第1話 波間の真珠

文字数 6,427文字

 あれが、波間(なみま)の真珠か。
 青くけぶる風のかなた、乳白色の球体が時折キラキラと光りながら見え隠れしている。熱砂から立ち上る空気に揺られて、それはあたかも空中に浮遊しているようだ。
 さすが波間の真珠。聞きしに勝る美しさだ。
 麗射(れいしゃ)はうっとりとその光景を見ながら、青みがかった銀色の砂の上に立ち尽くした。カラカラに乾いた喉は、口まで巻いたマフラーで防いでも入ってくる細かい砂でじゃりじゃりと音を立てる。頭は拍動と共に締め付けるような痛みが繰り返し押し寄せ、焼け付く砂に埋もれた足は、真っ赤に腫れあがっている。しかし、よもや生きて見ることをあきらめていた風景が目の前にあることが、青年にすべての苦痛を忘れさせていた。
 まさかこれは天帝に召される前の夢うつつの幻視ではあるまいか。
 我に返った麗射は何度も頬を叩く。しかしどれだけ自らに苦痛を与えても、目の前の輝きは消えなかった。
 俺は正気だ。本当に、たどり着いたんだ。
 彼の目に熱いものがこみ上げる。球体が大きく歪んだ。
 あふれ出た感慨は彼の両目からぼろぼろと顎を伝って砂漠の砂に吸い込まれていく。きっと幾千、いや幾万の旅人たちもまた、この真珠の輝きをあふれる涙越しに見たことだろう。
 強い日差しを浴びて時折七色にきらめくこの球の正体は、オアシスに立つ美術工芸研鑽学院の高い塔の先端に設えられた陶板の丸いドームである。遠くからでも見えるそのドームは青銀砂漠のほぼ中央に位置するオアシスを目指す人々の格好の目印であった。
 砂漠の旅人たちはどこまでも続く青い風紋を波に、そして美しい球状のドームを真珠に模しこの目印を「波間の真珠」と名付けている。そしてそれはそのままこのオアシスの呼び名ともなっていた。
 長い砂漠の旅の果てにたどり着くオアシス。命の危険と隣り合わせの様々な苦難が、青い空を背にまばゆく輝く真珠が空中に浮かび上がる幻想的な光景を、より一層美しく見せていた。
 一刻も早くあの場所に行きたい。
 麗射は砂にめり込む足を引き抜きながら、両手を櫂のように振ってオアシスめがけて猛然と進み始めた。不思議なもので、あの真珠を見てからはすでに尽き果てたと思われていた力がどこからかむくむくと湧きあがってくる。
 手持ちの水はすでに無く、ひりつく喉を癒すものは何もない。容赦ない日差しとそれを受け止める砂から発される熱気の中でただ気力だけが彼を動かしている。
 もうすぐ水、水が飲める。奇跡の泉「銀嶺の雫(ぎんれいのしずく)」が俺を待っている。
 麗射は心の中でうわごとのように呟きながら自らを鼓舞した。
 このオアシスには氷のように冷えた水がこんこんと湧き出る泉がある。遠くの高い峰から雪解け水が地下を流れてくるのであろうか、熱砂に突如として湧き出る奇跡の湖は、昔から銀嶺の雫と呼ばれていた。豊かなオアシスに住む人々は旅人に寛容で、他のオアシスのように水源の利用に対し旅人から法外な利用料を要求したりしない。砂漠の旅人にとって「波間の真珠」は慈母のような場所であった。
 とりあえず、街に入ったらまっすぐに湖に向かおう。そして塩気のない透き通った湧水を喉いっぱいにごくごくと飲み込むのだ。
 麗射の頭の中には、一足先に満々と水をたたえる湖が出現している。
 飲み水が底をついた時には、この砂漠で行き倒れて砂塵と化すことも覚悟したが、なんとか生きてここまでたどり着けた。すべて海神のご加護だ。
 海に面した波州(はしゅう)出身の彼は、角と鱗を持つ頭から腰は人間、その下半分が海竜という姿の海神を信仰している。何度か海で溺れそうになった時、命をとりとめることができたのは海神のご加護だと麗射は信じている。もともとは海を行く船の安全を守る神だが、転じては旅行の無事を司るとも言われている。郷里から遠く離れたがまだご加護をいただいていると、麗射は心の中で郷里の神に何度も感謝の祈りをささげた。
