第95話 暗殺
文字数 4,452文字
「昨日はニンニクが盗まれたらしい」
憤懣 やるかたないといった表情で美蓮は乱削麺を頬張る。
「これに揚げたニンニクがちょっと入れば、食欲も出るのに。一刻も早く謎を解かなきゃ、俺飢え死にするぜ」
彼の横にはどんぶりが3つ積み重なっている。周囲からあきれたような視線が集中するが、美蓮は意に介するそぶりもない。
「一刻も早く解明しなければという点は、私も同感です。美蓮」
公子が笑いながらうなずく。美蓮もうれしそうに話に食いついた。
「気温とあの不思議な模様、先ほどの公子との話し合いでつながりましたよね。もう答えは得たも同然です。ああ、早く確かめたい」
「気持ちはわかりますが夜を待ちましょう。それも、できるだけ冷え切った真夜中」
たしなめているはずの公子だが、上気した頬にキラキラした瞳で、実は美蓮よりも待ちきれない気持ちがにじみ出ている。しかし、ふいに彼の顔に影が走った。
「無くなる食料から考えて、盗人は一人だと思いますが、凶暴な輩 かもしれません。厨房の人々そして学院生は食堂に入らないように皆にふれておいてください」
「ああ、すでに掲示してあるし、科ごとの責任者にできるだけ伝えるように頼んだ」
学生代表として風格が出てきた麗射が大きくうなずいた。
「俺は、公子にも来て欲しくないんだが――」
「じゃあ、手はず通りで」
ぴしゃりとはねつけて、公子は席を立った。
深夜。麗射と美蓮が公子を迎えに来た。
日中の暑さに比べ、夜は身を切られるほどの寒さになる。二人とも服の上から薄手の毛布を引っかけていた。
「瑠貝は?」首に絹の布を巻き、フード付きの黒いマントを羽織った清那が出てきた。
「風邪引いたらしくて寝込んでます。なんかマントを盗まれたみたいで、結果だけ教えてくれって言ってました」美蓮が肩をすくめる。
「それにしても間の悪い奴。謎解きの感動はその場にいないと解らないのに」
三人はそれぞれに燭台を持って深夜の食堂に足を踏み入れる。もちろん走耳も付いてきてはいるのだが、彼はどこかの暗闇に紛れてこちらを見ているに違いない。食堂から厨房への扉は閉じてあるため、麗射が預かっていた鍵で開けて、皆は真っ暗な厨房に入り込んだ。
「それでは手分けをしてもう一度探索です」
それぞれの手に燭台を持って一つ一つの壁に手を触れながら境界がないかどうか調べる。模様が複雑に施されているため、それはかなり煩雑な仕事であった。
美蓮は脚立を持ってきて主に上の方を、清那は中間、麗射は彼らから離れた壁の下を這いつくばって探している。
半刻(1時間)も探した頃か。食堂に置いてある燭台の火が揺れ、見慣れたマントを被った人影が食堂に入ってきた。
「瑠貝、やっぱり来たのか?」
厨房から出て、麗射が近づく。
「違う、瑠貝のマントは……」美蓮が叫ぶ。
その時にはすでに瑠貝のマントを着た何者かはいきなり走り出すと麗射に斬りかかっていた。
柱の陰から、走耳が片手で青天切を抜きながら飛び出す。
賊が振り下ろした短剣は麗射の額のところで、一閃した青い剣に砕かれた。
素早く間合いに入り、走耳は賊の鳩尾 に思い切り蹴りを突っ込む。
男は食堂の端まで吹っ飛んで動きを止めた。
しかし、影は一つではなかった。
走耳の目の端には、食堂に出てきた清那に突進する黒い人影が見えている。
立ちすくむ公子。
しまった。麗射は囮 だったか。
賊は右手を振りかぶる。短剣か――。
考えるよりも早く走耳の足が床をける。清那に飛びつくと、抱きかかえたまま彼の体は激しく床にたたきつけられた。
「来るな、来るなっ」
美蓮も食堂に出てきて脚立を振り回す。しかし、すでに賊の姿は無い。
