第5話 深窓の令嬢
文字数 5,129文字
昼間はあれほど暑かったのに、満月が空高く昇るとともに徐々にあたりは冷え込み始めた。日が地平線に消え去ると、そのあとに訪れる寒さを知っている人々はそそくさと家に帰ってしまった。祭りであれほどにぎやかだったメインストリートですら人影がなくなっている。
静かな路地に時折番犬の吠える声が響きわたる。
画材屋の主人から借りた手押し車に画材や桶を山積みにして、麗射は明かりの消えた街角を月明かりを頼りによたよたと美術工芸院めざして歩いていた。
深々と更けてゆく夜とともに、彼の体の芯まで染み入るような寒さが足元から這い上がってくる。
砂漠の放浪で空腹には慣れていると言っても、最後に固形物を食べたのは昼前、近くにいた商人からめぐんでもらった乾燥ナツメヤシの実だけだ。流石に若い麗射と言えども体力が底をつきかけている。目だけをギラギラさせた麗射を動かしているのはもはや執念だけであった。
美術工芸院への入学金だけは肌身離さず持っていた麗射だが、すでにそれはみな姿を変えて手押し車の前に載っている。売れるものはすべて売り払い、彼の手元にはびた一文残っていない。
なにしろ今から彼が挑むのはすべてをかけた乾坤一擲の大勝負なのだ。学院に入学できないということは、麗射にとって砂漠で行き倒れるも同然、先のことなど考える余裕はない。
絶えず足踏みをしていないと辛いほど、寒さが厳しくなってきた。がちがちと歯の根が合わない。少しでも温かい空気を逃がさないように、麗射はマントを体に巻き付けた。
ふと、麗射は足を止めた。ここは正門から遠い、学院の外れにあたる場所である。あの壮麗な建物ではなく、物置に使っているのか日干し煉瓦で作られた低い倉庫が連なっているのが塀の外から見えた。昼間街をふらついていた時に、この塀の前の広い道を市場に向かう人々が歩いているのを見ている。昼間の人通りは申し分ない場所だ。
周りを見回すと、周囲には石造りの家が立ち並ぶだけで、麗射の邪魔をしそうな警備の建物はなさそうだった。
麗射は鋭い目で学院を取り囲む白くて滑らかな漆喰の塀をじっと眺めた。
最初に何をするべきかはわかっている。
彼はおもむろに、練り上げた地塗り用の粉を両手ですくいとった。
べっちゃりと壁に塗り付ける。
白い壁に白い隆起ができた。
今度はそれを手にした画材用のナイフで波打つように伸ばしていく。
そして一心不乱に塗り付けては削り、縦横無尽に凹凸を作っていく。
髪の毛のように繊細に、嵐のように大胆に。波のように渦のように、落とし穴のように――。
麗射はもう寒さも感じていない。
しばらくすると、まるで壁が何か楽器を奏でているかのように、変わり始めた。
一番鳥がオアシスに朝を告げる。
何遮るものもない砂漠の朝は早い。冷え切った路地にも紅色の朝日が差し込んできた。
どこからともなくガラガラと窓を開ける音や、ざわめきが聞こえてくる。
「おい、若いの。何をしているんだい。この壁にいたずら書きした者は刑罰が科せられるんだよ」
市場に行く途中だろう、天秤棒に果物を盛った商人らしき男が通りかかって一心不乱に壁に顔料を塗りつける麗射に声をかけた。
「悪戯ならこんなに堂々としていませんよ。これは入学試験なんです」
すました顔で麗射が説明する。昨夜必死で考えた言い訳だ。
「入学試験? ああ、そういえば春季第一日目は美術工芸学院の試験だなあ」
男はめったやたらに顔料がぶちまけられた白い漆喰の壁を見て首を傾げた。
「それにしても、こんなに早朝から試験をするのかい」
「俺だけ特例なんです。絵の種類が特殊なんで、特別に早く制作を始めていいってことになってるんです」
商人は気の毒そうな表情で麗射と壁を交互に見た。
「悪いけど、ただのいたずら描きのほうがよっぽどーー」
「これはまだ下書きなんです」
顔料のしぶきを浴びてまるで極楽鳥のように全身色とりどりの麗射が得意げに微笑んだ。しかし落ちくぼんだ目とこけた頬のため、まるで冥界の住人のように見える。
