第32話 玲斗
文字数 2,365文字
さらにひと月がたち、実践画法の講義は簡単なスケッチから、徐々に描く時間を長くし、色を使って描く実践画法2の授業に発展していた。そして実践画法2からは講師は変わらないものの美術科の専門講義となるため、美蓮 の所属する工芸科からの受講が無くなった。その代わり基礎の強化を希望する美術科の上級生の受講が許されており、教場は一気ににぎやかになった。
上級生たちは、盛夏の美術展で毎年各講義の受講者から一人ずつ選ばれる優秀賞狙いの者が多く、実は再履修の必要が無いほどの腕前の者ばかりである。複雑な対象をまるで紙が鏡に代わったかのようにそっくり写し取る上級生たちは、技術の未熟な一回生たちにとって尊敬の対象であった。
講師だけではなく、実際に身近に高度な技術を持つ上級生が配されるこの時期、下級生たちの描写力は年の近い師のおかげで飛躍的に伸びる。しかしそれはそのまま力関係にも表れ、上下関係のほとんどないこの学院にはめずらしく、この講義では上級生の指示に逆らわないという不文律が成立していた。
美蓮が去り味方がいなくなった麗射にとって最悪だったのは、あの玲斗 がこの講座を受講し始めたことだった。彼は麗射がオアシスに初めて足を踏み入れた日に、道を聞いただけで暴力をふるった煉州 の貴族の子で、その出自や金髪碧眼の整った容姿、絵画の才能を鼻にかけ、子分を引き連れながら学院内を闊歩している。彼らは麗射が人気だったころにはなりをひそめていたが、人気に陰りが見えた今、あからさまに麗射を攻撃しはじめた。卵をぶつけられたり、小動物の死骸が画材を入れる袋に入っていたり。日々玲斗達の所業はひどくなっていった。
唯一の心許せる仲間である美蓮には、たまに会っても巻き込むことを恐れてこの状況を伝えていない。麗射はたった一人で、正式な試験を免除されて入学した嫉妬の洗礼を受けなければならなかった
「麗射、経是 講師が呼んでたぜ」
麗射が教室で写生の準備をしていると金髪の上級生、安理 から声がかかった。麗射を嫌っている経是が呼ぶはずがない、一瞬迷ったが逆らうことは許されない。彼はしぶしぶ席を立った。
安理は玲斗の子分で意地の悪い男だった。玲斗は権力と金に物を言わせて、水面下で教室中を掌握しているらしく皆見て見ぬふりをしている。
最近では「お前の居場所はない」とばかりに麗射は写生の場所を開けてもらえなくなった。いつも部屋の隅っこしかなく、人と人の隙間からかろうじて対象物の一部分が見えるばかりである。これでは満足に描けるはずもなく、経是講師の罵倒もさらにひどくなった。
写生の場所が取れないことに困った麗射は、朝食もそこそこに早朝からずっと教室に居座り場所を確保することにした。数日は成功していたのに、今日は新手の妨害だ。今教室を出ていけばどんなことになるかは目に見えていた。
しかし、上級生の命令は基本的に絶対だ。怪しいと思っていても講師室に行かないわけにはいかない。案の定、経是から何の用だとばかりに追い払われ、教室に戻ってみると廊下に彼の画材が散乱していた。おまけに麗射の確保していた一等地には玲斗の仲間が当たり前のような顔で座っている。呆然と廊下に立ちすくむ麗射に、誰も声をかけない。やってきた経是はちらりと麗射を見て、準備ができていない奴は帰れとばかり廊下と部屋を隔てるドアを閉めた。
相談できる唯一の上級生、レドウィンは卒業制作で部屋に帰ってこないし、孤高を保ち授業に出ない夕陽からはあまり建設的な助言が得られそうになかった。
麗射は頭を振ると、画材をずだ袋に入れて閉ざされた教室を立ち去った。
足は知らず知らずのうちにあの夕陽の絵が掲げてある廊下に向かっている。 初日には衝撃を受けて魂を持っていかれそうになった夕陽の絵だが、あれから何度か通ううちに冷静に対面することができるようになった。分厚く塗られた顔料が陰惨な光景に陰影をつけ深い色合いを演出している。天上の女神の背景には顔料の下に金箔が張られている。その効果で天女を取り巻く雲に何とも言えない光沢が浮き出ていた。
あのずぼらで世を捨てたような夕陽の作品とは思えないほど、この絵には多数の技法が繊細に駆使されていた。ここに来る前に相当絵の修練を積んでいることがうかがえる。何よりも光の効果が絶妙で、強い陰影は絵の迫力をいや増していた。しかし、特筆すべきは胸が悪くなるくらいのどろどろした凄惨な場面を描いているにもかからわず、絵全体から匂い立つ神々しさだった。
「これは彼にしか描けない世界だ」
麗射はため息をついた。自分にしか出せない雰囲気はあるのだろうか。落書きと紙一重の麗射の絵をほめてくれる人もいるが、自分の絵が他の人には描けないかというと疑問だ。
自分だけの魅力。自分だけの画法、何かあるのだろうか。
麗射は首を垂れてずっとその絵の前にいた。何かわからないが、聖なるものに助けを求めたかったのである。
