第94話 装飾
文字数 4,686文字
美術工芸研鑽学院は1学年約100人、通常4年で卒業となる。その後研究科に進むものもいるため学院生は常時5~600人を前後していた。教職員は50人弱、運営に関わる事務方や、雑務をこなす職員達をあわせれば、全体でおおよそ1000人強の大所帯である。
そのほとんどが利用する、無料の食堂。無理をすれば600人が座れる広い食堂だが、食事時は麺類などの簡単な注文以外は大皿が並べられ自分たちで気に入ったものを勝手に取る業態である。そのため配膳の職員はほとんど必要ない。皿洗いは学生を雇うことが多いので、厨房専属の職員は40人にも満たなかった。少数だが、士気の高い彼らは職人肌の高い技術を有する面々であり、ある意味芸術家としての一面を持っていた。
学院側も食事は健康の礎であるという意識が強く、学院生達の鋭気と体調を保たせるために食堂の充実に注力していた。学院生達は入学を許される時点で、すでに芸術家としての高い能力が認められている。彼らの作品は学生ながら高値で取引されることが多かった。在院中に創作した作品は少数の例外を除き学院に所有、販売権があり、そういった意味では一人一人が金の卵である。その無限の可能性を持つ卵達を無事にふ化させるため、学院側は食堂にかなりの金額をつぎ込み、細心の注意を払っていた。
だが、その厨房で食材がなくなるという不祥事が起こっているのである。
厨房側は学院長や警備隊に伝えたらしいが、些末なことと握りつぶされているようだった。現在煉州の内乱が起こった事もあり、彼らの目は総じてそちらに向けられている。このオアシスは三州を隔てる要害である砂漠の真ん中であり攻めやすい位置では無いが、ここを奪取することで無限の水を確保でき、他州を攻めやすくなる軍事的な利点の大きい場所であった。
煉州で新たな政権ができるようであれば、周囲の砂漠を含む広沙州の行政府も兼ねる学院は使者を送り、今まで同様の友好が続くように工作する必要がある。いざとなれば後ろ盾である叡州に助力を頼む必要もあるが、芸術に理解が深い、言い換えれば軍事に疎い叡州公がどこまで頼りになるかは疑問であった。残る波州は三州のなかで最も離れており、高い山脈で隔てられている。普通の旅でもたどり着くのが困難な波州とこの真珠の都はあまり交流が無く、富の集積地としての旨みは感じるだろうが、心情的に救いの手を差し伸べてくれる間柄では無かった。
周囲の情勢が風雲急を告げるなか、学院幹部も警備隊も厨房のこそ泥に関わり合っている余裕はなかった。
厨房の壁は一面凝った植物の装飾でびっしりと埋められている。複雑な形をもつ植物たちは、よく見ると焼き物で作った小さなモザイクが金継ぎのような技法で隙間無く合わさった技法で作られていた。
「この壁画は俺たち美術工芸史を取ってる奴は最初の授業で説明を受けるところだ。食堂はこの砦ができた頃の構造を残していて、焼き討ちにあったらしいが傷一つ付かずに焼け残ったらしい」
食堂の探検と聞いてなぜかやってきた瑠貝が得意げに説明する。
「教授はいつもナイフでこのモザイクタイルを突き刺すらしいが、傷一つ付かない」
瑠貝が指さしたところはつやつやと光り、十年以上毎年突き刺されたとはとても思えない。青天切といい、この壁といい、失われた古代の製陶文化は現在より進んでいたようだ。
多いときは一度に20人余りの職員が動く厨房はかなり広かった。
三階建ての美術工芸院だが、厨房と食堂だけは一階建てである。食堂には高い天井が確保され、その天井にはところどころ明りとりのガラスが埋め込まれている。厨房には煙を逃がす大きな長い窓が天井にしつらえられていた。