「今からが本番です。おじさんも一発いかがですか?」
「え? わし?」
狂気にも似た目の色で麗射が微笑む。
「俺の絵は人と違って、通りすがりの見知らぬ人々とで作り上げていく絵なんです。その工程も芸術っていうか――」
麗射の説明を親父は困ったような表情で聞いている。
「人生、いろいろなことがあるでしょう。口に出せない心の叫びをこの壁にぶつけるんです。思いっきり、ほらこのように」
麗射は泥のように練り上げられた真っ赤な顔料を手で救い上げると玉のように握った後、振りかぶって勢いよく壁に投げつけた。
様々な凹凸のついた壁に投げつけられた顔料は、吹き出る血潮のような軌跡を描いて壁を鮮やかに染めた。
「ほう。しかしなんとも変わった作風じゃのう」
「色を付けてくださいと言っても、人それぞれです。面白いことに、投げて色を乗せるだけの行為なのにそこに様々な人生がにじみ出るんですよ」
「人生ねえ――」
「あなたのこれまでの生きざまを爆発させてください」
果物売りの親父と言えども、さすが美術の都の住人ある。それらしい顔つきで再び麗射の壁画を鑑賞し始めた。
「この絵には、ちょっと緑が足らないようだな」
「どこにですか、是非このつまらない絵にあなたの喝を入れてやってくださいよ」
「まあ、是非というなら入れてやってもいいが、本当にこの壁に描いて大丈夫なんだろうな」
「ええ、けっしてご迷惑はおかけしません」
もちろん、落書きの咎 は麗射がすべてひっかぶるつもりである。
そのころには市場に向かう人がちらほらと道に姿を見せ始めていた。皆一様にその異様な、絵とも落書きともつかぬ造形物の前で足を止めて、ざわめきながら麗射と親父の方を見ている。
「さあ、どうぞ」
親父は神妙な顔で緑の桶に手を突っ込む。そして手で顔料を二、三回もてあそぶと、次の瞬間思いっきり壁に投げつけた。
それまでの調和を乱すように壁のど真ん中に無遠慮に緑が炸裂した。周りにできていた人垣がおお、とばかりにどよめく。
「すかっとして気分がいいな。なかなかいい位置にきまっているではないか」
親父は満足げに壁を眺める。
「あ、この石鹸と水で手を洗ってください。顔料がとれますから」
麗射は水の入った桶を差し出した。
「すまんな。しかし、この緑が入って絵が引き立ったと思わんか」
親父の自画自賛に麗射はにっこりとうなずく。
「素晴らしい一発でしたね」
「ああ、今はしがない果物売りだが俺も若い頃は画家になって一発当ててやろうかと思っていた頃もあるんだよ。今度お前に絵を教えてやってもいいぞ」
鼻高々の親父を押しのけるように群衆の一人が会話に割り込んできた。
「おい、若いの。これはなんの見せものだ」
麗射はここぞとばかりに群衆のほうに顔を向けて声を上げた。
「ああ、皆さん。入学試験に是非ご協力をお願いします。俺の絵は皆さんの協力で完成するんです。好きな絵の具をこの絵の好きなところに好きなように投げつけてください」
「これが絵か?」
突っ込みの言葉に、群衆がどっと笑う。
「ばかやろう、芸術だよ、芸術」
さきほどまでこの絵を馬鹿にしていたはずの果物屋の親父が顔を赤くして怒鳴り返した。
「じゃあ、俺は黄色。ぱっと明るくしようじゃないか」
割り込んできた男が黄色の顔料をすくいとると無造作に投げつけた。黄色の泥玉は壁にぶつかる前にぐしゃりと潰れて力ない噴水のような軌道を描いた。しかし、その無作為の飛び散り方が案外面白く、群衆と共に麗射も唸りを上げた。
「いいねえ、なんだか面白れえな」
すでに男の後にはずらりと列ができている。
「色を混ぜてもいいの?」
何かの売り子だろうか、首から貝殻の首飾りをかけた華奢な女性が目を輝かせて顔料を選んでいる。
「あ、いいですけど混ぜるときには濁らないようにこっちの桶に取り分けて使ってください。鮮やかな色が使いたい人もいますから」
女性は赤と青の顔料を両手にすくい取ると、砂漠の風紋を思わせる凹凸の上に横から流すように放り投げる。
