第44話 ジェズム

文字数 4,577文字

「確かに休暇になってから姿を見かけないな」
 美蓮が首を傾げた。固く閉ざされた清那の講師室の中からは物音一つしない。うっすらと廊下にたまった砂くずは、その部屋にしばらく人が出入りしていないことを告げていた。
叡州(えいしゅう)に帰るには砂漠を横切らないといけないが、熱砂の夏に移動できる距離ではないな。きっとオアシスに借り上げた私邸にこもって絵でも描いているんだろう。場所がわかればいいのにな」
 場所。
 麗射はふとあの時の事を思い出した。入獄する原因となった壁画の製作の時に、肩越しに飛んできた銀の顔料。あの早朝に、騒ぎを聞きつけて顔料を持ってやって来たのなら家はさほど遠い場所ではあるまい。公子の私邸だ、みすぼらしいものではないはず。片っ端からめぼしい家を当たって行けば――。
「美蓮、お前は瑠貝に金を借りて材料となる木材を買って船を作りかけてくれ。俺は公子の家を探して支援金の件を直談判してくる」
 麗射はそういうと駆け出して行った。
「おい、どんな船をいくつ作ればいいんだ。誰と行くんだ」
 美蓮の言葉はすでに小さくなった背中には届きそうもなかった。彼は肩をすくめる。
「まあ、好きに作らせてもらうか。で、もちろん制作者も行くことになるんだろうな、責任上」
 美蓮は工芸科のものずきな面々の顔を思い浮かべながら、美術工芸院に向かった。船づくりを手伝わした人間にはなにがしかの日当を払わねばならないが、そのあたりのわずらわしい交渉はあの金の亡者に任せておけばいいだろう。とりあえずは木材の選定からだ。軽くて浮きやすい木材。金を積めば、問屋が工芸用に仕入れている軽くて扱いやすい木材が手に入るはずだ。船は2種類、操縦しやすく沈みにくいものと、ある程度人数が乗れるもの――。
 美蓮の頭の中では、すでに船の設計図が引き始められていた。



 歩くたびに顎にはまだ痛みが走る。ふらつく身体を叱咤しながら無理やり食堂で流し込んできた卵粥を糧に、麗射は投獄される原因となった市場の近くのあの壁にやってきた。
 麗射の壁画の壁は壁画部分を撤去したため、新しく作り直されている。
 白い漆喰に伸びる麗射の影はくっきりと際立ち、まだ盛夏が終わりそうにないことを告げていた。そういえば、ここに立ったのは徐春の頃。実は一年も経っていないが、ずいぶん昔の事のように感じて麗射は思わず天を仰いだ。
 抜ける様な青空。この陽気で本当に雨が降るのであろうか。
 自分は友人を巻き込んで無駄なことをしているのではないか。疑念が麗射の頭をよぎる。ただ、妄想だと片付けるにしては夕陽の変貌は異常であった。
 すべてが平穏なのに、たった一点だけの異常。単なる夕陽の錯乱かもしれないが、その鬼気迫る迫力はそう片付けるにしては明らかにおかしかった。これは尋常ではないことが起こる、麗射には妙な確信があった。
 取りあえず銀の公子を探さなければならない。麗射は壁画を起点にして街並みを観察しながら歩き始めた。
 清那の居場所について、意を決して教授陣や知り合いに尋ねてみたが、皆正確には知らないか知っていても教えてはくれなかった。美術工芸院の学生と言えど、オアシスの大口出資者である叡州公家の出自である。彼に何かあっては大変なことになるのは明らかで、無理もない対応であった。
 綺麗な家を見つけては、戸を叩き声をかけるがほとんどが怒号で追い払われる。
 落胆した麗射の足は隊商宿の多い地域に向いていた。そういえば、ジェズムにもこのことを知らせておかないといけないと思い当たったのである。