「僕ら工芸科はこの食堂の建物を上からも見るんだけど、平たい屋根の一部にも真っ黒で美しい装飾が懲らされているんだ」
この食堂に注目しているのは美術工芸史の連中だけでは無いのだと言いたげに美蓮が口を挟んだ。
「この建物は全く三州随一の宝だよな。焼け落ちなくて良かったよ」
麗射は腕組みをしてしげしげと壁を眺める。美術工芸院は、美の塊のため厨房の壁をこうやって改めて見ることは無かった。多分絵画科も入ってすぐここで同じような講義があったのだろうが、そのころ彼は牢獄で服役していたため皆と同じ記憶は共有していない。
「この部屋が井戸に通じています。階段がありますのでお気をつけください」
花燭 が厨房の奥のドアを開いた。ドアを開けただけで、ひんやりとした空気が顔をなで、かすかに甘い水の香りが漂ってきた。
ランプの光に照らされて、闇の中に十段ばかりの下に向かう階段が浮かび上がる。
降りた先は部屋になっており、釣瓶 がつけられた広い井戸があった。
井戸の下には水が流れているのか、井戸の中からどどどという低い音が反響している。
「調理人の修行の最初は水くみから始まります。両手に水を一杯にした桶を抱えてこの階段を何十往復もするんです。30日もするとやせっぽちの頼りなげな若者がみるみるうちに筋肉質になっていきますよ」
自分の二の腕を叩きながら花燭が笑った。
「走耳、聞いてみてくれ」
そこかしこの壁や床に耳を当てたり、手や金槌で叩いたりしていた清那が警護者を呼んだ。
闇の一角で空気が揺れ、光の中に走耳が現れた。
「音が違わないか?」
走耳は膝をつくと清那の指さす床に耳を当てる。拳で軽く床を叩いて彼はうなずいた。
「水流の音でわかりにくいが、床の下には井戸以外に空洞がありそうだ」
「水音の道か」
全員が色めき立つ。
しかし、その後全員が井戸部屋の天井から壁、階段、厨房、そして食堂の壁まで、少しでも隙間が無いかすべて調べたが、水音の道に通じる出入り口は見つからなかった。
「ここには非常用の出入り口は無いのだろうか」
数回目の目視でとうとう清那までもが音を上げる。
「でも、珍しい技法だよなあ。この陶器の継ぎ目は、薄い銅を巻いたガラスをスズと鉛の合金のはんだでくっつけるステンドグラスの技法と似ているけど、これははんだじゃないしなあ」
陶製の模樣の隙間を埋める黒い鉱物がわからないと美蓮が首をかしげる。
「この鉱物は何だろう。見たことが無いなあ。屋根の模様にも使われていた」
「食堂の上に、黒い模様があるなんて」
花燭がため息をついた。
「厨房は食材も保管するので黒は温度が上がりやすくあまり嬉しくは無いですね。古代からの模様ですから、なんとも出来ませんが私としては白にして欲しかったです」
思考停止に陥った一同を沈黙の帳が包む。
「今日はここまでですね。わからないときには原点に戻りましょう。私はもう一度あの本を当たります。ちょっと気になるのは、あの本を借り受けてきたときいやにホコリが無かったことです。まるで最近誰かが読んだように」
清那はそう宣言すると、きびすをかえしてさっさと部屋を出て行った。影が動き、走耳もその後を追ったようであった。
「俺は天井に上ってみる、食堂の隣の建物の窓から縄ばしごを降ろせば天井に立てるはずだ」
厨房の屋根の一部には、美蓮の言ったとおり黒い幾何学模様が描かれていた。しかしそれはごくわずかな領域で食堂の中の凝った意匠とは全く違うものであった。
「熱っ」
天井に降りたって金属部に触れた美蓮は、慌てて手を引っ込めた。
「大丈夫か。工芸科の手は資本だぞ、気をつけろ」
窓からはしごを掴んで固定している瑠貝が声をかける。
