第12話 掌魂の誓い
文字数 3,559文字
赤茄子の花が咲くころ、なんと麗射と畑を作る者が多数派になった。獄吏からの追加の苗の差し入れがあり、畑には甘瓜 や薬草の畝、ブドウ棚もできた。雷蛇の取り巻きが一人消え、二人消え。労務から帰るときにふてくされた雷蛇が一人で歩くことが多くなっていった。
ある日麗射は苗をくれた金髪の若い警吏に声をかけた。皆を率いて畑作を軌道に乗せた麗射に対しては、獄吏達も妙な尊敬を抱いているらしく、最近は対等に口をきいてくれている。
「作物ができたら、市場で売ってもらおうと思うんだが、その前にこんなものはどうだ」
彼が差し出したのはナツメヤシの葉で作ったかごやうちわだった。
「囚人の中に細工が上手なものもいるらしい。牢の中の手慰みだが時間がたっぷりあるだけ丁寧な作りができる。これも売り物になりそうだ」
獄吏は上司の獄長に相談してみると言って持って行ったが、残念そうに戻ってきた。
「一言の元に却下されたよ。現場には出ない人だからな」
麗射は入学願書を破り捨てたあの冷酷な笑顔を思い出した。おそらくこの畑事業も獄吏達が獄長をさんざん説得してやっているのであろう、麗射はそれ以上話を進めることはしなかった。
しばらくして、出入りのなかった牢の中に、1人の囚人が入ってきた。この獄は現在十数人が一室に詰め込まれ、飽和状態である。閉鎖されたオアシスでは犯罪が少ない上に、軽犯罪であればむち打ち程度で釈放されるので、収獄されるのは見せしめのため刑に服する必要がある囚人、極悪すぎて表には出せない囚人、取り調べが必要など何らかの理由がある囚人、に限られていた。この男は市場で盗みを働いたようで、捕まる前に暴れて警備兵にけがを負わせたのがあだで牢に入れられることになったようだ。
麗射は新入りの報に目を輝かせた。入ってきた男にいきなり話しかける。
「市場で捕まったのか?」
男はうるさそうに首を縦にする。
「市場。ああ、なんて素晴らしいんだ。この日を待っていたんだ」
麗射は満面の笑みを浮かべて、顔をそむける男の前に立ちはだかるように移動する。
「市場の壁は見たか?」
「はあ?」
苦虫をかみつぶしたような顔で麗射を睨む男。
もちろん麗射は一向に気にしていない。
「市場に面した美術工芸学院の壁の絵はどうなった。皆絵を見ているか? 評判はどうだ」
「絵?」男は怪訝そうに麗射の方を向く。「ねえよ、そんなもん」
期待に満ちていた麗射の顔がこわばった。
「そんなはずはない。徐春末日が明けた日に俺が作った――」
「ああ、あの落描きか」さすがに噂になっていたのか男はうなずいた。
「落書きされた壁はすぐに取り壊されて跡形もなくなった」
え。
麗射は固まった。「誰もあの絵を見てないのか」
「見てないだろ」男はこともなげに言った。「今は元通りの白い壁だ」
男は抜け殻となって立ちすくむ麗射の脇をすり抜け、離れた場所にふてくされた顔で座り込んだ。
取り壊された。
元通りの白い壁。
麗射は壁画が噂になって美術工芸学院の入試選考員の誰かが見てくれることに一縷の望みを託していた。彼の芸術を解ってくれる人は少ないが、わかる人の心には突き刺さるはずだとひそかに自信をもっていた彼は、厳然たる事実を前に呆然と立ちすくんだ。
「麗射、元気を出せよ」肩に手を置いたのは耕佳である。
「学院だけが、芸術家への道ではない。美は、自らの生き方にあるんだ」
「自らの生き方――」
麗射は力なくうなずいた。
まるで皮をはがされた兎。痛々しいほど消沈した麗射に、誰もかける言葉を持たなかった。
数日黙りこくってすごした後に、麗射は徐々に普段の彼に戻っていった。
しかし、壁がないことを聞く前と後では彼の心の中で何かが変わっていた。よりどころを失った心は宙に浮き、行き先のない情熱が彼の心を悪戯に焦がした。
一月後、待望の赤茄子が収穫された。
獄吏たちの好意で、水で冷たく冷やされた赤茄子の山が房に届けられる。
ざるにもられた小さな赤い実ははちきれんばかりの艶めいた肌に水滴をまとい、囚人たちをどよめかせた。
「ま、まずは……」
