第29話 銀の公子
文字数 2,371文字
「え、えっ……」
うろたえる彼の視線の先、いつの間にかあの少年が教壇の上に上がっていた。驚くことに、彼の髪の色はあの時のオレンジ色ではなく、つややかな銀色に変貌している。衝撃のあまり麗射は開いた口がふさがらない。
「皆さん、美術工芸院にようこそ。それでは、授業を始めましょうか」
微笑んで会釈をすると、清那は画面構成術の概要について話し始めた。
黒板に向いた瞬間、肩までまっすぐに落ちる銀色の髪がさらりと揺れた。
ああ、そうか。きらめく橙色から夕陽の色を抜くと銀色――。
夕陽が当たって、清那の銀の髪が橙色に染まっていたのだと気がつき、麗射は苦笑した。
画面構成術は算術を多く使う難解な授業であった。写し取った絵画の上に線を引いて分割し、どのような場所にどんなものが描かれているかを分析していく。麗射にとって初めての算法もあり、進む講義に置いていかれないよう、書き写すのが精いっぱいであった。
すごい形相だったのだろう、清那が麗射の方を見て目を丸くした。昨日は紅色に見えた瞳が青色に近い紫色に変わっている。
「わからないところがあれば、後で私の部屋に聞きにいらっしゃってください」
終業を告げる鐘の音とともに、銀の髪をさらりと揺らして教壇を降りると清那はすたすたと去って行った。
流れ落ちる滝を思わせる肩までの銀の髪。
やはり、この髪だ。
「深窓の令嬢」、あの高価で美しい顔料が壁画を彩った時、群衆の中で光った銀の髪に間違いない。画面構成術の講師であれば、あれだけ完ぺきな位置に銀色が投げられたのも頷ける。
この少年だったのか。
想像は確信に変わった。
牢獄からの解放に動いてくれただけではなく、清那は壁画にも協力してくれていたのだ。
しかし――、どうして。なぜ。
麗射の頭は混乱して、記憶の断片が次々に現れては消えまとまりがつかない。
先ほど公子は、質問に来ていいと言った。凶状持ちの自分だが、授業を受けている者として、会いに行っていいのだろうか。とりあえず、まずは獄から解放してくれた礼を言わないと。
麗射はそこまで結論付けると、渦巻き続ける脳内を鎮めるために両手で顔を覆うと何度か頬をこすり上げた。
すべての授業の終わりを告げる鐘の音がなると、夕食をとりに食堂に行く学生たちの波を逆走して麗射はさっそく講師棟に向かった。講義の合間に、清那は学生ではあるが講義を持っていることと、公子という特別な身分であることから講師棟に居室が割り当てられていることを美蓮から教えてもらっていた。
あの年にして、当代一流の芸術家である教授陣も舌を巻く絵画の腕、そして知識。おまけに天女と見まごう美しい顔立ちと高貴な血筋。何から何まで特別なあの少年がなぜ自分なんかを助けたのか、憐みか、気まぐれか、それとも才能を評価してくれたのか。
講師室の並ぶ講師棟の端っこに、こじんまりと清那の居室があった。流石に学生という身分からか、他の講師や教授たちに比べて部屋は小さい。
作法通りドアを5回叩いて、部屋の外で名前を名乗る。
「どうぞ、お入りください」
澄んだ声が部屋の外に響いてきた。
「何か御用ですか」
机に座って本を広げたまま、清那が振り向いた。落ち着き払った表情は威厳すら漂っており、先日荷運びを手伝ってくれた少年と同一人物とは思えない。気後れした麗射はドアの外に立ちすくんだ。緊張のあまり、用意していた敬語の台詞が吹っ飛んでいる。
「あ、あの。すまなかったなと思って。ほら、荷運びをさせてしまって。それに、あの、俺を獄中から助けてくれたのも君だと聞いて、お礼もしたくて」
「その件については両方ともお気になさらずに。減刑嘆願の件ですが、元はと言えば入学願書の不備が問題で、あなたは本来罰せられるべきではなかったのですから、誰かが行わなくてはいけなかったのです」