まだ春期とはいえ、そろそろ太陽も凶暴になってきている。夜は肌寒いとはいえ、この時期になると日が昇って程なく鉄の板に置いた卵が焼けてしまうほどの暑さになっていた。
「今日は深夜、学院に探検に行こうと思うのです」
「はあ? 何言ってんだ」
走耳は公子の横に立って首を振った。
「彼らが脱出したのは冬。そして、最近泥棒が出るのは夜。夕陽が失踪したのは雨の日。共通しているのは冷たい気温です。ならば、まだ冷える夜間にもう一度調べてみる意味があると思うんです」
走耳が目をつり上げて、大きく首を振る。
「お前のところ、きな臭いんだろう。先日も注意の手紙が来たばかりじゃ無いか」
このところ、清那宛てに刺客に気をつけろと知らせる書簡が多い。それは以前清那の世話をしていた、信じられる者達からの連絡であった。
「皇位継承者である長兄の体調が良くないらしいのです。もともと腺病質でしたが、最近は微熱を出して寝込むことも多いらしく母親の玲妃が半狂乱になって看病に当たっているようです」
「でも、お前と仲が良かった次兄がいるんだろ。ま、お前はこちらに追い払われているから、1番上の兄貴に何かあってもその次兄が後を継げば丸く収まるんじゃ無いのか」
「真秀の事ですね」清那はうなずく。「そのはずなのですが……」
清那の母も亡くなり、残る自分は辺境の砂漠の町に閉じ込められている。玲妃にとってはこの上ない状況であるはずなのに、万全を期すためであろうか常に清那には刺客が送られてきた。
牙蘭が居なければ自分などとっくにこの青銀の砂の一部になっている。未来を夢見るなんてことはもう止めていた、はずなのに。
自虐の微笑みを浮かべて、清那は紅茶の入ったカップに口をつける。
だが自分は、生きるという冒険の魅力を全身から振りまくあの人に出会ってしまった。
清那はため息をつく。
だから、死にたくなくなってしまったじゃないか。
ずっと、ずっと彼のそばでこの世界を見ていきたいという興味にとりつかれて。
「ふうん」
走耳がめずらしく清那の顔をのぞき込んだ。
「なんだか、生き生きしてるな」
「え……、あっ」
カップの取っ手を探った細い指が滑り、卓の上に赤い湖が出現する。
「いい傾向だ。世継ぎとか、血縁とかの問題を抱えている奴は、どうしても心の根が暗くなりがちだからな。自分のあずかり知らぬところで生きていることを疎まれるなんて、やってられないぜ」
慌てて卓の上を布きれで拭く清那を手伝おうともせずに、走耳は壁にもたれてじっと公子の背中を見ている。
「仕方ないな、できる限り守ってやるけど無茶はするなよ。俺は牙蘭ほど熱い奴じゃないからな」
ほとんどつぶやきに近い声は、ばたばたと右往左往する清那には届いていないらしい。端が赤く染まった手紙を慌てて救出しながら彼は小さな悲鳴を上げている。
「ふん、俺も甘くなったもんだ。あいつに会ってからな」
走耳の手が覚悟を表すようにそっと左腰に携えた剣に触れた。
その頃、美術工芸院の中の工芸科第一倉庫では製作室に通じる物資搬入用の新たな軌条が作られていた。
なにしろ大きな材料が必要となる科である。レドウィンの龍が卒展で一位を取ってから最近は大作が流行していて材料の搬入、搬出に苦労する事が増えた。だから、大きなトロッコが乗るような軌条を作ろうという話になったのである。
「美蓮、これでいいか見てくれ。今からネジで固定する」
先輩からの呼び出しで、美蓮は軌条を配置したところに走る。
倉庫から製作室につながる軒の無いむき出しの部分にはすでに固めた土の中に枕木が埋め込まれており、その上に固定を待つ鉄の線路が並べられている。
「ああ先輩、つなぎ目にはちょっと隙間を空けましょう。くっつけて置くと、夏季になって熱くなった鉄はさらに伸びてゆがんでしまいます」