「上だっ」
走耳は叫ぶと、食堂の隅っこの梁にぶら下がる男に向かって走り――いや、彼は走り出すことが出来なかった。立とうとしてぐらりと身体を揺らし、床に倒れ込む。引きずった左足には深々と短剣が突き刺さっていた。それでも走耳は食堂の机に掴まりながら立ち上がると、足を引きずりながら男に近づいていく。左足を進めるたびに、短剣が刺さった部分から血がドクドクと流れ出た。
梁から男が、飛び降りた。
「お前、早くとどめをさして欲しいようだな」
麗射が走耳のところに駆け寄ってくる。
「足手まといだ、来るな」
厳しい声とともに、走耳は容赦なく傍らの麗射を突き飛ばす。
「清那を守ってさっさと外に出ろ」
「そ、走耳っ」美蓮の叫びが響く。「駄目だ、食堂出口が賊に囲まれているんだ」
男は薄笑いを浮かべながら、青天切を構える走耳にゆっくりと近づいてきた。
「無駄な抵抗だ、食堂は仲間で取り囲んでいる。お前達が人払いしてくれたおかげだ。観念してさっさと冥府に行け」
走耳は食堂のテーブルを左手で掴みながら、男に切っ先をを向ける。顔面蒼白だが、殺気は衰えていない。
「私の命は差し上げます。だからこの人たちは――」
「無駄だ、公子。こいつらは俺たちを一人残らず殺すつもりだ」走耳が清那の言葉を遮る。
走耳の身体がガクガクと揺れ始めた。
彼の全身から力が抜けていく。あの短剣にはしびれ薬が塗ってあったようだ。
それでも走耳は青天切を握りしめて離さない。
目の前がかすんでいく。しかし、その時走耳は妙な光景を見ていた。
これは、幻覚か。
食堂の外にいた賊達が、一人一人ゆっくりと倒れていく。
目の前の男が振り向いて何か叫ぶ。
何かが、白くてモサモサした何かが走ってくる。
それは――。
走耳の目の前で、賊が空を舞った。
白いモサモサした頭。枯れ枝のようだが、実は筋肉質のカマキリのような姿態。
「久しぶりだな、未熟者」
「爺さん、ニンニク臭いぜ……」
走耳は顔をしかめて床に倒れ込んだ。
「ここから出入りしてたんだ」
麗射は厨房の模様に沿って指を走らせる。厚いときは膨張してぴったり隙間無く隠れるドアの輪郭だが、屋上の模様が冷たくなるとここにまで冷たさが伝わって、金属が収縮することでツメの先ほどの隙間が出来る。入口は花で描かれた文様の中心を押せば開くようになっていた。それにしてもなんと繊細な隠し扉か。麗射はため息をつく。戸の輪郭は模様に沿っていびつに走っており、かなりの範囲が開くが、言われても最初は解らないくらいのわずかな隙間であった。
「しかし隠れてたのが、幻風だとは思わなかったよ」
麗射にとっては牢獄以来の再会である。老人は意気軒昂 で、なんだか以前よりも若返っているように見える。
「ははは、すでに調べがすんでいる場所ほど潜むのに安全なところはないし、ここは麗射や走耳達を見守るのに丁度良い。水もあるし、食材も豪華だし、ついつい盗み食いをしてしもうた」
白髪の老人は椅子を並べて作った簡易の寝台の上で走耳の傷を酒で洗いながら言った。
「まあ、老い先短い爺いじゃ、どうか許してくれ」
「俺、幻風って永遠に生きのびそうな気がしてるけどね」首をひねりながら麗射がつぶやく。「それはそうと、走耳はいつ頃目を覚ますかな」
「あと半刻もすれば目覚めるだろう。公子は生け捕りにするつもりだったらしい。刀に塗られていたのは毒ではなく、安物のしびれ薬じゃ、効き目もそんなに続かん」
「私のためにご迷惑をおかけしました」
真っ赤な目をして清那が頭を下げる。
「麗射にも止められていたのに……。私の勝手なふるまいで、走耳に傷を負わせてしまった」
「まあ、こいつもお前さんの事が、他人事とは思えないんだろうな」