 市場の近くには隊商宿が多く、これまでも何度かジェズムを探してこのあたりを訪れたことはあった。いつも間が悪いのか会うことはできなかったが、聞くところによれば、ジェズム達は南門のバザール近くに宿営していることが多く、彼らがいる時にはテントに特徴のある緑の目の模様が施してあるらしい。しかし、しばらく歩き回ってもそれらしいテントは見つけることができなかった。今のような夏の熱い時期に砂漠を横断する隊商はほぼ皆無である。夏季はほとんどの隊商が活動を停止しそれぞれの本拠のある州で夏をやり過ごし、暑さの和らいだ徐秋から徐春にかけて砂漠を横断して交易をする。ジェズムが今の時期波間の真珠に来ている可能性は低かった。
 諦め半分の境地で宿屋を覗き込みながら歩いていた彼だが、ふと一番高級な隊商宿の宿泊者しか使えない駱駝よせに、いつもは見かけない豪華なくらの置かれたきれいな毛並みの駱駝が泊まっているのに目を止めた。その鞍には緑の目の意匠が施されていた。
 麗射は宿の下で大声で叫んだ。
「ジェズム、麗射だ。居るんなら返事をしてくれ」
 何度も繰り返していると宿の主人が顔をしかめて出てきた。
「おい、若いの。うるさくて迷惑なんだよ」
 そういうと主人は麗射の腕を引いて宿の中に引っ張り込んだ。
 宿の中は豪奢な調度が並べられており、ここが隊商宿の中では群を抜いた高級宿ということがわかる。宿屋の主人は土間の玄関に入るなり怖い顔で麗射を睨みつけた。
「おいお前、ジェズムさんがどんな方かわかっていての所業か」
 初対面の時も後ろにお付きの者を従えていたから、ジェズムが隊商の偉い人だという事は知っていた。しかし麗射にはそれ以上の情報はない。絵を見て涙ぐんでくれた人情家だというくらいの認識だ。
「ジェズムには面識がある。砂漠に洪水が来るかもしれないから。彼にそれを知らせに来た」
 麗射の言葉に居合わせた数人の男たちが振り向いた。いずれも細身で全身黒く日焼けしており、隊商の一員とおぼしき男たちであった。
「不吉なことを言うな」
 一人の男が麗射を睨んだ。
「母親が天変地異を予知できる男が、そう言っている。洪水が起こる可能性があるんだ」
 男たちは顔を見合わせた。
「もしかして告機(こっき)の血筋か」
「告機とは聞いたことが無いが」麗射がいいよどむ。「彼の母親は災厄を言い当てたせいで殺された」
 男たちはひそひそと話していたが、中央の男が麗射に向き直った。
「俺たち隊商の中では有名な話だ。告機は天変地異を予言できる一族で、中にはひどい殺され方をした女もいたらしい」
 その女性とは夕陽の母か。麗射は必死の形相で男達に詰め寄った。
「頼む、ジェズムに話を通してくれ。面識はある、絵描きの麗射だと伝えてくれ」
 しばらくの沈黙の後、男がうなずいた.
「わかった、詳しい話を聞く必要があるな。ジェズムを呼んでこよう」
 男が階下から聞いたこともない言葉で怒鳴ると、階段の上からなにか返事があった。
「ちょっとここで待っておけ――」
 男が階段に向かおうとした時に、階段に細い影が映った。
 影に続き、足が、そして純白のマントが現れる。
「ジェズム」男と麗射が同時に叫ぶ。
「久しぶりだな、麗射」
 見覚えのある顔が微笑んだ。
「いろいろ回り道をしたようじゃが、無事美術工芸院に入れてよかったじゃないか」
 垂れ下がった白い眉毛の奥に潜む、思慮深そうな薄い緑色の瞳。心に染み入るような低い声はあの時のままだ。
「氷炎は無事波州に送り届けたぞ。もう一人の、あの息をしているのかどうかもわからない青年――」
「走耳ですか?」
 ジェズムは静かにうなずいた。
「あいつはいなくなった。氷炎を送り届けた後、荷物と共に忽然と姿を消した」
 一刻も早く一匹オオカミに戻りたかったのであろう。麗射は己の存在があらわになることを嫌う走耳のことを思い出して心の中でくすりと笑った。
「ご迷惑をおかけしてすみません。ありがとうございました」
 頭を下げる麗射を見て、白い眉毛がますます垂れる。