そう指示した美蓮は、言葉を止めた。
「熱くなる……。天井で熱を受けた黒い金属が、食堂の模様のどこかにつながっていたら」
まだ柔らかな春季の日差しでも、やけどするくらい熱かったことを思い出し美蓮ははっと息をのんだ。
そのほとんどが利用する、無料の食堂。無理をすれば600人が座れる広い食堂だが、食事時は麺類などの簡単な注文以外は大皿が並べられ自分たちで気に入ったものを勝手に取る業態である。そのため配膳の職員はほとんど必要ない。皿洗いは学生を雇うことが多いので、厨房専属の職員は40人にも満たなかった。少数だが、士気の高い彼らは職人肌の高い技術を有する面々であり、ある意味芸術家としての一面を持っていた。
学院側も食事は健康の礎であるという意識が強く、学院生達の鋭気と体調を保たせるために食堂の充実に注力していた。学院生達は入学を許される時点で、すでに芸術家としての高い能力が認められている。彼らの作品は学生ながら高値で取引されることが多かった。在院中に創作した作品は少数の例外を除き学院に所有、販売権があり、そういった意味では一人一人が金の卵である。その無限の可能性を持つ卵達を無事にふ化させるため、学院側は食堂にかなりの金額をつぎ込み、細心の注意を払っていた。
だが、その厨房で食材がなくなるという不祥事が起こっているのである。
厨房側は学院長や警備隊に伝えたらしいが、些末なことと握りつぶされているようだった。現在煉州の内乱が起こった事もあり、彼らの目は総じてそちらに向けられている。このオアシスは三州を隔てる要害である砂漠の真ん中であり攻めやすい位置では無いが、ここを奪取することで無限の水を確保でき、他州を攻めやすくなる軍事的な利点の大きい場所であった。
煉州で新たな政権ができるようであれば、周囲の砂漠を含む広沙州の行政府も兼ねる学院は使者を送り、今まで同様の友好が続くように工作する必要がある。いざとなれば後ろ盾である叡州に助力を頼む必要もあるが、芸術に理解が深い、言い換えれば軍事に疎い叡州公がどこまで頼りになるかは疑問であった。残る波州は三州のなかで最も離れており、高い山脈で隔てられている。普通の旅でもたどり着くのが困難な波州とこの真珠の都はあまり交流が無く、富の集積地としての旨みは感じるだろうが、心情的に救いの手を差し伸べてくれる間柄では無かった。
周囲の情勢が風雲急を告げるなか、学院幹部も警備隊も厨房のこそ泥に関わり合っている余裕はなかった。
厨房の壁は一面凝った植物の装飾でびっしりと埋められている。複雑な形をもつ植物たちは、よく見ると焼き物で作った小さなモザイクが金継ぎのような技法で隙間無く合わさった技法で作られていた。
「この壁画は俺たち美術工芸史を取ってる奴は最初の授業で説明を受けるところだ。食堂はこの砦ができた頃の構造を残していて、焼き討ちにあったらしいが傷一つ付かずに焼け残ったらしい」
食堂の探検と聞いてなぜかやってきた瑠貝が得意げに説明する。
「教授はいつもナイフでこのモザイクタイルを突き刺すらしいが、傷一つ付かない」
瑠貝が指さしたところはつやつやと光り、十年以上毎年突き刺されたとはとても思えない。青天切といい、この壁といい、失われた古代の製陶文化は現在より進んでいたようだ。
多いときは一度に20人余りの職員が動く厨房はかなり広かった。
三階建ての美術工芸院だが、厨房と食堂だけは一階建てである。食堂には高い天井が確保され、その天井にはところどころ明りとりのガラスが埋め込まれている。厨房には煙を逃がす大きな長い窓が天井にしつらえられていた。
「僕ら工芸科はこの食堂の建物を上からも見るんだけど、平たい屋根の一部にも真っ黒で美しい装飾が懲らされているんだ」