赤と青のしぶきが混ざり、夕闇せまる砂漠のような美しい紫の斑点がリズミカルに浮かび上がった。
群衆は再びどよめいた。女性は顔を赤らめると、手も洗わずにそそくさと群衆の中に消えていった。
何人かが顔料を壁にぶつけるうちに、絵を取り囲んでいた者たちが次は自分だとばかり、我先に桶に手を突っ込み始めた。
麗射はにっこりと笑って叫ぶ。
「順番なんてないんです。皆さん好きなところに好きなだけ色を付けて下さい」
麗射の言葉と共に人垣が崩れ、みな我も我もと壁に色を投げ始めた。
日頃のうっ憤を晴らすもの。好奇心で投げつける者。己の中の美を表現するもの。
壁に色の爆発が起こる。意図しない偶然が醸し出す色のせめぎあいは、絵を描く者からすれば常識はずれの配置や色合いであった。しかしそこには麗射が見たこともない、宝箱をひっくり返したような面白さがあった。
「いいですねえ、映えましたよ」
「おおっ、激しい。情熱的ですね」
麗射の掛け声に煽られた人々は気を良くして次々と色をまき散らす。それを見て通りがかりの者も物珍しそうにその輪の中に入ってきた。見る見るうちに壁は賑やかな色の競演で埋まっていく。
最初に分厚く塗られていた凹凸のおかげで、顔料が滴り落ちたりくぼみに溜まったり、実にさまざまな表情が現れている。ぱっと見にはわからないが、この作品の意図しない面白さを支えているのは、考え抜かれた下地の造形であった。
麗射はほぼ完成に近い壁画を見てうなずく。
「いいね、いいね。面白いし、美しい。だけど」
だけど、何かが足らない。
絵画には焦点が必要だ。見るものの視線が思わず絵の中を流れて吸い込まれるように、なにか目を導く最後の一点、アクセントが欲しい。
あそこらへんに何か――。
麗射は足元に残った顔料を見た。
濁らないように注意していたのだが、たくさんの人々が、次々と手を突っ込んだため、残り少なくなった顔料はどれも濁って、目を引いてくれるような色がない。
「しまった、最後の調整用に最初に少し絵の具を取り分けて残しておくべきだった」
悔やんでも遅い。
ため息をついた、その時。
麗射の頭上を何かが放物線を描いて飛び越えた。
それは彼が焦点を置きたかった部分に的確に当たって飛び散る。
朝の光にきらきらと輝く、この、このきらめきは――。
麗射は息を飲みこんだ。
――まごうことない深窓の令嬢!
昨日画材屋で涙を呑んであきらめた銀色の顔料が、まさにここぞという位置で流れ星か羽のような形で飛び散って、絵に躍動を与えている。広い面積ではないがその確かな存在感のため、絵の何処を見ても視線はおのずから流れるように銀の光の中に収束していった。そこはちょうど背部に青が塗布された部分であり、青に重なった銀色はあたりに広がる砂漠の色を彷彿とさせた。
読みは間違っていなかった。深窓の令嬢はやはり大化けして、こんなにもあでやかに豪華絢爛に生まれ変わるのだ。
しかし、この量。一塩板どころの話ではない。
麗射は慌てて顔料の塊が飛んできた後方を振り向く。
彼の目の端に一瞬、群衆の中から踵を返して立ち去る華奢な人影が映った。
姿は良く見えないが、肩までのまっすぐな髪がふわりと揺れるのが垣間見えた。
それは、白金のようなつやのある銀色。
「あ、あのっ」
追おうとした麗射の襟首がいきなり掴まれた。
「何するんだ」
振り向くと同時に、麗射は絵の具で塗りたくられた壁の上に殴り飛ばされる。
厚塗りされた絵の具に麗射の体がめり込み、人型に凹んだ。
群衆が叫び声をあげて散り散りに去っていく。
朦朧とした麗射の目に、都の警備兵達の姿が映った。
「美術工芸学院の壁に落書きをして、どんな罰になるかわかってるんだろうな」
警備兵が怒鳴った。
「牢獄で重労働の上、オアシス追放だ」
学院を取り囲むこの魅力的な白い壁が汚れもなくずっと白いままである理由。それはきっと、汚した時に降りかかる罰が重いから――。
なるほど。