 祈りが終わると少しでも早くオアシスに近づきたいとばかりに、麗射は風に膨らんで歩みを遅らせるフード付きのマントを体に引き寄せて歩み始めた。買ったときには白かったマントだが、半月に及ぶ砂漠踏破の間、この砂漠独特の色砂にまみれ続け今ではぼんやりと青い。
 最初こそ輝く奇岩の群れや、さざ波を思わせる幾重もの美しい曲線を纏った砂漠の風景に歓声を上げた麗射だが、四六時中口に飛び込み、歩んではその足を沈めて離さない砂、大きな寒暖の差の洗礼を受けて砂漠の厳しさを嫌というほど思い知らされている。さらに悪いことにこの青銀の砂漠は方位磁針が効かない。常に動きを止めない太陽や星の運行を熟知し、方角を正確に知ることができる者しか旅ができないのである。
 さんざんな目にあった今では、麗射もこの青銀の砂に対し、美しいというよりも嫌悪に近い感情が勝っている。もっとも、この傲然と人を寄せ付けない砂漠があることで、交通の要所であり、また富が蓄積するオアシスの街が奇跡的にどの国にも支配されず独立を保てているのだが。
 このオアシスの繁栄をもらたしたのは、あの真珠の塔を有する美術工芸研鑽学院である。人々はこの長ったらしい名前を略して美術工芸院、もしくはオアシス唯一の教育機関という事で、単に学院と呼ぶ。この美術工芸院は、オアシスの無尽蔵の水源と独立性に目を付けた芸術家たちが、美術工芸に理解のある叡州(えいしゅう)の国主を後ろ盾に設立した学院だ。この施設ができるまで美術家たちは各国の有力者におもねって作品を作ることがほとんどであった。そのため芸術は権力者を讃える方向でしか発展しなかったが、それを憂いた芸術家の一群が叡州の国主に直訴し、ここに束縛を受けない美術工芸の創作、教育拠点を作ったのである。叡州の国主は懐が深く、ともすれば思想的に逸脱しがちな表現者達に独立を約束し政治的、宗教的な規制をかけなかった。そのためこのオアシスの小さな街は他国には見られない自由な芸術が花開き、美術工芸を志す若者の憧れの地となっていったのである。
 さらに美術工芸院の名前が高まるにつれ、ここで製作された美術品は高値で取引されるようになった。その利益で今度は各地の芸術作品を収集したため、交易商人の出入りが増え、美と富が集積した。このようないきさつで、この『波間の真珠』は芸術とは無縁のものでさえ知っている芸術文化の一大発信地となったのである。
 富の集積地であるだけに、このオアシスに入る審査はかなり厳しい。重罪を犯した者や身元の怪しいものは、オアシスと砂漠の境界に高くそびえる厚い壁の内側に入ることは許されなかった。
 オアシスに近づいた麗射は、登りにくいように上方が反り返った白い壁の下に多数の黒い粒のようなものを見た。それはあたかも巨大な砂糖に群がるアリのようで、さらに近づいた彼はそれがオアシスに入るための審査待ちの人々だと知り深いため息をついた。この列に並ぶとすると麗射が冷えた水で喉を浸せるのはずいぶん先の話になりそうである。
 オアシスの入り口には筋骨隆々とした多数の門番がいかつい刀を下げて一人一人を尋問していた。しかし、尋問に時間がかかるのか列は一向に進もうとはしない。
 日中の強い日差しを避けるため、オアシス入り口には審査を受ける者にテントが用意されているが、全く足りておらず人々は壁でできた陰に列を作りながら延々とその順番を待っている。隊商の一群は仲間の1人をその列に並ばせて、自前で大きなテントを張りその中で交代に甘いミント茶を飲みながら日差しを避けて過ごしていた。
 麗射はずらりと並んだ人々の最後尾についた。
「また、審査が止まっちまったよ。順番が来るまでに日干しになっちまうぜ」
 商人らしき男が、伸びあがって列の前方を見ながらうんざりした声でつぶやいている。
「仕方ないさ、煉州(れんしゅう)がきな臭いんだ。いつこの真珠の都にとばっちりが来るとも限らないし、用心深くなるのも無理はないな」
 後ろに並んでいる別な隊商の一員らしき男が声をかける。