それだけ言うと、清那は無表情で麗射を見つめた。
「もしかしてあの壁画の作成の時に、白金の粉を投げてくれたのは君か」
「ええ、あの面白い試みに私も参加をさせてもらう権利があると思ったからです」
冷淡とまではいかないが、淡々とした感情のない声は、麗射を戸惑わせた。
先日とは打って変わったよそよそしい態度に麗射は面食らいながらも、麗射はそのまま会話を続けた。
「なぜ、君は――」
清那は麗射の言葉を手で制した。
そして大きく一息入れると口を開いた。
「あなたは先ほどから私を君と呼んでいます。私は学生でもありますが、あなた方に講義を行う者です。講師とお呼びください」
「もしかして、怒っているのか?」
「誤解を招かないように申し添えますが、私はすべての方に平等に接しています。先日のことで、あなたに不愉快な思いをさせるつもりはありませんからご安心を」
言葉を失っている麗射に、清那の言葉が追い打ちをかける。
「ただし、これ以上あなたと打ち解けるつもりはありません」
麗射からの質問がないことを察したのか、帰れとばかりに清那はドアの外に手を向けた。
それ以上取りつく島もなく、麗射はすごすごと部屋を後にする。
麗射は、帰りがけにあの回廊を通って再び叡州の州都、珠林の絵の前に立った。その静謐な画面に、最後に見た少年の凍り付いたような表情が重なった。
「大人の中で苦労してるのかな。なんだかこの風景画、美しいけど人を寄せ付けない寂しさがにじみ出ている」
そこで彼はふと清那に与えた黒砂糖飴の事を思い出した。
「初めて食べるって言っていたけど、公子様にとっては飴と言えば洗練された白い飴。屋台の黒飴は下賤すぎて食べたことがなかったってわけか……ちぇっ、美味いんだけどなあ」
とんでもない自分の勘違いに気が付いて、麗射は頭を掻いた。
うろたえる彼の視線の先、いつの間にかあの少年が教壇の上に上がっていた。驚くことに、彼の髪の色はあの時のオレンジ色ではなく、つややかな銀色に変貌している。衝撃のあまり麗射は開いた口がふさがらない。
「皆さん、美術工芸院にようこそ。それでは、授業を始めましょうか」
微笑んで会釈をすると、清那は画面構成術の概要について話し始めた。
黒板に向いた瞬間、肩までまっすぐに落ちる銀色の髪がさらりと揺れた。
ああ、そうか。きらめく橙色から夕陽の色を抜くと銀色――。
夕陽が当たって、清那の銀の髪が橙色に染まっていたのだと気がつき、麗射は苦笑した。
画面構成術は算術を多く使う難解な授業であった。写し取った絵画の上に線を引いて分割し、どのような場所にどんなものが描かれているかを分析していく。麗射にとって初めての算法もあり、進む講義に置いていかれないよう、書き写すのが精いっぱいであった。
すごい形相だったのだろう、清那が麗射の方を見て目を丸くした。昨日は紅色に見えた瞳が青色に近い紫色に変わっている。
「わからないところがあれば、後で私の部屋に聞きにいらっしゃってください」
終業を告げる鐘の音とともに、銀の髪をさらりと揺らして教壇を降りると清那はすたすたと去って行った。
流れ落ちる滝を思わせる肩までの銀の髪。
やはり、この髪だ。
「深窓の令嬢」、あの高価で美しい顔料が壁画を彩った時、群衆の中で光った銀の髪に間違いない。画面構成術の講師であれば、あれだけ完ぺきな位置に銀色が投げられたのも頷ける。
この少年だったのか。
想像は確信に変わった。
牢獄からの解放に動いてくれただけではなく、清那は壁画にも協力してくれていたのだ。
しかし――、どうして。なぜ。
麗射の頭は混乱して、記憶の断片が次々に現れては消えまとまりがつかない。
