頼みます」と長男へメールを送った。登山には馴染は少ないが、経験が必要だと思い、5・6月に皿倉山・英彦山・宝満山という人気の低い山で足慣らしした。千m以上の山も必要と考えた。昔、連れて行って貰った事のある久住山1786mに7月に登った。牧の口から30分後、広場から爽やかな朝の山合に下界が見える。登山客も多く、地図に頼らず登れた。樹木に囲まれた石ころ山道を登ると噴火口の斜面に焼け岩が見える。噴き出す汗でシャツが気持ち悪い。急坂で息が切れ何度も休む。振り返ると登り下りした尾根が高々と空に突き出ている。山頂には岩とゴロ石の中、ポツンと標識が立つ。岩にシートを敷き、「良い眺めだね」と妻と感動を語る。崖下に草原と遙かに観音様の寝姿の阿蘇五山と青空がある。この地に立つ人のみ感じられるファンタジーだ。山登りの苦しさ、楽しさを少しづつ知ってきた。二千m以上の山も試したいが近隣にはない。8月初旬、隣県の祖母山を目指した。朝4時に家を出発し、8時に竹田市の登山口に着いた。登山届に遭難時の注意がある。本当の山の怖さを考えなければと、安全第一を誓った。 
 最初は渓流沿いに、1時間で楽に五合目小屋に着いた。「13時には頂上だろう」と予測した。下調べでは厳しい山だと評価された。小屋を過ぎるや急坂となり、斜面に原生林のブナやツゲの高木が鬱蒼としている。所々の枝に付く赤テープだけが目印である。登山者には会わない。1時間後、尾根で突然、10度位の冷風に晒された。山の天気は変わり易い。岩を這いロープを掴み登る。危険が一杯だが、真紅のモミジと赤黄の高木の景色が心を癒す。下る人に聞くと「朝6時から登り始めた」と言う。「も少し早く行動すべきだった」と後悔した。「1756mもある山だ。手強いけど、頑張ろう」と妻と励まし合う。熊本から合流の国見峠に11時半に着き、頂上迄2時間と表示がある。「少しペースが遅いかな」樹林の急な細道の中、9合目小屋に到着した。他グループに「下山予定のメンノツラコースはどの方向ですか」と尋ねた。「そこは迷い易い、元の道を戻った方が賢明。前年、若者が道に迷い亡くなった」と忠告された。 時刻は13時、「予定では頂上のはず。登頂は無理だ」と諦め退却を決めた。雨後の坂道は滑り易く足を取られた。薄暗くなった17時に駐車場へ辿り着き、ホッとひと安心した。旅館で資料を確認しゾッとした。メンノツラを帰っていたら闇夜の山中を二人で迷い遭難していたかも知れない。忠告は神武天皇の祖母「豊玉姫」の声だったに違いない。息子が予約した「富士登山ツアー」は、40人のメンバーで、高齢者は我々夫婦だけ。吉田口五合目から11時に登り始めた。溶岩石や岩を乗り越え八合目の山小屋に午後5時に着いた。三千mからの雲海は魔法のようだ。山小屋は狭く、高さ1m2段の板囲いに40人の寝袋が並ぶ。年金暮しの怠惰に一喝である。眠れず、一人外へ出る。漆黒の空に月が煌々と輝き、胸一杯の酸素が美味しい。午前1時、頭朦朧の中、酷寒の坂道に出る。暗闇に、懐中電灯の光点が頂上まで延々と続く。引率者が人波の遅さに「別ルートを登る」と宣言した。若者達の動きが速くなる。三千m以上は酸素が薄くなる。私は酸素欠乏で、20歩登っては息切れする。徐々に遅れ、最後尾にも抜かれた。暗闇に、長男と妻が心配して待ってくれた。妻は「もう駄目か」と思ったと言う。「死んでも登ってやる」と私は決めていた。亀のように、遅々として登った。山小屋を発ち3時間。頂上は登山者で一杯だった。朝焼け、雲海、噴火口等、厳粛な景観には「万歳」と叫びたかった。しかし疲れ果て感激の余裕もなく、残念である。久須志神社で記念の焼き印を貰い、下山となった。下山は別ルートで、酸欠も治まり、砂利と溶岩石に踵を立て滑り降りる。息切れもせず5時間で、出発点まで降りてきた。
 遠くに見える富士山は、神々しい。登る時は、山が見えず、地面だけを見ての苦行が続く。「遂に日本一の山に登った」満足感は重く心に残る。妻子のサポートで、生きている内に貴重な体験ができた。感謝感激である。
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