囚人たちはチラリと雷蛇を見る。しかし、雷蛇はそっぽを向いたままだ。
「じゃあ、麗射」
麗射は首を横に振った。
「皆が一つずつ持って、一斉にかぶりつこうぜ」
言葉が終わるか終わらないうちに手が赤茄子に伸びて、ざるに高く盛られた赤茄子は雷蛇以外のそれぞれの手に握られた。
「用意はいいか、食うぜ!」
麗射の合図とともに皆一斉にはちきれんばかりの皮に歯を立てる。
かぶりついたとたん、ぶしゅっと甘酸っぱい汁が口にあふれ、口いっぱいに広がっていく。皮の裏の甘みはさらに強く、かみしめると鼻にさわやかな芳香が立ち上った。
獄の中は歓声で満たされた。
袋一杯担いでいった獄吏達も、今頃歓声を上げているに違いない。
しかし雷蛇は皆がいくら勧めても目の前に出された山盛りの赤茄子に手を付けようとしなかった。腕組みをしてそっぽを向いている。
「お頭、美味いぜこれは」
雷蛇の隣の囚人は今まで畝を何度となく潰した輩だったが、勧められるままに赤茄子を節操なく口に放り込んだ。「こんなうめえもん食ったことがねえ」
あふれ出した赤い汁が口の端を伝う。
その様子を見て、反発していた雷蛇の喉がごくりと動いた。
「雷蛇、せっかくだから食ってくれよ」
麗射も声をかける。
「ほどこしなんぞまっぴらだ。俺は情けなんか受けねえ」
雷蛇は口をへの字に曲げる。
「兄者、争いはもうよそう」
麗射は雷蛇の前にひざまずいて宝石のような赤茄子をザルごと差し出した。
雷蛇のすきとおったザクロ色の目と麗射の黒い目が向き合った。
次の瞬間、雷蛇がいきなり赤茄子をわしづかみにして口に入れた。大きな目がさらに大きくなる。
ごくりと飲み込むと、また、手一杯ひっつかんで口いっぱいにほおりこむ。噛むと同時に頬が大きく膨らみ、眉間にしわが寄る。
獄の中の視線が雷蛇に集中していた。皆固唾をのんで雷蛇の様子を見守る。
ごくりと飲み込んだ後、苦虫をかみつぶした顔が一気に崩れた。
「おい、美味いな麗射。これは美味い」
雷蛇が笑いながら麗射の背中を思いっきり叩いた。バランスを崩し獄の奥まで吹っ飛んだ麗射に、牢獄は大きく湧いた。
大量の赤茄子は人々の空腹も、心も満たしていった。
心行くまで食べた後に、雷蛇はおもむろに立ち上がった。のしのしと歩いて麗射の前に立った。
「手を出せ、麗射」
戸惑う麗射にいら立ったのか雷蛇が麗射の胸倉をつかんだ。何が起こるのか、一気に緊張感が高まる。
麗射を助けようと腰を浮かした走耳の肩を、幻風がそっと押さえた。
「手を出せって言ってるんだよ」
「手? 手はここだが」
おそるおそる麗射が右手を上げる、すかさず雷蛇の左手がその手首をつかんで引き寄せた。
ざわっと、牢内が揺れる。
雷蛇の顔が麗射の鼻先に近づいた。鬼のような目がぎらりと光る。
「お前は大した奴だ。掌魂の誓いを立てさせてもらうぞ」
麗射の返答も聞かず、いきなり鋭い音とともに彼の右手の掌に雷蛇の拳が突き刺さった。
岩がぶつかったような痛みが炸裂し、麗射は声も出せずに右手を抱え込むと体を曲げて床に崩れ落ちた。予想外の展開にみんなあっけにとられて口を半開きにしている。
「天帝に誓って俺の命はお前のためにあり、お前が命じるときにはすべてを捨ててこの身を献じるだろう」
悶絶する麗射の頭の上から、野太い声が降ってきた。
「これから、お前が俺の心の兄貴だ、おい野郎ども、麗射に無礼を働く奴は俺が容赦をしねえからな」
雷蛇は高らかに宣言した。
「いや、一番無礼だったのは自分だから」
走耳のつぶやきに、隣で幻風が笑いをこらえて小刻みに震えている。
どうやら雷蛇は麗射の意向にはお構い無しに、心の弟になると決めたようだった。
「ならば雷蛇、さっそくお前にお願いをしていいか」
痛みでまだ顔をゆがめながら麗射が雷蛇に呼びかけた。
「なんだ、兄貴。なんでも言ってくれ」
それでは、とばかり麗射は軽く息を吸い込むと雷蛇に命じた。
「銀老草を噛むのはやめてくれ。あの草は心をむしばむ」
「え」いきなりの難題に雷蛇は固まった。「あれを、止めるのか」
「今、俺の命じたことはやると言ったぞ。なあ」
麗射は周りを見回した。囚人たちは皆うなずいている。
