第67話 再会
文字数 3,558文字
その夜の、夕食後。壁が無く柱に天井が乗っているだけの粗末だが大きい集会所の柱に油芯ランプが掲げられた。前方には一団高くなった舞台がしつらえられ、小さな演台が置かれている。敷かれたござの上に兵士達が座り終えてしばらくすると、小さな銅鑼が鳴らされた。ざわめきが止み、皆が闇の中を凝視する。その視線の先には小さく揺れる光があった。
徐々に光は大きくなり、ランプを掲げる従者らしき人と、その後ろからやってくる人影がぼんやりと浮かび上がった。
いきなり立ち上る歓声。人々の合間からちらりと、迎えられる人の顔が灯火に照らし出されて見えた。
間違いない氷炎だ。生きのびて、仲間たちと合流できたんだ。
麗射は喜びに我を忘れ、立ち上がって叫ぶ人々と共に大きな雄たけびを上げた。
遠目に見る氷炎は骨と皮であった以前に比べ、一回り肉が付き逞しさを増している。麗射は天帝と郷神である海神に心から感謝の祈りをささげた。
壇上に登ると氷炎は建物一杯の聴衆をぐるりと見ると一礼した。
人々の足踏みが柱をも揺らし、かけられたランプまでもがかすかに揺れる。上級兵たちが走り回って、興奮する兵士達をむりやり座らせた。
人々の叫びが静まったのを見計らって、氷炎が口を開いた。
「皆さん、食事は沢山食べられましたか? 美味しかったですか」
穏やかだが、心に響く低い声。会場から同意の言葉が発せられる。
「ここにある潤沢な芋も肉も、郷里の皆様が皆さんの筋肉になり、活力になるように、自分たちは細い芋や芋づるで飢えをしのいで寄付してくださったものです」
しん、と会場が静まり返る。
「覚えていますか、郷里での暮らしを。狩や農作業で一日汗水を流しても、ほとんど税に持っていかれ、口に入るのは粗末な芋がらや芋づるだけ。働きすぎて家族が病に倒れても、薬を買う金もない。山野に生える植物の汁を飲ませ、天帝に祈りをささげるしかない」
皆思い当たるところがあるのか、唇をかみしめて首を垂れる。
「あなたの子供や孫にもこのような生活を強いるつもりですか」
嫌だ。会場から声が上がる。
「圧政を敷き、浪費をする王室はわが国を苦しめる病巣です。しかし天帝は頭を抱えてうずくまるだけの人間は助けてくださいません、祈るだけでは何も解決しないのです。天帝は 我々が自ら立ち上がるのを待っておられます。自分たちの生活は自分たちで守るしかないのです。皆さん、もう王制は限界です。州民を養えない王室を倒し、新しい国を作るのです。しかしそれだけでは残念なことにそれでは今までとなにも変わりません。なぜなら」
氷炎は言葉を止めて首を垂れた。人々が氷炎の次の言葉を求めて、じっと見つめる。
「悲しいかな、煉州は貧しい」
ぐいっと顔を上げた氷炎を見て、麗射は息を飲む。
灯火に照らし出された顔。
それは麗射の知っている氷炎――ではなかった。
口を結んだその表情は険しく、青い目の光は強いがどこか禍々しい。体から立ち上っていた熱情の揺らぎは、かき消すように無くなっていた。
「貧しい国が平等に食物を分けても、皆が貧しいのには変わりありません。この貧しさは努力では抗えないのです、土地は痩せ、山は皆が分け入るには急峻すぎます。力の限り働いても、獲物や作物は我々の飢えを満たすには少なすぎる」
しかし。氷炎の目が妖しく光った。
「我々の隣には、銀嶺の山からもたらされる豊富な水を用いて、あふれんばかりの食べ物を作り出せる場所があります」
彼の手にはどこから取り出したのか、麦の穂が握られていた。
「これは彼らの主食、小麦です。これを挽いて焼いたパンは香ばしく、家畜から出るあふれんばかりの乳は甘くかぐわしい。彼らの朝食はこのパンと、頬がいたくなるくらい旨い黄金色のチーズ、そして乳を発酵させたヨーグルトを食べるのです。そして食卓の大皿には色とりどりの果実が盛られます。いくら食べても、人々は決して飢えることがない――」
会場からほおっとため息が漏れる。
「われらの食卓にも食べ物を積もうではありませんか、家族が飢えることなく、幸せに日々を暮らせるように。我々は自らを助けるために立ち上がりました、きっと天帝も手を貸してくれるはずです」
