第55話 玲斗邸

文字数 2,839文字

 豪雨のあと数日で、なんと砂漠には短い草が一面に生えて見渡す限り緑になった。花が咲き始め、どこから来たのかバッタが群れを作って飛ぶ。小動物や野生のヤギたちまでも現れて、別天地と見まごう風景が続いた。
 しかし、景色をめでている余裕は麗射達には無かった。通常15日あまりの行程を4日で踏破する不眠不休の強行軍、百戦錬磨のアイゲルたちにとってはこれくらい日常茶飯事らしかったが、麗射も牙蘭も煉州の赤い城壁を見たときには半ば冥府に沈んだような亡者の顔つきに変わっていた。
 反対に生き生きとして仕切り始めたのが玲斗である。玲斗の顔を見るや否や、城門の兵士たちはかしずいて、ろくに調べもせずに一行を街に通したばかりか、玲斗の命令で彼の家に使いを走らせた。
「南の城門の町で一番大きな屋敷が我が家だ。もうすぐ迎えがくるから公子殿をお乗せしろ」
 言葉通り、ほどなくがっしりとした男たちに担がれた天蓋付きの輿が現れた。顔色を失い荒い呼吸をする清那を乗せて、輿の一団は一足先に玲斗の屋敷に向かった。疲弊した駱駝はいったん城門のあたりで休ませる事となり、玲斗達には屋敷から馬が連れてこられたが、牙蘭と麗射には何も乗るものが与えられず、二人は走って彼らの後を追った。
 屋敷は玲斗の言葉以上に壮麗で、城と言っても良いくらいの、灰色の太い壁に囲まれた、円形ドームの鐘楼を有する四階建てだった。西向きの窓にはステンドグラスがはめ込まれ、大理石の門は手の込んだ細工で飾り立てられている。いかめしい武人が屋敷の前に立ち、門を行き来する者を厳重に見張っていた。彼らは玲斗を見ると慌ててあの門番のように深く頭を下げた。
 玲斗は門に入って馬を降りると走り寄ってきた馬丁に手綱を渡す。馬丁が大声で呼ばわると、屋敷の中から数人が走り出てきた。
 アイゲルが、門の外で麗射の肩を叩いた。
「麗射、私どもはここで失礼する、二十日程度商いと静養をしたら今度は波間の真珠に向かうつもりだ。もし都合があえばご一緒しよう。静養はこの町の市場近くの定宿「玉連(ぎょくれん)」でするつもりだ、ジェズムと同じ「聡目(さとめ)の旗」を掲げておくから尋ねてくれ」
「世話になりました、公子が治れば帰途もご一緒させてください」
 麗射は深々とお辞儀をする。
 そのふたりの間に玲斗がずかずかと割り込んできた。
「おいアイゲル、世話になったな、これをめぐんでやろう」
 玲斗が顎をしゃくって、使用人らしき男に布袋を持ってこさせた。
 一瞬アイゲルの顔がこわばる。だが商人の損得感覚がその感情を凌駕したのか、にっこりと微笑むと頭を下げ、使用人から渡された布袋をうやうやしく頭上に掲げた。
「重いですな、これは?」
「煉州産の輝石で作った細工品がいくつか入っている。半塩板は超えているはずだから余りは施しだ。どうせこの細工の芸術的価値など行商人風情にはわからんだろうから、他の州に行ってお前たちの好きな金に換えるといい。ここは貴族の館でお前らがたむろする場所じゃないから用がすんだらさっさと立ち去れよ」
 そういい捨てると、今度は麗射と牙蘭のほうを振り向いた。
「公子は私がお預かりする。お前らもとっとと帰れ」
「私はご主人様から離れることはできない。馬小屋でいいからお借りできないか」
 玲斗は馬鹿にするように肩を大きくすくめた。
「我が館の馬小屋は漆と玉で輝き、一流の飾り物師が模様を彫り付けた美術品なみの場所だ。煉州でも指折りの駿馬が並ぶ、武人垂涎の馬小屋で、お前らが馬を入れている掘っ立て小屋とは違うんだよ」
「しかし、私は公子のそばを離れることはできない」