「わ、わかったよ。参ったな」頭をかく雷蛇の姿に、笑いが沸き上がった。
この日から牢は一丸となった。
麗射が獄に繋がれてから、早2か月がたとうとしていた。
ある日麗射は苗をくれた金髪の若い警吏に声をかけた。皆を率いて畑作を軌道に乗せた麗射に対しては、獄吏達も妙な尊敬を抱いているらしく、最近は対等に口をきいてくれている。
「作物ができたら、市場で売ってもらおうと思うんだが、その前にこんなものはどうだ」
彼が差し出したのはナツメヤシの葉で作ったかごやうちわだった。
「囚人の中に細工が上手なものもいるらしい。牢の中の手慰みだが時間がたっぷりあるだけ丁寧な作りができる。これも売り物になりそうだ」
獄吏は上司の獄長に相談してみると言って持って行ったが、残念そうに戻ってきた。
「一言の元に却下されたよ。現場には出ない人だからな」
麗射は入学願書を破り捨てたあの冷酷な笑顔を思い出した。おそらくこの畑事業も獄吏達が獄長をさんざん説得してやっているのであろう、麗射はそれ以上話を進めることはしなかった。
しばらくして、出入りのなかった牢の中に、1人の囚人が入ってきた。この獄は現在十数人が一室に詰め込まれ、飽和状態である。閉鎖されたオアシスでは犯罪が少ない上に、軽犯罪であればむち打ち程度で釈放されるので、収獄されるのは見せしめのため刑に服する必要がある囚人、極悪すぎて表には出せない囚人、取り調べが必要など何らかの理由がある囚人、に限られていた。この男は市場で盗みを働いたようで、捕まる前に暴れて警備兵にけがを負わせたのがあだで牢に入れられることになったようだ。
麗射は新入りの報に目を輝かせた。入ってきた男にいきなり話しかける。
「市場で捕まったのか?」
男はうるさそうに首を縦にする。
「市場。ああ、なんて素晴らしいんだ。この日を待っていたんだ」
麗射は満面の笑みを浮かべて、顔をそむける男の前に立ちはだかるように移動する。
「市場の壁は見たか?」
「はあ?」
苦虫をかみつぶしたような顔で麗射を睨む男。
もちろん麗射は一向に気にしていない。
「市場に面した美術工芸学院の壁の絵はどうなった。皆絵を見ているか? 評判はどうだ」
「絵?」男は怪訝そうに麗射の方を向く。「ねえよ、そんなもん」
期待に満ちていた麗射の顔がこわばった。
「そんなはずはない。徐春末日が明けた日に俺が作った――」
「ああ、あの落描きか」さすがに噂になっていたのか男はうなずいた。
「落書きされた壁はすぐに取り壊されて跡形もなくなった」
え。
麗射は固まった。「誰もあの絵を見てないのか」
「見てないだろ」男はこともなげに言った。「今は元通りの白い壁だ」
男は抜け殻となって立ちすくむ麗射の脇をすり抜け、離れた場所にふてくされた顔で座り込んだ。
取り壊された。
元通りの白い壁。
麗射は壁画が噂になって美術工芸学院の入試選考員の誰かが見てくれることに一縷の望みを託していた。彼の芸術を解ってくれる人は少ないが、わかる人の心には突き刺さるはずだとひそかに自信をもっていた彼は、厳然たる事実を前に呆然と立ちすくんだ。
「麗射、元気を出せよ」肩に手を置いたのは耕佳である。
「学院だけが、芸術家への道ではない。美は、自らの生き方にあるんだ」
「自らの生き方――」
麗射は力なくうなずいた。
まるで皮をはがされた兎。痛々しいほど消沈した麗射に、誰もかける言葉を持たなかった。
数日黙りこくってすごした後に、麗射は徐々に普段の彼に戻っていった。
しかし、壁がないことを聞く前と後では彼の心の中で何かが変わっていた。よりどころを失った心は宙に浮き、行き先のない情熱が彼の心を悪戯に焦がした。
一月後、待望の赤茄子が収穫された。
獄吏たちの好意で、水で冷たく冷やされた赤茄子の山が房に届けられる。
ざるにもられた小さな赤い実ははちきれんばかりの艶めいた肌に水滴をまとい、囚人たちをどよめかせた。
「ま、まずは……」
囚人たちはチラリと雷蛇を見る。しかし、雷蛇はそっぽを向いたままだ。
「じゃあ、麗射」
麗射は首を横に振った。
「皆が一つずつ持って、一斉にかぶりつこうぜ」