同意の叫びが建物を再び震わせる。だがその叫びの中で、氷炎は頭をたれた。叫びは徐々に静まる。
「しかし、私は戦に弱かった。幾人もの同朋が王室軍の刃で天への階段を上がって行きました。皆さん、すまない」
首を垂れたまま、氷炎は絞り出すような声を出した。
「だが、立ち上がった我々を天は見捨てなかった。天から希望を託された戦の神、斬常 様が降臨されたのです」
氷炎の目が妖しく燃え上がった。
「斬常様が我ら救世軍を指揮してから、王室軍との戦いに負けたことがありません。あれほど我らを猛追していた王室軍が、今は攻め込みもせず我らを囲んで出方を見守っているだけです。我々が精進し、斬常様の意図するような働きができれば、待つのは勝利しかありません。運悪く刃に倒れた者も無駄死にはなりません、新しい我が民族の夜明けの礎となるのです。戦いましょう、この指一本になろうとも。弓が弾ける限り、刀が握れる限り、命のある限り――」
繰り出される熱い言葉。地面から湧きあがるように叫びが会場に盛り上がり、四方に広がっていった。
誰が最初か、熱に浮かされた人々がいつしか声を合わせて「斬常、氷炎、斬常、氷炎」と狂ったように叫び続ける。
しかし、その中で麗射は呆然と立ちすくんでいた。頭の中では今の氷炎の言葉が渦巻いている。頭はその意味を反芻するだけで、理解を拒んでいた。
連呼される叫びの中、氷炎は静かに一礼した。
それが話の終わりの合図だったのだろうか、
「何か氷炎様に質問をしたい奴はいるか?」
司会者らしき上級兵が声を上げる。
一斉に手を上げる兵士たちの中の1人が指名された。
「氷炎様、お、俺、学問もない農民だが、質問していいか?」
兵士は頭を掻きながらおずおずと話し始める。
「ええ、もちろんです」
氷炎は質問をいざなうように両手を前に差し出した。
「叡州を攻め取ったら、わしら豊かになるのか?」
「叡州の富と食が我が州に流れ込めば、豊かにならないはずはありません」
「わ、わしがもし死んでも、残されたおっかあや子供は幸せになれるのか?」
「私たちがこの国を統べた暁には、戦で命を落とした人々のご家族は英雄の一族とたたえられ、手厚い補助があたえられるでしょう」
男は納得したように何度かうなずき、腰を下ろした。
いくつもの手が上がり、素朴な質問が投げかけられる。ほとんどが今の王室への不満で、氷炎に同意されると満足そうに礼を言った。同じような質問が延々と繰り返されたが、そのすべてに氷炎は丁寧に答えていった。
質問時間が一刻にも及ぶと、さすがに会場に上がる手がまばらになった。
「氷炎先生もお疲れだ、そろそろ最後の質問にしよう」
上級兵はそういうと、あたりを見回した。
「おい、ここの新入りを当ててやれよ。最初っから手を上げてるぞ」
会場の隅から声があがった。
「わざわざ波州から来てくれた奴だぞ」
波州。その言葉に氷炎の身体がびくりと動いた。
「おお、じゃあそこの新兵」
上級兵が指名する。
氷炎は急に表情をこわばらして、ぎこちなく上級兵が指をさした方向を向く。
「氷炎――」
聞き覚えのある明朗な声。薄暗い会場で立ち上がった青年の顔はうすぼんやりとしか見えないが、むしろあの牢獄の明るさに近く、氷炎は時が遡ったかのような錯覚に陥った。
「いや、氷炎先生か」
青年は大きく胸を弾ませ、しかし言葉をつなぐことができない様子で立ちすくんでいる。
「麗射――」
我慢できないとばかりに、氷炎が叫んだ。
「氷炎――」
お互いの名を呼んだまま黙って見つめあう二人の様子に、会場にざわめきが湧き始めた。
意を決したように麗射が口を開く。
「お、俺の知っている氷炎、いや、氷炎先生の目的はこんなことではなかったはずだ」
絞り出すように出された麗射の声を遮るように氷炎が叫んだ。
「皆さん、彼は私の命の恩人です。私を獄から救ってくれたのは彼なのです」
氷炎の言葉に皆が麗射の方を向く。
「ありがとう麗射、君は英雄だ。皆さん、麗射に拍手を」
「氷炎、君の目的はーー」
麗射の言問いかけは拍手でかき消された。
「我が友、そして恩人よ」
氷炎は演壇をおり、麗射の方に歩み寄る。人々が左右に分かれ、氷炎と麗射の間はまるで道ができたかのようにぽっかりと開いた。