塀の下に崩れ落ちた麗射は、妙に納得しながらそのまま空腹と疲れで意識を失った。
警備兵に引きずられながら連行される彼の顔は青く腫れあがり――、だがしごく満足げに微笑んでいた。
静かな路地に時折番犬の吠える声が響きわたる。
画材屋の主人から借りた手押し車に画材や桶を山積みにして、麗射は明かりの消えた街角を月明かりを頼りによたよたと美術工芸院めざして歩いていた。
深々と更けてゆく夜とともに、彼の体の芯まで染み入るような寒さが足元から這い上がってくる。
砂漠の放浪で空腹には慣れていると言っても、最後に固形物を食べたのは昼前、近くにいた商人からめぐんでもらった乾燥ナツメヤシの実だけだ。流石に若い麗射と言えども体力が底をつきかけている。目だけをギラギラさせた麗射を動かしているのはもはや執念だけであった。
美術工芸院への入学金だけは肌身離さず持っていた麗射だが、すでにそれはみな姿を変えて手押し車の前に載っている。売れるものはすべて売り払い、彼の手元にはびた一文残っていない。
なにしろ今から彼が挑むのはすべてをかけた乾坤一擲の大勝負なのだ。学院に入学できないということは、麗射にとって砂漠で行き倒れるも同然、先のことなど考える余裕はない。
絶えず足踏みをしていないと辛いほど、寒さが厳しくなってきた。がちがちと歯の根が合わない。少しでも温かい空気を逃がさないように、麗射はマントを体に巻き付けた。
ふと、麗射は足を止めた。ここは正門から遠い、学院の外れにあたる場所である。あの壮麗な建物ではなく、物置に使っているのか日干し煉瓦で作られた低い倉庫が連なっているのが塀の外から見えた。昼間街をふらついていた時に、この塀の前の広い道を市場に向かう人々が歩いているのを見ている。昼間の人通りは申し分ない場所だ。
周りを見回すと、周囲には石造りの家が立ち並ぶだけで、麗射の邪魔をしそうな警備の建物はなさそうだった。
麗射は鋭い目で学院を取り囲む白くて滑らかな漆喰の塀をじっと眺めた。
最初に何をするべきかはわかっている。
彼はおもむろに、練り上げた地塗り用の粉を両手ですくいとった。
べっちゃりと壁に塗り付ける。
白い壁に白い隆起ができた。
今度はそれを手にした画材用のナイフで波打つように伸ばしていく。
そして一心不乱に塗り付けては削り、縦横無尽に凹凸を作っていく。
髪の毛のように繊細に、嵐のように大胆に。波のように渦のように、落とし穴のように――。
麗射はもう寒さも感じていない。
しばらくすると、まるで壁が何か楽器を奏でているかのように、変わり始めた。
一番鳥がオアシスに朝を告げる。
何遮るものもない砂漠の朝は早い。冷え切った路地にも紅色の朝日が差し込んできた。
どこからともなくガラガラと窓を開ける音や、ざわめきが聞こえてくる。
「おい、若いの。何をしているんだい。この壁にいたずら書きした者は刑罰が科せられるんだよ」
市場に行く途中だろう、天秤棒に果物を盛った商人らしき男が通りかかって一心不乱に壁に顔料を塗りつける麗射に声をかけた。
「悪戯ならこんなに堂々としていませんよ。これは入学試験なんです」
すました顔で麗射が説明する。昨夜必死で考えた言い訳だ。
「入学試験? ああ、そういえば春季第一日目は美術工芸学院の試験だなあ」
男はめったやたらに顔料がぶちまけられた白い漆喰の壁を見て首を傾げた。
「それにしても、こんなに早朝から試験をするのかい」
「俺だけ特例なんです。絵の種類が特殊なんで、特別に早く制作を始めていいってことになってるんです」
商人は気の毒そうな表情で麗射と壁を交互に見た。
「悪いけど、ただのいたずら描きのほうがよっぽどーー」
「これはまだ下書きなんです」
顔料のしぶきを浴びてまるで極楽鳥のように全身色とりどりの麗射が得意げに微笑んだ。しかし落ちくぼんだ目とこけた頬のため、まるで冥界の住人のように見える。
「今からが本番です。おじさんも一発いかがですか?」
「え? わし?」