言葉が終わるか終わらないうちに手が赤茄子に伸びて、ざるに高く盛られた赤茄子は雷蛇以外のそれぞれの手に握られた。
「用意はいいか、食うぜ!」
麗射の合図とともに皆一斉にはちきれんばかりの皮に歯を立てる。
かぶりついたとたん、ぶしゅっと甘酸っぱい汁が口にあふれ、口いっぱいに広がっていく。皮の裏の甘みはさらに強く、かみしめると鼻にさわやかな芳香が立ち上った。
獄の中は歓声で満たされた。
袋一杯担いでいった獄吏達も、今頃歓声を上げているに違いない。
しかし雷蛇は皆がいくら勧めても目の前に出された山盛りの赤茄子に手を付けようとしなかった。腕組みをしてそっぽを向いている。
「お頭、美味いぜこれは」
雷蛇の隣の囚人は今まで畝を何度となく潰した輩だったが、勧められるままに赤茄子を節操なく口に放り込んだ。「こんなうめえもん食ったことがねえ」
あふれ出した赤い汁が口の端を伝う。
その様子を見て、反発していた雷蛇の喉がごくりと動いた。
「雷蛇、せっかくだから食ってくれよ」
麗射も声をかける。
「ほどこしなんぞまっぴらだ。俺は情けなんか受けねえ」
雷蛇は口をへの字に曲げる。
「兄者、争いはもうよそう」
麗射は雷蛇の前にひざまずいて宝石のような赤茄子をザルごと差し出した。
雷蛇のすきとおったザクロ色の目と麗射の黒い目が向き合った。
次の瞬間、雷蛇がいきなり赤茄子をわしづかみにして口に入れた。大きな目がさらに大きくなる。
ごくりと飲み込むと、また、手一杯ひっつかんで口いっぱいにほおりこむ。噛むと同時に頬が大きく膨らみ、眉間にしわが寄る。
獄の中の視線が雷蛇に集中していた。皆固唾をのんで雷蛇の様子を見守る。
ごくりと飲み込んだ後、苦虫をかみつぶした顔が一気に崩れた。
「おい、美味いな麗射。これは美味い」
雷蛇が笑いながら麗射の背中を思いっきり叩いた。バランスを崩し獄の奥まで吹っ飛んだ麗射に、牢獄は大きく湧いた。
大量の赤茄子は人々の空腹も、心も満たしていった。
心行くまで食べた後に、雷蛇はおもむろに立ち上がった。のしのしと歩いて麗射の前に立った。
「手を出せ、麗射」
戸惑う麗射にいら立ったのか雷蛇が麗射の胸倉をつかんだ。何が起こるのか、一気に緊張感が高まる。
麗射を助けようと腰を浮かした走耳の肩を、幻風がそっと押さえた。
「手を出せって言ってるんだよ」
「手? 手はここだが」
おそるおそる麗射が右手を上げる、すかさず雷蛇の左手がその手首をつかんで引き寄せた。
ざわっと、牢内が揺れる。
雷蛇の顔が麗射の鼻先に近づいた。鬼のような目がぎらりと光る。
「お前は大した奴だ。掌魂の誓いを立てさせてもらうぞ」
麗射の返答も聞かず、いきなり鋭い音とともに彼の右手の掌に雷蛇の拳が突き刺さった。
岩がぶつかったような痛みが炸裂し、麗射は声も出せずに右手を抱え込むと体を曲げて床に崩れ落ちた。予想外の展開にみんなあっけにとられて口を半開きにしている。
「天帝に誓って俺の命はお前のためにあり、お前が命じるときにはすべてを捨ててこの身を献じるだろう」
悶絶する麗射の頭の上から、野太い声が降ってきた。
「これから、お前が俺の心の兄貴だ、おい野郎ども、麗射に無礼を働く奴は俺が容赦をしねえからな」
雷蛇は高らかに宣言した。
「いや、一番無礼だったのは自分だから」
走耳のつぶやきに、隣で幻風が笑いをこらえて小刻みに震えている。
どうやら雷蛇は麗射の意向にはお構い無しに、心の弟になると決めたようだった。
「ならば雷蛇、さっそくお前にお願いをしていいか」
痛みでまだ顔をゆがめながら麗射が雷蛇に呼びかけた。
「なんだ、兄貴。なんでも言ってくれ」
それでは、とばかり麗射は軽く息を吸い込むと雷蛇に命じた。
「銀老草を噛むのはやめてくれ。あの草は心をむしばむ」
「え」いきなりの難題に雷蛇は固まった。「あれを、止めるのか」
「今、俺の命じたことはやると言ったぞ。なあ」
麗射は周りを見回した。囚人たちは皆うなずいている。
「わ、わかったよ。参ったな」頭をかく雷蛇の姿に、笑いが沸き上がった。
この日から牢は一丸となった。
麗射が獄に繋がれてから、早2か月がたとうとしていた。