この食堂に注目しているのは美術工芸史の連中だけでは無いのだと言いたげに美蓮が口を挟んだ。
「この建物は全く三州随一の宝だよな。焼け落ちなくて良かったよ」
麗射は腕組みをしてしげしげと壁を眺める。美術工芸院は、美の塊のため厨房の壁をこうやって改めて見ることは無かった。多分絵画科も入ってすぐここで同じような講義があったのだろうが、そのころ彼は牢獄で服役していたため皆と同じ記憶は共有していない。
「この部屋が井戸に通じています。階段がありますのでお気をつけください」
ランプの光に照らされて、闇の中に十段ばかりの下に向かう階段が浮かび上がる。
降りた先は部屋になっており、
井戸の下には水が流れているのか、井戸の中からどどどという低い音が反響している。
「調理人の修行の最初は水くみから始まります。両手に水を一杯にした桶を抱えてこの階段を何十往復もするんです。30日もするとやせっぽちの頼りなげな若者がみるみるうちに筋肉質になっていきますよ」
自分の二の腕を叩きながら花燭が笑った。
「走耳、聞いてみてくれ」
そこかしこの壁や床に耳を当てたり、手や金槌で叩いたりしていた清那が警護者を呼んだ。
闇の一角で空気が揺れ、光の中に走耳が現れた。
「音が違わないか?」
走耳は膝をつくと清那の指さす床に耳を当てる。拳で軽く床を叩いて彼はうなずいた。
「水流の音でわかりにくいが、床の下には井戸以外に空洞がありそうだ」
「水音の道か」
全員が色めき立つ。
しかし、その後全員が井戸部屋の天井から壁、階段、厨房、そして食堂の壁まで、少しでも隙間が無いかすべて調べたが、水音の道に通じる出入り口は見つからなかった。
「ここには非常用の出入り口は無いのだろうか」
数回目の目視でとうとう清那までもが音を上げる。
「でも、珍しい技法だよなあ。この陶器の継ぎ目は、薄い銅を巻いたガラスをスズと鉛の合金のはんだでくっつけるステンドグラスの技法と似ているけど、これははんだじゃないしなあ」
陶製の模樣の隙間を埋める黒い鉱物がわからないと美蓮が首をかしげる。
「この鉱物は何だろう。見たことが無いなあ。屋根の模様にも使われていた」
「食堂の上に、黒い模様があるなんて」
花燭がため息をついた。
「厨房は食材も保管するので黒は温度が上がりやすくあまり嬉しくは無いですね。古代からの模様ですから、なんとも出来ませんが私としては白にして欲しかったです」
思考停止に陥った一同を沈黙の帳が包む。
「今日はここまでですね。わからないときには原点に戻りましょう。私はもう一度あの本を当たります。ちょっと気になるのは、あの本を借り受けてきたときいやにホコリが無かったことです。まるで最近誰かが読んだように」
清那はそう宣言すると、きびすをかえしてさっさと部屋を出て行った。影が動き、走耳もその後を追ったようであった。
「俺は天井に上ってみる、食堂の隣の建物の窓から縄ばしごを降ろせば天井に立てるはずだ」
厨房の屋根の一部には、美蓮の言ったとおり黒い幾何学模様が描かれていた。しかしそれはごくわずかな領域で食堂の中の凝った意匠とは全く違うものであった。
「熱っ」
天井に降りたって金属部に触れた美蓮は、慌てて手を引っ込めた。
「大丈夫か。工芸科の手は資本だぞ、気をつけろ」
窓からはしごを掴んで固定している瑠貝が声をかける。
まだ春期とはいえ、そろそろ太陽も凶暴になってきている。夜は肌寒いとはいえ、この時期になると日が昇って程なく鉄の板に置いた卵が焼けてしまうほどの暑さになっていた。
「今日は深夜、学院に探検に行こうと思うのです」
「はあ? 何言ってんだ」
走耳は公子の横に立って首を振った。
