第6話 雷蛇

文字数 5,298文字

「素晴らしい壁画だ」
 ふと気が付くといつの間にか、そこにはずらりと初老の男たちが並んでいた。服に顔料の染みがあるところ見ると、美術工芸院の関係者か。朝霧なのか白い煙に包まれながら、試験官の先頭に立つ、皺の深い老人が微笑んで告げた。
「我々は、試験官だ。壁画の噂を聞いてやってきた。聞きしに勝る出来ではないか、是非君にはこの学院に来てほしい、合格だ」
「い、いいんですか」
 麗射の頬から涙が伝う。よかった、ここで絵をかけば関係者の目に留まるかもしれないという自分の思惑は外れてはいなかった。
「早く、学院の中で温かい食事でもとり給え。この壁は希代の名作として永久に――」
「いや、だめだ」それまで微笑んでうなずいていた隣の老人が突如として声をあげた。「これは芸術とはいいがたい、ご覧ください、この無様な凹みを」
 老人が指さしたところには、麗射が壁にぶち当たってできた人型の凹みがあった。
「こ、これも作品の一部です。見てください、無意識のうちに深窓の令嬢のところに向けて視線が行くように手を伸ばした形でぶち当たっています」
 麗射は慌てて弁明する。
「しかし、所詮偶然の産物だからな」
「これと落書きの違いは何なのだ。何を描いているのか、よく理解できん」
「人の手を借りようなどと卑しい考えを起こすから」
 麗射の弁明を聞く耳を持たず、試験官たちは先ほどとはうって変わって口々に麗射の作品を批判し始めた。手放しでほめてくれたあの皺の深い老人もその中に入っている。ひとしきり悪しざまにののしると、彼らは壁画と麗射に背を向けて朝もやの中に消えていった。
「待ってください、待って。偶然も、人を巻き込むのも、芸術の一つの在り方だと思うんです」
 麗射の絶叫がむなしく路地に響いた。



 小窓から差し込む強い光が麗射のまぶたを開かせた。
 夢か。
 目をしょぼつかせながら彼は石灰で塗り固められた床の上から体を起こした。思わず呻きが漏れるほど、全身が痛い。気を失っていたのであろう、はっきりと覚えていないが何度も殴られたような気がする。視界がぼんやりしているのは目が腫れあがっているせいか。
 もう、昼か。どのくらい寝ていたのだろう。
 麗射は部屋の中をぐるりと見回す。かろうじて体が横になれるくらいの小さな空間は日干し煉瓦の壁に囲まれ、鉄格子の入った窓と、小窓のついた小さな木の扉が付けられていた。
 彼はゆっくりと記憶をたどる。願書を出しそびれた自分は、学院の関係者の目に留まろうと壁画を作った。完成した時に警備兵に見つかって、殴られた。それからの記憶が無い。
「ここは留置場か――」
 嘔吐したのだろうか、喉がひりつくように痛く、自分でもびっくりするほど声がかすれていた。
「おい気が付いたか、落描き野郎」
 扉の小窓からぎょろ目の男が覗き込んでいる。
「落描きだと。あれは衆人参加の芸術だ」
 しゃがれ声で麗射が叫び返す。
 それには答えず、いきなり扉が開くと男の太い腕が麗射の胸倉をつかんだ。
獄長(ごくちょう)殿のお取り調べだ」
 麗射は抵抗する気力もなく、牢獄に属する兵士である獄吏にズルズルと引きずられて行った。