狂気にも似た目の色で麗射が微笑む。
「俺の絵は人と違って、通りすがりの見知らぬ人々とで作り上げていく絵なんです。その工程も芸術っていうか――」
麗射の説明を親父は困ったような表情で聞いている。
「人生、いろいろなことがあるでしょう。口に出せない心の叫びをこの壁にぶつけるんです。思いっきり、ほらこのように」
麗射は泥のように練り上げられた真っ赤な顔料を手で救い上げると玉のように握った後、振りかぶって勢いよく壁に投げつけた。
様々な凹凸のついた壁に投げつけられた顔料は、吹き出る血潮のような軌跡を描いて壁を鮮やかに染めた。
「ほう。しかしなんとも変わった作風じゃのう」
「色を付けてくださいと言っても、人それぞれです。面白いことに、投げて色を乗せるだけの行為なのにそこに様々な人生がにじみ出るんですよ」
「人生ねえ――」
「あなたのこれまでの生きざまを爆発させてください」
果物売りの親父と言えども、さすが美術の都の住人ある。それらしい顔つきで再び麗射の壁画を鑑賞し始めた。
「この絵には、ちょっと緑が足らないようだな」
「どこにですか、是非このつまらない絵にあなたの喝を入れてやってくださいよ」
「まあ、是非というなら入れてやってもいいが、本当にこの壁に描いて大丈夫なんだろうな」
「ええ、けっしてご迷惑はおかけしません」
もちろん、落書きの
そのころには市場に向かう人がちらほらと道に姿を見せ始めていた。皆一様にその異様な、絵とも落書きともつかぬ造形物の前で足を止めて、ざわめきながら麗射と親父の方を見ている。
「さあ、どうぞ」
親父は神妙な顔で緑の桶に手を突っ込む。そして手で顔料を二、三回もてあそぶと、次の瞬間思いっきり壁に投げつけた。
それまでの調和を乱すように壁のど真ん中に無遠慮に緑が炸裂した。周りにできていた人垣がおお、とばかりにどよめく。
「すかっとして気分がいいな。なかなかいい位置にきまっているではないか」
親父は満足げに壁を眺める。
「あ、この石鹸と水で手を洗ってください。顔料がとれますから」
麗射は水の入った桶を差し出した。
「すまんな。しかし、この緑が入って絵が引き立ったと思わんか」
親父の自画自賛に麗射はにっこりとうなずく。
「素晴らしい一発でしたね」
「ああ、今はしがない果物売りだが俺も若い頃は画家になって一発当ててやろうかと思っていた頃もあるんだよ。今度お前に絵を教えてやってもいいぞ」
鼻高々の親父を押しのけるように群衆の一人が会話に割り込んできた。
「おい、若いの。これはなんの見せものだ」
麗射はここぞとばかりに群衆のほうに顔を向けて声を上げた。
「ああ、皆さん。入学試験に是非ご協力をお願いします。俺の絵は皆さんの協力で完成するんです。好きな絵の具をこの絵の好きなところに好きなように投げつけてください」
「これが絵か?」
突っ込みの言葉に、群衆がどっと笑う。
「ばかやろう、芸術だよ、芸術」
さきほどまでこの絵を馬鹿にしていたはずの果物屋の親父が顔を赤くして怒鳴り返した。
「じゃあ、俺は黄色。ぱっと明るくしようじゃないか」
割り込んできた男が黄色の顔料をすくいとると無造作に投げつけた。黄色の泥玉は壁にぶつかる前にぐしゃりと潰れて力ない噴水のような軌道を描いた。しかし、その無作為の飛び散り方が案外面白く、群衆と共に麗射も唸りを上げた。
「いいねえ、なんだか面白れえな」
すでに男の後にはずらりと列ができている。
「色を混ぜてもいいの?」
何かの売り子だろうか、首から貝殻の首飾りをかけた華奢な女性が目を輝かせて顔料を選んでいる。
「あ、いいですけど混ぜるときには濁らないようにこっちの桶に取り分けて使ってください。鮮やかな色が使いたい人もいますから」
女性は赤と青の顔料を両手にすくい取ると、砂漠の風紋を思わせる凹凸の上に横から流すように放り投げる。
赤と青のしぶきが混ざり、夕闇せまる砂漠のような美しい紫の斑点がリズミカルに浮かび上がった。