「彼らが脱出したのは冬。そして、最近泥棒が出るのは夜。夕陽が失踪したのは雨の日。共通しているのは冷たい気温です。ならば、まだ冷える夜間にもう一度調べてみる意味があると思うんです」
走耳が目をつり上げて、大きく首を振る。
「お前のところ、きな臭いんだろう。先日も注意の手紙が来たばかりじゃ無いか」
このところ、清那宛てに刺客に気をつけろと知らせる書簡が多い。それは以前清那の世話をしていた、信じられる者達からの連絡であった。
「皇位継承者である長兄の体調が良くないらしいのです。もともと腺病質でしたが、最近は微熱を出して寝込むことも多いらしく母親の玲妃が半狂乱になって看病に当たっているようです」
「でも、お前と仲が良かった次兄がいるんだろ。ま、お前はこちらに追い払われているから、1番上の兄貴に何かあってもその次兄が後を継げば丸く収まるんじゃ無いのか」
「真秀の事ですね」清那はうなずく。「そのはずなのですが……」
清那の母も亡くなり、残る自分は辺境の砂漠の町に閉じ込められている。玲妃にとってはこの上ない状況であるはずなのに、万全を期すためであろうか常に清那には刺客が送られてきた。
牙蘭が居なければ自分などとっくにこの青銀の砂の一部になっている。未来を夢見るなんてことはもう止めていた、はずなのに。
自虐の微笑みを浮かべて、清那は紅茶の入ったカップに口をつける。
だが自分は、生きるという冒険の魅力を全身から振りまくあの人に出会ってしまった。
清那はため息をつく。
だから、死にたくなくなってしまったじゃないか。
ずっと、ずっと彼のそばでこの世界を見ていきたいという興味にとりつかれて。
「ふうん」
走耳がめずらしく清那の顔をのぞき込んだ。
「なんだか、生き生きしてるな」
「え……、あっ」
カップの取っ手を探った細い指が滑り、卓の上に赤い湖が出現する。
「いい傾向だ。世継ぎとか、血縁とかの問題を抱えている奴は、どうしても心の根が暗くなりがちだからな。自分のあずかり知らぬところで生きていることを疎まれるなんて、やってられないぜ」
慌てて卓の上を布きれで拭く清那を手伝おうともせずに、走耳は壁にもたれてじっと公子の背中を見ている。
「仕方ないな、できる限り守ってやるけど無茶はするなよ。俺は牙蘭ほど熱い奴じゃないからな」
ほとんどつぶやきに近い声は、ばたばたと右往左往する清那には届いていないらしい。端が赤く染まった手紙を慌てて救出しながら彼は小さな悲鳴を上げている。
「ふん、俺も甘くなったもんだ。あいつに会ってからな」
走耳の手が覚悟を表すようにそっと左腰に携えた剣に触れた。
その頃、美術工芸院の中の工芸科第一倉庫では製作室に通じる物資搬入用の新たな軌条が作られていた。
なにしろ大きな材料が必要となる科である。レドウィンの龍が卒展で一位を取ってから最近は大作が流行していて材料の搬入、搬出に苦労する事が増えた。だから、大きなトロッコが乗るような軌条を作ろうという話になったのである。
「美蓮、これでいいか見てくれ。今からネジで固定する」
先輩からの呼び出しで、美蓮は軌条を配置したところに走る。
倉庫から製作室につながる軒の無いむき出しの部分にはすでに固めた土の中に枕木が埋め込まれており、その上に固定を待つ鉄の線路が並べられている。
「ああ先輩、つなぎ目にはちょっと隙間を空けましょう。くっつけて置くと、夏季になって熱くなった鉄はさらに伸びてゆがんでしまいます」
そう指示した美蓮は、言葉を止めた。
「熱くなる……。天井で熱を受けた黒い金属が、食堂の模様のどこかにつながっていたら」
まだ柔らかな春季の日差しでも、やけどするくらい熱かったことを思い出し美蓮ははっと息をのんだ。