 連れていかれたのは、明り取りの小さな窓があるだけの簡素な部屋だった。部屋の中央に粗末な机があり、背もたれのついた木の椅子にもじゃもじゃの薄茶色の髪の毛に顎髭を蓄えた、いかにも武人といういかつい男が腕組みして座っていた。髪の毛の色が薄いのは叡州(えいしゅう)系であろうか。ただ、直毛の多い叡州系とは違って、巻き毛のところを見ると煉州(れんしゅう)人の血も混ざっているらしい。このオアシスで何世代か過ごしているうちに各州の血が入った家系だろうか。麗射はぼんやりとした頭で目の前の獄長を見た。麗射を連れてきた兵士と違って、厚手のマントには錦糸の縫い取りが施され、ちらりとのぞく剣帯は金色に輝いていた。一目で階級がかなり上の者だとわかる。
「獄長殿だ」
 獄吏は麗射をささくれだった木の椅子に押し付けるようにして無理やり座らせると、そのまま麗射の後ろに立った。
 その様子を確認して、身体の大きな獄長は麗射を見下ろしながら、おもむろに口を開く。
「お前はなぜ美術工芸学院の壁にいたずらをした」
「学院の入学試験を受けたかったんだ――」
 麗射はカラカラの喉から絞り出すように声を出した。
「入学試験は、受験を許されたものが学院内で受けるものだ」
「す、推薦状を持っている」
 麗射は慌てて懐を探る。
 な、無い。
 狼狽する麗射を睨みつけながら獄長は目の前の机に推薦状を置いた。
「これか」
 麗射の顔に安堵が浮かぶ。
「そうだ。推薦状をもらった俺は試験を受ける資格があるんだ。でも、昨日やっとたどり着いたら美術工芸院は休みだった。おかしいだろう、受付は徐春末日までって書いてあるのに」
「今年の徐春末日は休みに決まっている。お前は手続きに遅れたんだ」
「でも――」
「注意深く調べなかったお前が悪い。お前の勝手な理由で、公の場にいたずら描きをした。これは許されることか?」
 言い返す言葉はなかった。麗射は唇をかみしめる。
「勝手な理由を作りやがって。芸術のためならすべて許されると思ったら大間違いだ」
 太い腕を組んで男は目を剥いた。
「この街を守っているのはわしらなのに、絵描きどもが大きな顔をしやがって」
 麗射に向けられたどす黒い憎悪は、この男の何か根深い恨みに端を発しているようだった。
 彼はトカゲを思わせる鋭い目を細めるとおもむろに推薦状を取り上げ、麗射の目の前でゆっくりと真っ二つに引き裂いた。
 麗射は声にならない悲鳴を上げた。心臓が引き裂かれるようだ。
「これはもう、ゴミくずだからな」
 まるでいたぶるかのように、推薦状はさらに何度も何度も引きちぎられた。
「よせっつ」
 奪おうとテーブル越しにとびかかる麗射。紙吹雪が舞い、打撃音とともに彼は部屋の隅っこに飛んで行った。
 傍らに控えていた獄吏に何度も、何度も殴打されて朦朧(もうろう)とした麗射の最後の記憶は獄長の低い声だった。
「三か月の強制労働の後、このオアシスから放逐する」
 取り調べと刑の言い渡しはそれで終わった。
 装備無く、砂漠に放り出される。それは死ねということを意味している。
 しかし、彼にとってあの推薦状を破かれたのは、死罪よりも心に大きな衝撃を与えていた。
 獄吏は呆然とした麗射の襟首を掴み、再び物のように引きずっていった。
 