氷炎はゆっくりと麗射の手を握る。そして麗射の肩を抱いた。
「ありがとう」
二人の抱擁を兵士たちは大きな歓声で包む。麗射を推薦した兵士たちはポカンと口を開けていたが、はたと気が付くと二人を取り巻き諸手をあげて祝福した。
徐々に光は大きくなり、ランプを掲げる従者らしき人と、その後ろからやってくる人影がぼんやりと浮かび上がった。
いきなり立ち上る歓声。人々の合間からちらりと、迎えられる人の顔が灯火に照らし出されて見えた。
間違いない氷炎だ。生きのびて、仲間たちと合流できたんだ。
麗射は喜びに我を忘れ、立ち上がって叫ぶ人々と共に大きな雄たけびを上げた。
遠目に見る氷炎は骨と皮であった以前に比べ、一回り肉が付き逞しさを増している。麗射は天帝と郷神である海神に心から感謝の祈りをささげた。
壇上に登ると氷炎は建物一杯の聴衆をぐるりと見ると一礼した。
人々の足踏みが柱をも揺らし、かけられたランプまでもがかすかに揺れる。上級兵たちが走り回って、興奮する兵士達をむりやり座らせた。
人々の叫びが静まったのを見計らって、氷炎が口を開いた。
「皆さん、食事は沢山食べられましたか? 美味しかったですか」
穏やかだが、心に響く低い声。会場から同意の言葉が発せられる。
「ここにある潤沢な芋も肉も、郷里の皆様が皆さんの筋肉になり、活力になるように、自分たちは細い芋や芋づるで飢えをしのいで寄付してくださったものです」
しん、と会場が静まり返る。
「覚えていますか、郷里での暮らしを。狩や農作業で一日汗水を流しても、ほとんど税に持っていかれ、口に入るのは粗末な芋がらや芋づるだけ。働きすぎて家族が病に倒れても、薬を買う金もない。山野に生える植物の汁を飲ませ、天帝に祈りをささげるしかない」
皆思い当たるところがあるのか、唇をかみしめて首を垂れる。
「あなたの子供や孫にもこのような生活を強いるつもりですか」
嫌だ。会場から声が上がる。
「圧政を敷き、浪費をする王室はわが国を苦しめる病巣です。しかし天帝は頭を抱えてうずくまるだけの人間は助けてくださいません、祈るだけでは何も解決しないのです。天帝は 我々が自ら立ち上がるのを待っておられます。自分たちの生活は自分たちで守るしかないのです。皆さん、もう王制は限界です。州民を養えない王室を倒し、新しい国を作るのです。しかしそれだけでは残念なことにそれでは今までとなにも変わりません。なぜなら」
氷炎は言葉を止めて首を垂れた。人々が氷炎の次の言葉を求めて、じっと見つめる。
「悲しいかな、煉州は貧しい」
ぐいっと顔を上げた氷炎を見て、麗射は息を飲む。
灯火に照らし出された顔。
それは麗射の知っている氷炎――ではなかった。
口を結んだその表情は険しく、青い目の光は強いがどこか禍々しい。体から立ち上っていた熱情の揺らぎは、かき消すように無くなっていた。
「貧しい国が平等に食物を分けても、皆が貧しいのには変わりありません。この貧しさは努力では抗えないのです、土地は痩せ、山は皆が分け入るには急峻すぎます。力の限り働いても、獲物や作物は我々の飢えを満たすには少なすぎる」
しかし。氷炎の目が妖しく光った。
「我々の隣には、銀嶺の山からもたらされる豊富な水を用いて、あふれんばかりの食べ物を作り出せる場所があります」
彼の手にはどこから取り出したのか、麦の穂が握られていた。
「これは彼らの主食、小麦です。これを挽いて焼いたパンは香ばしく、家畜から出るあふれんばかりの乳は甘くかぐわしい。彼らの朝食はこのパンと、頬がいたくなるくらい旨い黄金色のチーズ、そして乳を発酵させたヨーグルトを食べるのです。そして食卓の大皿には色とりどりの果実が盛られます。いくら食べても、人々は決して飢えることがない――」
会場からほおっとため息が漏れる。
「われらの食卓にも食べ物を積もうではありませんか、家族が飢えることなく、幸せに日々を暮らせるように。我々は自らを助けるために立ち上がりました、きっと天帝も手を貸してくれるはずです」
同意の叫びが建物を再び震わせる。だがその叫びの中で、氷炎は頭をたれた。叫びは徐々に静まる。
「しかし、私は戦に弱かった。幾人もの同朋が王室軍の刃で天への階段を上がって行きました。皆さん、すまない」