牢獄の中でも殴る蹴るの暴行を受け、苦痛であった。が、今の彼はあの時とはまた違う精神的な打撃を受けていた。そしてこちらの方がよほど苦しいことを彼は身をもって感じている。彼はぶつぶつとつぶやきながらひざまずいた。特定の宗教を持たない彼は祈りの言葉を知らない、ただひたすら心の内を吐露して祈るしかなかった。しかし自らのためにひたすら祈っているうちに、祈りは獄の仲間たち、学院でできた仲間たちの幸せ、そして絵の中の女性の魂の安寧に広がっていった。
物陰からそんな麗射をそっとうかがう人影があった。しかし、麗射が顔を上げ、その場を立ち去る前にその人影は風に吹かれたように姿を消してしまった。
上級生たちは、盛夏の美術展で毎年各講義の受講者から一人ずつ選ばれる優秀賞狙いの者が多く、実は再履修の必要が無いほどの腕前の者ばかりである。複雑な対象をまるで紙が鏡に代わったかのようにそっくり写し取る上級生たちは、技術の未熟な一回生たちにとって尊敬の対象であった。
講師だけではなく、実際に身近に高度な技術を持つ上級生が配されるこの時期、下級生たちの描写力は年の近い師のおかげで飛躍的に伸びる。しかしそれはそのまま力関係にも表れ、上下関係のほとんどないこの学院にはめずらしく、この講義では上級生の指示に逆らわないという不文律が成立していた。
美蓮が去り味方がいなくなった麗射にとって最悪だったのは、あの
唯一の心許せる仲間である美蓮には、たまに会っても巻き込むことを恐れてこの状況を伝えていない。麗射はたった一人で、正式な試験を免除されて入学した嫉妬の洗礼を受けなければならなかった
「麗射、
麗射が教室で写生の準備をしていると金髪の上級生、
安理は玲斗の子分で意地の悪い男だった。玲斗は権力と金に物を言わせて、水面下で教室中を掌握しているらしく皆見て見ぬふりをしている。
最近では「お前の居場所はない」とばかりに麗射は写生の場所を開けてもらえなくなった。いつも部屋の隅っこしかなく、人と人の隙間からかろうじて対象物の一部分が見えるばかりである。これでは満足に描けるはずもなく、経是講師の罵倒もさらにひどくなった。
写生の場所が取れないことに困った麗射は、朝食もそこそこに早朝からずっと教室に居座り場所を確保することにした。数日は成功していたのに、今日は新手の妨害だ。今教室を出ていけばどんなことになるかは目に見えていた。
しかし、上級生の命令は基本的に絶対だ。怪しいと思っていても講師室に行かないわけにはいかない。案の定、経是から何の用だとばかりに追い払われ、教室に戻ってみると廊下に彼の画材が散乱していた。おまけに麗射の確保していた一等地には玲斗の仲間が当たり前のような顔で座っている。呆然と廊下に立ちすくむ麗射に、誰も声をかけない。やってきた経是はちらりと麗射を見て、準備ができていない奴は帰れとばかり廊下と部屋を隔てるドアを閉めた。
相談できる唯一の上級生、レドウィンは卒業制作で部屋に帰ってこないし、孤高を保ち授業に出ない夕陽からはあまり建設的な助言が得られそうになかった。
麗射は頭を振ると、画材をずだ袋に入れて閉ざされた教室を立ち去った。
足は知らず知らずのうちにあの夕陽の絵が掲げてある廊下に向かっている。 初日には衝撃を受けて魂を持っていかれそうになった夕陽の絵だが、あれから何度か通ううちに冷静に対面することができるようになった。分厚く塗られた顔料が陰惨な光景に陰影をつけ深い色合いを演出している。天上の女神の背景には顔料の下に金箔が張られている。その効果で天女を取り巻く雲に何とも言えない光沢が浮き出ていた。
あのずぼらで世を捨てたような夕陽の作品とは思えないほど、この絵には多数の技法が繊細に駆使されていた。ここに来る前に相当絵の修練を積んでいることがうかがえる。何よりも光の効果が絶妙で、強い陰影は絵の迫力をいや増していた。しかし、特筆すべきは胸が悪くなるくらいのどろどろした凄惨な場面を描いているにもかからわず、絵全体から匂い立つ神々しさだった。
「これは彼にしか描けない世界だ」
麗射はため息をついた。自分にしか出せない雰囲気はあるのだろうか。落書きと紙一重の麗射の絵をほめてくれる人もいるが、自分の絵が他の人には描けないかというと疑問だ。
自分だけの魅力。自分だけの画法、何かあるのだろうか。
麗射は首を垂れてずっとその絵の前にいた。何かわからないが、聖なるものに助けを求めたかったのである。
牢獄の中でも殴る蹴るの暴行を受け、苦痛であった。が、今の彼はあの時とはまた違う精神的な打撃を受けていた。そしてこちらの方がよほど苦しいことを彼は身をもって感じている。彼はぶつぶつとつぶやきながらひざまずいた。特定の宗教を持たない彼は祈りの言葉を知らない、ただひたすら心の内を吐露して祈るしかなかった。しかし自らのためにひたすら祈っているうちに、祈りは獄の仲間たち、学院でできた仲間たちの幸せ、そして絵の中の女性の魂の安寧に広がっていった。
物陰からそんな麗射をそっとうかがう人影があった。しかし、麗射が顔を上げ、その場を立ち去る前にその人影は風に吹かれたように姿を消してしまった。