先ほど公子は、質問に来ていいと言った。凶状持ちの自分だが、授業を受けている者として、会いに行っていいのだろうか。とりあえず、まずは獄から解放してくれた礼を言わないと。
麗射はそこまで結論付けると、渦巻き続ける脳内を鎮めるために両手で顔を覆うと何度か頬をこすり上げた。
すべての授業の終わりを告げる鐘の音がなると、夕食をとりに食堂に行く学生たちの波を逆走して麗射はさっそく講師棟に向かった。講義の合間に、清那は学生ではあるが講義を持っていることと、公子という特別な身分であることから講師棟に居室が割り当てられていることを美蓮から教えてもらっていた。
あの年にして、当代一流の芸術家である教授陣も舌を巻く絵画の腕、そして知識。おまけに天女と見まごう美しい顔立ちと高貴な血筋。何から何まで特別なあの少年がなぜ自分なんかを助けたのか、憐みか、気まぐれか、それとも才能を評価してくれたのか。
講師室の並ぶ講師棟の端っこに、こじんまりと清那の居室があった。流石に学生という身分からか、他の講師や教授たちに比べて部屋は小さい。
作法通りドアを5回叩いて、部屋の外で名前を名乗る。
「どうぞ、お入りください」
澄んだ声が部屋の外に響いてきた。
「何か御用ですか」
机に座って本を広げたまま、清那が振り向いた。落ち着き払った表情は威厳すら漂っており、先日荷運びを手伝ってくれた少年と同一人物とは思えない。気後れした麗射はドアの外に立ちすくんだ。緊張のあまり、用意していた敬語の台詞が吹っ飛んでいる。
「あ、あの。すまなかったなと思って。ほら、荷運びをさせてしまって。それに、あの、俺を獄中から助けてくれたのも君だと聞いて、お礼もしたくて」
「その件については両方ともお気になさらずに。減刑嘆願の件ですが、元はと言えば入学願書の不備が問題で、あなたは本来罰せられるべきではなかったのですから、誰かが行わなくてはいけなかったのです」
それだけ言うと、清那は無表情で麗射を見つめた。
「もしかしてあの壁画の作成の時に、白金の粉を投げてくれたのは君か」
「ええ、あの面白い試みに私も参加をさせてもらう権利があると思ったからです」
冷淡とまではいかないが、淡々とした感情のない声は、麗射を戸惑わせた。
先日とは打って変わったよそよそしい態度に麗射は面食らいながらも、麗射はそのまま会話を続けた。
「なぜ、君は――」
清那は麗射の言葉を手で制した。
そして大きく一息入れると口を開いた。
「あなたは先ほどから私を君と呼んでいます。私は学生でもありますが、あなた方に講義を行う者です。講師とお呼びください」
「もしかして、怒っているのか?」
「誤解を招かないように申し添えますが、私はすべての方に平等に接しています。先日のことで、あなたに不愉快な思いをさせるつもりはありませんからご安心を」
言葉を失っている麗射に、清那の言葉が追い打ちをかける。
「ただし、これ以上あなたと打ち解けるつもりはありません」
麗射からの質問がないことを察したのか、帰れとばかりに清那はドアの外に手を向けた。
それ以上取りつく島もなく、麗射はすごすごと部屋を後にする。
麗射は、帰りがけにあの回廊を通って再び叡州の州都、珠林の絵の前に立った。その静謐な画面に、最後に見た少年の凍り付いたような表情が重なった。
「大人の中で苦労してるのかな。なんだかこの風景画、美しいけど人を寄せ付けない寂しさがにじみ出ている」
そこで彼はふと清那に与えた黒砂糖飴の事を思い出した。
「初めて食べるって言っていたけど、公子様にとっては飴と言えば洗練された白い飴。屋台の黒飴は下賤すぎて食べたことがなかったってわけか……ちぇっ、美味いんだけどなあ」
とんでもない自分の勘違いに気が付いて、麗射は頭を掻いた。