首を垂れたまま、氷炎は絞り出すような声を出した。
「だが、立ち上がった我々を天は見捨てなかった。天から希望を託された戦の神、
氷炎の目が妖しく燃え上がった。
「斬常様が我ら救世軍を指揮してから、王室軍との戦いに負けたことがありません。あれほど我らを猛追していた王室軍が、今は攻め込みもせず我らを囲んで出方を見守っているだけです。我々が精進し、斬常様の意図するような働きができれば、待つのは勝利しかありません。運悪く刃に倒れた者も無駄死にはなりません、新しい我が民族の夜明けの礎となるのです。戦いましょう、この指一本になろうとも。弓が弾ける限り、刀が握れる限り、命のある限り――」
繰り出される熱い言葉。地面から湧きあがるように叫びが会場に盛り上がり、四方に広がっていった。
誰が最初か、熱に浮かされた人々がいつしか声を合わせて「斬常、氷炎、斬常、氷炎」と狂ったように叫び続ける。
しかし、その中で麗射は呆然と立ちすくんでいた。頭の中では今の氷炎の言葉が渦巻いている。頭はその意味を反芻するだけで、理解を拒んでいた。
連呼される叫びの中、氷炎は静かに一礼した。
それが話の終わりの合図だったのだろうか、
「何か氷炎様に質問をしたい奴はいるか?」
司会者らしき上級兵が声を上げる。
一斉に手を上げる兵士たちの中の1人が指名された。
「氷炎様、お、俺、学問もない農民だが、質問していいか?」
兵士は頭を掻きながらおずおずと話し始める。
「ええ、もちろんです」
氷炎は質問をいざなうように両手を前に差し出した。
「叡州を攻め取ったら、わしら豊かになるのか?」
「叡州の富と食が我が州に流れ込めば、豊かにならないはずはありません」
「わ、わしがもし死んでも、残されたおっかあや子供は幸せになれるのか?」
「私たちがこの国を統べた暁には、戦で命を落とした人々のご家族は英雄の一族とたたえられ、手厚い補助があたえられるでしょう」
男は納得したように何度かうなずき、腰を下ろした。
いくつもの手が上がり、素朴な質問が投げかけられる。ほとんどが今の王室への不満で、氷炎に同意されると満足そうに礼を言った。同じような質問が延々と繰り返されたが、そのすべてに氷炎は丁寧に答えていった。
質問時間が一刻にも及ぶと、さすがに会場に上がる手がまばらになった。
「氷炎先生もお疲れだ、そろそろ最後の質問にしよう」
上級兵はそういうと、あたりを見回した。
「おい、ここの新入りを当ててやれよ。最初っから手を上げてるぞ」
会場の隅から声があがった。
「わざわざ波州から来てくれた奴だぞ」
波州。その言葉に氷炎の身体がびくりと動いた。
「おお、じゃあそこの新兵」
上級兵が指名する。
氷炎は急に表情をこわばらして、ぎこちなく上級兵が指をさした方向を向く。
「氷炎――」
聞き覚えのある明朗な声。薄暗い会場で立ち上がった青年の顔はうすぼんやりとしか見えないが、むしろあの牢獄の明るさに近く、氷炎は時が遡ったかのような錯覚に陥った。
「いや、氷炎先生か」
青年は大きく胸を弾ませ、しかし言葉をつなぐことができない様子で立ちすくんでいる。
「麗射――」
我慢できないとばかりに、氷炎が叫んだ。
「氷炎――」
お互いの名を呼んだまま黙って見つめあう二人の様子に、会場にざわめきが湧き始めた。
意を決したように麗射が口を開く。
「お、俺の知っている氷炎、いや、氷炎先生の目的はこんなことではなかったはずだ」
絞り出すように出された麗射の声を遮るように氷炎が叫んだ。
「皆さん、彼は私の命の恩人です。私を獄から救ってくれたのは彼なのです」
氷炎の言葉に皆が麗射の方を向く。
「ありがとう麗射、君は英雄だ。皆さん、麗射に拍手を」
「氷炎、君の目的はーー」
麗射の言問いかけは拍手でかき消された。
「我が友、そして恩人よ」
氷炎は演壇をおり、麗射の方に歩み寄る。人々が左右に分かれ、氷炎と麗射の間はまるで道ができたかのようにぽっかりと開いた。
氷炎はゆっくりと麗射の手を握る。そして麗射の肩を抱いた。
「ありがとう」
二人の抱擁を兵士たちは大きな歓声で包む。麗射を推薦した兵士たちはポカンと口を開けていたが、はたと気が付くと二人を取り巻き諸手をあげて祝福した。