「用心なんて無駄だね。こんなに財宝のたくさん集まった無防備な都市だ。軍隊を持っていると言っても荒ぶる狼がやってくれば一瞬で食われちまうだろうよ」
 別な誰かが、合いの手を入れた。
 商人たちは概しておしゃべり好きだ。彼らは情報を財産の一つと考える。だが情報が独占してもさほど価値のないものと判断すれば、情報の呼び水として仲間内の会話に出して、代わりに場に湧いてきた新たな情報を取得する。命をかけて砂漠を旅する商人たちは皆、苛烈な商売敵ではあるがそれ以上に同じ生業を営む者として、いざという時は損得に関わらずに助け合うという慣習があった。
 列に並びながら延々と会話を続けているこの商人たちは気のいい連中らしく、先ほど麗射も乾燥させたナツメヤシの実をもらったばかりだ。カラカラの口に放り込んだ親指の先ほどの乾燥ナツメヤシはしばらくは味もなく固いままで口の中にあったが、柔らかくなるにつれ全身が望んでいた甘みを口いっぱいに広げ、脳天につき上げる様な快感を彼にもたらした。麗射の姿を見ていた商人が何も言わずにもう一粒彼にくれたのは、よっぽど恍惚とした表情をしていたからだろう。
「このオアシスに何かあれば、美術工芸院を設立した叡州(えいしゅう)公が黙ってはいないだろうな」
 美術工芸院の言葉に、麗射の耳がピクリと動く。
「確かに叡州公は名君だが、平時の名君が乱世でも名君とは限らないぞ」
「今でこそ叡州と煉州、そして波州の三つ巴の均衡が保たれているが、どこかにほころびが出ようものなら、各地で火の手が上がるのは時間の問題だからな」
「まあ、お互いに商機を逃さないようにしようぜ」
 麗射もここに来る道すがら砂漠の北に位置する煉州の政治がどうも不安定だという噂は耳にしていた。反乱を企てた民衆勢力もあるようだが今は鎮圧されて大事には至っていないらしい、だがもっと求心力のある統率者が出れば今の王室は危ういだろうということを商人たちは話していた。
 美術工芸院の後ろ盾である叡州公が治める叡州は、砂漠の西に位置する小さな国だ。政情が不安定になっている煉州と低い山地で隔てられているだけの隣同士ではあるが山がちでやせた土地が多く貧富の差が大きい煉州と比べ、小さいながらも高い峰を有し、ふもとに広がる平野に網目のように広がる河川を有する叡州は作物の収穫も良く飢える者は少ない。今の煉州の国主は叡州の公主の娘を妃に迎えている関係もあり、今のところ両国にすぐさま戦の火ぶたが切られるようなことはないと言われているが、不満が臨界点までに達した煉州で統治者が変われば、この繁栄する隣人を今までのように放置しておかないであろうと噂されていた。
「お若いの、一人旅の様だが学院に行きなさるかね」
 先ほどナツメヤシの実をくれた商人が声をかけてきた。
「ええ、故郷の師匠に絵描きになることを勧められてここに来たんです。故郷を旅立ったのが半年前、実は推薦状はもっと前にいただいていたのですが、ここへの入学費用と路銀を稼ぐだけで二年ほど費やしてしまいました」
「それは大変だな。しかし、ここへの推薦状をもらうだけでも相当難しいと聞くぞ。あんた才能があるんだな。そうだ、もしよかったら是非わしの絵を描いてくれ」
 さすが商人。転んでもただは起きない。その鍛え上げられた嗅覚で先ほどのナツメヤシの実を、何か価値のあるものに変えようとしているようだ。
「ええと……」
 麗射は口ごもる。麗射の絵は風景や人物をそのまま描くものではない。対象を心の中にじっくりと取り込んでから、咀嚼し、熟成し一気に放出するものなのだ。そして、情熱の塊となって噴出されるその対象は、描かれる段階においてすでに対象の原型をとどめていない。
「こ、これが俺の絵なんですが」
 ふたりの会話に商機を感じたのか、列に並ぶ他の商人たちも我先に顔を寄せてきた。
 しかし、麗射が取り出した紙の上に彼らが期待したものは描かれていなかった。