「気にするな、氷炎とかかわりを持っておくのも、またいつかわしの役に立つかもしれん。それにしても今日はどうしたのじゃ、洪水だのなんだのとえらく物騒な言葉を聞いたが」
 麗射はジェズムに今までの経緯を話した。
「夏に砂漠を行き来する隊商はいないと思いますが、もしそういう隊がいれば早急に知らせる必要が」
「この熱波の中を交易するもの好きはおらんと思う、が」
 ジェズムは記憶を探るようにしばらく目を閉じていたがやおら手を打って叫んだ。
「おお、そうじゃ。奴が、奴がおったわ」
 ジェズムは手を高らかに2回打った。
 金髪の少年がどこからともなく現れて、ひざまずく。
「アイゲルの隊に、伝鳥を出せ」
 老人は懐から出した小さな紙と面相筆を取り出し、さらさらと何かをしたためると少年に渡した。
 少年が行くと、ジェズムは麗射の方を向き直った。
「恐れ知らずの豪胆な甥御でな、どうしてもと頼まれてこの灼熱の砂漠を越えて波州の硝石を煉州まで送ると言っていた。洪水が起こるかどうかはわからんが、気を付けるに越したことはないから近道であっても枯れ河を行くなと送ってやったわ」
「硝石――、ですか」
 爆薬の原料の一つである硝石は、波州に鉱床がある。内戦は爆薬を使用するほど拡大しているのだろうか、きな臭い情報に麗射の心は氷炎を思って揺れた。
「砂漠に行った奴を探すのにこれが役に立つだろう」
 ジェズムは麗射に使い込まれた一枚の紙を渡した。
「これは我ら隊商が持っている枯れ河の地図だ。不安定な砂丘の上部にテントは張れないが、安易にこの枯れ河となっている地形に泊ると寝ているうちに洪水で流されてしまうぞ。仲間を助けに行くのであれば、お前さんも気を付けろ」
 麗射は深謝して紙を懐にしまい込んだ。
「ところでお前さん、誰を探していたんじゃ。隊商宿以外にも訪ねていたようじゃが」
 自分がこの界隈を探し回っていたのも知っているのか。わずかのあいだに、手下がざっと今日の麗射の挙動を調べたようだ。ジェズムの情報網のすごさに麗射は息を飲んだ。
「実は美術工芸院に叡州の公子がおられて」
 かいつまんで麗射は清那に面会するため付近を探索していることを告げた。ジェズムが影のように付き従う男たちに顎で指示してから、茶を一杯飲むくらいの時間でその情報がもたらされた。
「公子の居住地は市場に入る手前の白い家だ」
 その建物には麗射も心当たりがあった。筋骨隆々とした一階の住人はけんもほろろに麗射を追い返したが、今考えるとそれは市井の輩に身をやつした警護の者だったのだろう。
「助かりました、ジェズム」
「起こるかどうかは別として、洪水の情報感謝するぞ」
 そういうとジェズムは麗射に小袋を渡した。
「これは――」見かけよりもずっしりとした重みに麗射の瞼が吊り上がる。
「少しだが、何かのたしにするがいい」老人は微笑んだ。「また、新作ができれば見せておくれ」
「ええ、まともな絵が描けるようになったらまた持って参ります」
 麗射は小袋を頭に押し頂いて、深く礼をすると宿屋を後にした。
「なんの確証もない、あの青二才の話など真に受けて大丈夫なのですか」
 麗射が去った後、壮年の男が訝し気にジェズムに尋ねる。
「洪水が起こるかどうかは、問題ではない。わしはあの男を買っているのだ。あ奴は何か持っておる」
 ジェズムは虚空へと視線を向ける。
「奴の無理難題のおかげでわしは思いもよらなかった再会を遂げることができた。まさか、長じたあの子に会えるとはな」
 含み笑いを浮かべるジェズム。彼は怪訝そうな顔で自分を見ている男の肩をポンとたたいて言った。
「確証のない話がすべて間違っているわけではあるまい」
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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