第81話 松江宿塩湯 中津街道

文字数 819文字

 松江宿場も多分500mの長さだったのだろう。また、元来た道を東から西の方へ戻って行った。地蔵が保存されている前に大きな石がある塞三柱大神と彫ってある。この宿で5月に角田神社の神輿がでるようで、通りの自動販売機の横に、松江祇園祭りの写真が大きく印刷された看板があった。恵比須神社が近くにあるので御輿の格納庫もありそこかと思った。 
 ”角田村中”の石碑があり読み方が気になった。ツノダ・カクタどう読むのだろうか。坂の下で庭の草取りをしていたご婦人に「角田はなんと読むのですか?」に声を掛けた。「ツダといいます。その神社から御輿がでます」と応え「この近辺の図面がありますので」と家に入った。手書きの松江宿をお腰し台から眺望した真吾画伯の作図だった。地域では手書きの宿場光景が配布されているのだろうか。
 「中津街道は元は自宅の前を走っていた。国鉄が出来、汽車を水平に走らせる為、地面を盛り上げ線路を作った。中津街道も盛り土され高くなった」という。そのため自宅は道路の3m下となった。中川みそやも同じように3m下にある。奥さんが結婚した時は、「家は藁葺き屋根で、その座敷で祝言の式を上げた。25年前に建て替え新築した」と語る。
 ご主人が帰ってこられ話に加わった。「江戸時代のご先祖は漁師であり農業もしていた。裏の海側の方に塩湯という旅館があり、海の潮を焚いて風呂にした」と話す。その近辺で馬継所の馬を飼育していたらしい。明治になり馬継所が廃止となり馬が余ったため、競馬を海辺で始めたらしい。遠方のお客は塩湯で泊まったという。
 「家の後ろが、塩屋の跡で今は空き地です。その海沿いが競馬場でした」と現場を説明して頂いた。ご主人は船会社に務められ、博多の会社に通勤されていたという、私が名刺を差し出すと本木高平(ほんきたかひら)さんからも名刺を交換してもらった。
 生れ育った宿場を愛されているのが感じられた。波除堤防の向こうは直ぐ海で松江浦という。
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