 紙に描かれた絵はうねった渦や、たたきつけたようなしぶき、折れ曲がる線が縦横無尽に走っているだけである。意味は無く、ただ鮮やかな色がひたすら踊り狂っているように見える。
「うぅむ」
 商人達は黙り込んでしまった。上手い下手を論ずるより先に落書きとの違いがよくわからないのであろう。
 彼らは、これでは売り物にはならぬと判断したのか、薄笑いを浮かべながら三々五々に散っていく。さきほど声をかけてきた男も肩をすくめて麗射のそばから去って行った。
 こんな反応は慣れている。今までも彼の絵の理解者はほんの一握りだった。麗射は苦笑いを浮かべながら、絵をたたみ始めた。
 しかし、背後に何かの気配感じて彼はその手を止めて振り向いた。
 麗射の後ろから赤銅色の顔をした年配の商人が眉間にしわを寄せてじっとその絵を見ていたのである。その老人は後ろに屈強な数人のお付きの者を従えていた。
「すみません、こんな絵で」
 時にこの絵を解釈しようとして悩んでしまう人々がいる。自分の妙な絵が苦痛を与えてしまったかもしれないと、麗射は詫びて丁寧に頭を下げた。
 いや。と、その商人は首を振った。
 ふと見ると、目にうっすらと涙がにじんでいる。
「若い頃に、好きな女を別の男と争ったことがある。気恥しくなるくらい熱い恋じゃった。結局女は人生の荒波にその命を奪われての。その時の荒れ狂う気持ちを思い出したのじゃ。遠い昔の話だが、この絵を見ているとなぜかはっきりと思い出す」
 しばらくの沈黙ののち、なんとも不思議な絵だな。と、老人は微笑んだ。
 白い眉毛が垂れさがり、皺と皺の深い谷間に細い目が吸い込まれる。
「よ、よかったら」
 自分の絵に涙を流してもらったのは麗射にしても初めての経験だった。
「この絵をお持ちください」
 商人はびっくりしたように皺にうずもれた目を見開く。
「大切な絵なんだろう。お主、路銀が足りていないのか?」
「いえ、お金は要りません」
 麗射は頭を深々と下げ、捧げ持つようにして薄っぺらい紙に描かれた絵を差し出した。
「お荷物でなければ、どうぞお持ちください」
 故郷でも理解者は絵の師匠だけであった。村の者はもとより、家族ですら彼が絵で身を立てると宣言したときに嘲笑して、翻意を迫ったのだ。
「あなたの言葉が、私にとって何よりの報酬です」
 老人の目は再びしわくちゃの顔の中に吸い込まれた。
「そうか、それではその心意気をいただくとしよう。わしはこの絵を見るたびに若い頃の情熱を思い出すことができるじゃろうて」
 老人はうれしそうに絵を折ると懐にしまった。
「だが、若いの。残念じゃがこの絵の良さを解る人間はほとんどいないじゃろう。お前さんは故郷で肉体を使って仕事をしていたようだな、細いが無駄のない肉付きだ。ちょっと筋肉が多すぎて砂漠を踏破するには向いていないかもしれんが、もし絵師の仕事がうまく行かなければわしの隊商に加わるといい。わしの名前はジェズム。隊商の中ではちょっと知られた男だ。何か困ったことがあれば言え。わしが力になってやろう」
 ジェズム。麗射の聞き知った名前の語感とは違う、遠い異国の香りのする名前だった。改めてまじまじとその男の顔を見た麗射は、その男の瞳が初めて見る深い緑色であることに気が付いた。
 老人はそう言い残すと、くるりと踵を返しゆっくりとした足取りでいくつも張られた中でもひときわ豪奢なテントに戻って行った。
「あの男、人の心をつかんで渦を起こす破転の相をしておる。担がれて天子になって世を統べるか、裏切られ非業の死をとげ冥府の主になるか。どちらにせよ、平穏な人生など望むべくもないな」
 そう呟くとジェズムはテントの中で再び先ほどの絵を広げる。
 天はあの青年をどうするつもりなのか、面白い絵を描く男なのに。
 老人は天の気まぐれが青年の前途をかき乱すことを、年を経た者の特有の勘で確信して大きなため息をついた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み