幻風は白い髭をしごいた。
「世が世なら、煉州 王だったかもしれない男だからな、こいつは」
皆が息をのむ。
「だって、走耳は前政権の遺児の末端の末端って」
麗射の言葉に、幻風は顔を振る。
「いいや、コイツは直系も直系。前王朝の最後の王と、ある美しい女剣士の子供さ」
幻風は食堂の酒を手酌で注ぐとぐいっと煽った。
「ちょっとした縁 があってな、わしとジェズムは身ごもったその女剣士と旅をしたのさ。彼女が安心して子供を産める土地に送り届けるためにね。まだわしらもそこそこ若くてな、身重の彼女と冒険に継ぐ冒険じゃったが、バラ色の日々に思えた」
目尻が赤くなっているのは、酒のためかそれとも他の理由があるのか。
「わしは煉州王の事は知らないが、コイツの皮肉屋なところは母親そっくりだ。柔らかな茶色の毛も、地味だが整った顔立ちも。コイツの母親は心の強い奴だった。我が身を削っても人のために尽くすような……わしらまで巻き込まれていつも人助けにこき使われていたがね」
「幻風は好きだったんですね、走耳の母親のことを」
いきなりの麗射の言葉。幻風は飲みかけた酒にむせて、喉がひっくり返るくらい咳をする。
「いや、わしらも今よりは若いとはいえ、いくら何でも年の差がありすぎてな。そんなよこしまな心は……」
三人の意味ありげな視線を一身に受けて、幻風は観念したように首を振った。
「ああ、そうじゃ。恋をしていたよ。わしも、そして多分ジェズムも」
麗射の目が大きく開いた。
初めてジェズムに会った時、麗射の絵を見たジェズムが言った言葉。
『若い頃に、好きな女を別の男と争ったことがある。気恥しくなるくらい熱い恋じゃった。結局女は人生の荒波にその命を奪われての。その時の荒れ狂う気持ちを思い出したのじゃ。遠い昔の話だが、この絵を見ているとなぜかはっきりと思い出す』
走耳の母親は……。
麗射は目を伏せる。
「いつかはコイツに話さないといけないと思いつつもな、何から話して良いかわからないまま時間だけが過ぎてしまった。ジェズムもいきなりこの子に会ってびっくりしたろう。脱獄の時にたまたまオアシスに居るなんて、やはり縁 というものがあったんだろうな」
幻風は慈しむように走耳の茶色の髪をなでる。起きてるときにしようものなら、罵 られて喧嘩になりそうだが、眠っている走耳はピクリとも動かない。
「何もしてやれないが、わしらはいつもお前の幸せを願っているよ」
ぐすぐすと鼻をすする音がする。それは、清那だった。
「私は、彼のことを何でも冷たい視線で見る皮肉屋で、何も背負わない気楽な男だと思っていました。彼の過去にそんなことがあったなんて。ごめんなさい、ごめんなさい、走耳」
どこから出てくるのだろうかと思うほど、涙の雫は止りそうに無い。
「公子、ひとつ提案があるんじゃが」
幻風がにやりと笑った。
「あなたは学院の寮に入られたらいかがか。麗射の横の者は卒業したようだから、ちょうどそこに入れば良い。走耳はその部屋のどこかに吊床でも下げて寝るじゃろう。警備兵が常にいる場所の方がやはり何かと安全じゃし、わしも盗み食いのお詫びに厨房で働こうかと思っているんじゃ、走耳とともにあなたをお守りいたそう」
ポカンと口を開けた公子。
慌てたのは麗射である。
「い、いや、いくら何でも俺の部屋はむさくるしくて、公子――」
「それは良い考えですね、是非お言葉通りにさせていただきます」
麗射の言葉を遮って、清那が快諾した。公子は鼻の頭を赤くしたままにっこりと微笑んだ。
「これに揚げたニンニクがちょっと入れば、食欲も出るのに。一刻も早く謎を解かなきゃ、俺飢え死にするぜ」