「平民が貴族の館に泊るっていうのか? 身の程を知れ」
 その時使用人が一人、玲斗の横に走り込んできて何かを耳打ちした。玲斗の顔色が変わる。
「なに、父上が」
 玲斗は二人を振り向くと吐き捨てるように言った。
「父がお前らを招いて夜に酒宴を開くそうだ。その汚れた体を使用人用の井戸小屋で洗ってこい。そんな汚い格好で館に上がってもらっては困る、なにかまともな服を用意させよう。しばらく使用人部屋も使わせてやる」
 玲斗は二人を睨みつけて去って行った。
 麗射と牙蘭は使用人部屋に案内された。そこは屋敷の北側に立てられた細長い粗末な小屋で、中には部屋ごとに申し訳程度の薄い仕切りが作られていた。
「この部屋は今空いていますので、お二人でお使いください。あまりきれいな場所ではありませんが、まあ天井があるだけでいいとしてくださいませ」
 案内をしてくれた、煌露(こうろ)と名乗った娘が二人の荷物を手早く戸棚にしまう。煌露は浅黒い肌に茶色がかった黒髪を後ろで束ねた美しい娘だった。
「君はもしかして波州の人?」
 語尾にかすかな波州訛りを聞き分けた麗射が尋ねる。
「ええ、父は煉州ですが、母が波州人です」
 煌渚は伏し目がちな黒い瞳でうなずくと、柔らかな物腰で二人に着替えと手拭いを差し出した。
「井戸小屋に参りましょう、狭くて暗い場所ですが、井戸水は飲めるほどきれいなものです」
 煉州は火山を擁し、火山灰を主としたその土壌は保水性が無いため大きな河川がない。人々は、切り立った地層の間から漏れ出る水を使うか、地面の下を走る伏流水を掘って井戸を作るかで水を得ている。
 しかし井戸はかなり深く掘らないと伏流水に当たらず、それすらも、深ければ牛馬を使って長いひもを引っ張らないと水を得られない不便な状態であることが多い。たまたま伏流水が浅いところを流れている場所は高位のものしか住むことができなかった。
 使用人用の井戸とはいえ、低いつるべが付いている立派なもので、彼の家の地位の高さを伺わせた。
「どうぞ、麗射殿」
 牙蘭は井戸小屋の前で立ち止まり、麗射に先を譲った。二人とも砂だらけ泥だらけである。牙蘭は清那の従者であるが、麗射とは対等の立場であり、麗射は清那を背負って強行軍を耐え抜いた牙蘭にこそ井戸を優先して使ってもらいたかった。
「先に井戸を使ってくれ、牙――」
 ふと麗射は口を閉じた。
 牙蘭は立ち止まったままずっと向こうを見ている。視線の先には先ほどの煌露の立ち去る姿があった。彼の目は吸い込まれるように浅黒い肌の娘の後を追っていた。
 麗射はそのまま何も言わずに井戸小屋の扉を開けた。
 薄暗い小屋の中には夢にまで見た水の匂いが立ち込めている。夢中で釣瓶を落とし、くみ上げた水のしぶきはしびれる様な冷たさで、麗射は釣瓶を傾けて震える手で水を受け何度も口に運んだ。落ち着くと麗射は服を脱ぎ、頭から水をかぶった。
 砂漠の砂埃が、苦労が、鮮烈な水で流れ去って行く。
 閉じた目の奥には砂漠行の様々な場面が浮かんでは消えた。
 ああ、終わったんだ。
 美術工芸院を立ってから初めて、麗射の心に落ち着きが戻ってきた。
 安理のことを考えると心をキリで疲れたような痛みが走るが、夕陽の言葉を信じて自分ができる限りの力は尽くした。やり切ったという思いがひしひしとこみ上げてくる。
 麗射は頭からもう一杯水をかぶった。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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