 
 
 次に連れていかれたのは、先ほどまでの独房ではなく十数名の罪人が入れられた薄暗い部屋であった。日干し煉瓦で囲まれた部屋は広くはなく、囚人たちは入り口からずらりと一列に並んで座っている。房の中には吐き気を模様すような臭いがもわりと立ち込めていた。
 じろり、と一斉に向けられた視線の鋭さに思わず麗射は立ちすくむ。
「おい、小僧。罪状はなんだ」
 鉄格子近くの風通しの良い場所に陣取った大男が麗射に声をかけた。それは頬から顎まで真っ黒いひげに覆われた目つきの悪い男で、年のころは3~40歳。肩は筋肉で盛り上がり、上着からむき出しになったはちきれんばかりの太い上腕には、砂漠に現れるという稲妻をまとった伝説の大蛇の彫り物がうねっていた。
「壁に絵を描いた」
「ふん、落描きか」
 低い失笑がそこかしこから漏れる。
「で、どこに落書きしたんだ。ふられた女の家にか?」
 囚人たちがからかいの声を上げる。
「違う」
 麗射はむっとして首を振った。
「美術工芸院の壁に絵を描いた」
 しん。
 麗射の一言で彼らの戯言は一瞬のうちに日干し煉瓦の壁に吸い込まれてしまった。
 かなりの罪だったんだな。
 皆の反応を見て、麗射は心の中で苦笑する。
「ってことは坊主、オアシス追放か」
「そうみたいだな」
 麗射の答えに、囚人たちは顔を見合わせる。
「オアシス追放ってのはな、着の身着のまま水も持たせず、砂漠にほおりだすってことだ。まあ、体のいい死刑だよ。うまく行けば誰かに拾ってもらえることもあるが、牢獄出の怪しい奴を仲間に加えるような不用心な旅人がいるとは思えないからな。まあ、十中八九熱波に焼かれながら行き倒れて、獣の餌になるのが落ちさ」
「裁判もなく、死刑か――」
 麗射がつぶやく。
「あれは、聖地だからね」
 部屋の奥の方にいたうす茶色の長い髪の男がどことなく湿りのある声で話し始めた。
「このオアシスが繁栄しているのも、自由でいられるのもあの学院があるからだ。だからここでは最高の権威とされているし、学院を冒涜する行為は、通常では考えられないほど厳しく処罰される」
 そうか、聖地を守る禁断の壁だったんだな。
 人々が壁に絵の具を嬉しそうに投げていた背景には、ある意味権力にさからう快感があったのかもしれない。麗射は壁に広がった絵の具の勢いを思い出した。美術工芸院は住民たちの憧れであり、そして侵すことのできない権威――。確かに壁には麗射が想像していたよりずっと激しい民衆の心根が描き出されていた。
「申し開きもできずに牢獄入りか、気の毒な」
 まるで壁がしゃべったように思えて、麗射はぎょっとして声の方を振り向いた。よく見るとそこには壁際の暗闇に溶け込んでいる存在感のないやや金色を帯びた薄い茶色の髪をした青年がいた。
「お前さん、顔が腫れあがっておるぞ。こりゃ相当痛めつけられたようだな」
 横合いから顔を突き出して、白髪の老人が首を振ってつぶやく。痩せた体躯と細長い首はどことなく故郷の松原にいる鶴を思わせた。
「おおかた警備員も祭りで酒を飲んでいたんだろう。で、落描きされてしまったことで見回りをおろそかにしたことがばれてしまった。多分その腹いせもあったのかもしれんな」
 執拗に殴られ続けたのはそういう事もあったのか。
 しかしあの警備兵、ほろ酔いで見回りをしていたところに俺と壁画を見つけて、祭りの余韻も吹っ飛んだに違いない。麗射は苦笑した。後で上司からこっぴどく叱責も受けただろう。悪いことをしてしまった、麗射の心がちくりと痛む。暴行を受けた相手だが、麗射は心の中で詫びを入れた。
「しかし、お前さんも割に合わないな。たかが落描きで死刑とは」
 誰かが声高に言って笑った。
「落描きじゃない。芸術だ」
 先ほどから落描きと連呼されて、少々腹に据えかねていた麗射はむっとして立ち上がった。
「あれは言うなれば民衆の心をくみ上げた美の爆発だ。牢獄入りが気の毒だって? 落書きで死刑は割に合わないって? 見くびるな、俺は芸術のためなら命だって惜しくないんだ」
 ここまで一気に言い終えた麗射は、息で肩を大きく弾ませた。
「いいぞ、若いの」
「馬鹿かお前は」
 房の中で小さい拍手と失笑が起こった。
「ふん、お前は妙な骨があるな」
 最初に麗射に声をかけた大蛇の彫り物を入れたいかつい男が麗射を手招きした。彼が陣取っている入口の鉄格子近くは風の通りがよく悪臭も少ない、この房の中では一番快適な場所だ。ここを我が物顔で占拠しているということは、この男が房をしきっているのだろう。
 刺青の男が麗射を招いたことで、獄の中がひときわざわめいた。
「あの壁に落書きするとはいい度胸だ。気に入った、こっちに来い。今日から追放までお前を牢仲間と認めてやる。名前は?」
「麗射。波州の麗射だ」
「俺は雷蛇(らいじゃ)だ」
 刺青と同じ名前のその男は、いきなり右手を突き出して太い指を麗射の顔の前に広げた。
「これは?」
 麗射は手のひらの意味が解らず、戸惑いの表情を浮かべる。
「これは掌魂(しょうこん)の誓いだ。目上の者が手を広げる。これはお前を受け入れるという意味だ。で、ありがたく自分の魂を相手に預けさせてもらうという時には、性根を入れた自分のこぶしをその手に思いっきりぶつけるんだ」
 今まで麗射はこんな挨拶を聞いたことがない。おそらくならず者の間でのしきたりだろう、子分として認めてやるという事らしい。
 麗射は逡巡していた。
 この狭い牢獄の中で、力を持っていそうなこの男に気に入られるのは悪いことではなさそうだ。しかし、牢につながれるということは、何かしらの罪を犯したという事である、この明らかに尋常ではないいでたちの男と子分の誓いを立ててしまっていいものか。
 麗射は雷蛇という男の顔をじっと見た。
 雷蛇も麗射を値踏みするように睨み返す。
 沢山の傷が刻まれた雷蛇の赤銅色の顔の中に、ハッとするように透き通った赤茶色の瞳が光っている。その色は故国の貴人の冠に光るザクロ石に似ていた。
 心底悪い奴ではなさそうだ。
 麗射はうなずくと大きく息を吸った。そしてその手に向かって思いっきり握りこぶしを当てる。
 ぱぁんという小気味よい音が牢獄の中に響いた。
「これからお前の席は俺の隣だ」雷蛇の豪快な笑い声が響いた。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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