群衆は再びどよめいた。女性は顔を赤らめると、手も洗わずにそそくさと群衆の中に消えていった。
何人かが顔料を壁にぶつけるうちに、絵を取り囲んでいた者たちが次は自分だとばかり、我先に桶に手を突っ込み始めた。
麗射はにっこりと笑って叫ぶ。
「順番なんてないんです。皆さん好きなところに好きなだけ色を付けて下さい」
麗射の言葉と共に人垣が崩れ、みな我も我もと壁に色を投げ始めた。
日頃のうっ憤を晴らすもの。好奇心で投げつける者。己の中の美を表現するもの。
壁に色の爆発が起こる。意図しない偶然が醸し出す色のせめぎあいは、絵を描く者からすれば常識はずれの配置や色合いであった。しかしそこには麗射が見たこともない、宝箱をひっくり返したような面白さがあった。
「いいですねえ、映えましたよ」
「おおっ、激しい。情熱的ですね」
麗射の掛け声に煽られた人々は気を良くして次々と色をまき散らす。それを見て通りがかりの者も物珍しそうにその輪の中に入ってきた。見る見るうちに壁は賑やかな色の競演で埋まっていく。
最初に分厚く塗られていた凹凸のおかげで、顔料が滴り落ちたりくぼみに溜まったり、実にさまざまな表情が現れている。ぱっと見にはわからないが、この作品の意図しない面白さを支えているのは、考え抜かれた下地の造形であった。
麗射はほぼ完成に近い壁画を見てうなずく。
「いいね、いいね。面白いし、美しい。だけど」
だけど、何かが足らない。
絵画には焦点が必要だ。見るものの視線が思わず絵の中を流れて吸い込まれるように、なにか目を導く最後の一点、アクセントが欲しい。
あそこらへんに何か――。
麗射は足元に残った顔料を見た。
濁らないように注意していたのだが、たくさんの人々が、次々と手を突っ込んだため、残り少なくなった顔料はどれも濁って、目を引いてくれるような色がない。
「しまった、最後の調整用に最初に少し絵の具を取り分けて残しておくべきだった」
悔やんでも遅い。
ため息をついた、その時。
麗射の頭上を何かが放物線を描いて飛び越えた。
それは彼が焦点を置きたかった部分に的確に当たって飛び散る。
朝の光にきらきらと輝く、この、このきらめきは――。
麗射は息を飲みこんだ。
――まごうことない深窓の令嬢!
昨日画材屋で涙を呑んであきらめた銀色の顔料が、まさにここぞという位置で流れ星か羽のような形で飛び散って、絵に躍動を与えている。広い面積ではないがその確かな存在感のため、絵の何処を見ても視線はおのずから流れるように銀の光の中に収束していった。そこはちょうど背部に青が塗布された部分であり、青に重なった銀色はあたりに広がる砂漠の色を彷彿とさせた。
読みは間違っていなかった。深窓の令嬢はやはり大化けして、こんなにもあでやかに豪華絢爛に生まれ変わるのだ。
しかし、この量。一塩板どころの話ではない。
麗射は慌てて顔料の塊が飛んできた後方を振り向く。
彼の目の端に一瞬、群衆の中から踵を返して立ち去る華奢な人影が映った。
姿は良く見えないが、肩までのまっすぐな髪がふわりと揺れるのが垣間見えた。
それは、白金のようなつやのある銀色。
「あ、あのっ」
追おうとした麗射の襟首がいきなり掴まれた。
「何するんだ」
振り向くと同時に、麗射は絵の具で塗りたくられた壁の上に殴り飛ばされる。
厚塗りされた絵の具に麗射の体がめり込み、人型に凹んだ。
群衆が叫び声をあげて散り散りに去っていく。
朦朧とした麗射の目に、都の警備兵達の姿が映った。
「美術工芸学院の壁に落書きをして、どんな罰になるかわかってるんだろうな」
警備兵が怒鳴った。
「牢獄で重労働の上、オアシス追放だ」
学院を取り囲むこの魅力的な白い壁が汚れもなくずっと白いままである理由。それはきっと、汚した時に降りかかる罰が重いから――。
なるほど。
塀の下に崩れ落ちた麗射は、妙に納得しながらそのまま空腹と疲れで意識を失った。
警備兵に引きずられながら連行される彼の顔は青く腫れあがり――、だがしごく満足げに微笑んでいた。