彼の横にはどんぶりが3つ積み重なっている。周囲からあきれたような視線が集中するが、美蓮は意に介するそぶりもない。
「一刻も早く解明しなければという点は、私も同感です。美蓮」
公子が笑いながらうなずく。美蓮もうれしそうに話に食いついた。
「気温とあの不思議な模様、先ほどの公子との話し合いでつながりましたよね。もう答えは得たも同然です。ああ、早く確かめたい」
「気持ちはわかりますが夜を待ちましょう。それも、できるだけ冷え切った真夜中」
たしなめているはずの公子だが、上気した頬にキラキラした瞳で、実は美蓮よりも待ちきれない気持ちがにじみ出ている。しかし、ふいに彼の顔に影が走った。
「無くなる食料から考えて、盗人は一人だと思いますが、凶暴な
「ああ、すでに掲示してあるし、科ごとの責任者にできるだけ伝えるように頼んだ」
学生代表として風格が出てきた麗射が大きくうなずいた。
「俺は、公子にも来て欲しくないんだが――」
「じゃあ、手はず通りで」
ぴしゃりとはねつけて、公子は席を立った。
深夜。麗射と美蓮が公子を迎えに来た。
日中の暑さに比べ、夜は身を切られるほどの寒さになる。二人とも服の上から薄手の毛布を引っかけていた。
「瑠貝は?」首に絹の布を巻き、フード付きの黒いマントを羽織った清那が出てきた。
「風邪引いたらしくて寝込んでます。なんかマントを盗まれたみたいで、結果だけ教えてくれって言ってました」美蓮が肩をすくめる。
「それにしても間の悪い奴。謎解きの感動はその場にいないと解らないのに」
三人はそれぞれに燭台を持って深夜の食堂に足を踏み入れる。もちろん走耳も付いてきてはいるのだが、彼はどこかの暗闇に紛れてこちらを見ているに違いない。食堂から厨房への扉は閉じてあるため、麗射が預かっていた鍵で開けて、皆は真っ暗な厨房に入り込んだ。
「それでは手分けをしてもう一度探索です」
それぞれの手に燭台を持って一つ一つの壁に手を触れながら境界がないかどうか調べる。模様が複雑に施されているため、それはかなり煩雑な仕事であった。
美蓮は脚立を持ってきて主に上の方を、清那は中間、麗射は彼らから離れた壁の下を這いつくばって探している。
半刻(1時間)も探した頃か。食堂に置いてある燭台の火が揺れ、見慣れたマントを被った人影が食堂に入ってきた。
「瑠貝、やっぱり来たのか?」
厨房から出て、麗射が近づく。
「違う、瑠貝のマントは……」美蓮が叫ぶ。
その時にはすでに瑠貝のマントを着た何者かはいきなり走り出すと麗射に斬りかかっていた。
柱の陰から、走耳が片手で青天切を抜きながら飛び出す。
賊が振り下ろした短剣は麗射の額のところで、一閃した青い剣に砕かれた。
素早く間合いに入り、走耳は賊の
男は食堂の端まで吹っ飛んで動きを止めた。
しかし、影は一つではなかった。
走耳の目の端には、食堂に出てきた清那に突進する黒い人影が見えている。
立ちすくむ公子。
しまった。麗射は
賊は右手を振りかぶる。短剣か――。
考えるよりも早く走耳の足が床をける。清那に飛びつくと、抱きかかえたまま彼の体は激しく床にたたきつけられた。
「来るな、来るなっ」
美蓮も食堂に出てきて脚立を振り回す。しかし、すでに賊の姿は無い。
「上だっ」
走耳は叫ぶと、食堂の隅っこの梁にぶら下がる男に向かって走り――いや、彼は走り出すことが出来なかった。立とうとしてぐらりと身体を揺らし、床に倒れ込む。引きずった左足には深々と短剣が突き刺さっていた。それでも走耳は食堂の机に掴まりながら立ち上がると、足を引きずりながら男に近づいていく。左足を進めるたびに、短剣が刺さった部分から血がドクドクと流れ出た。
梁から男が、飛び降りた。
「お前、早くとどめをさして欲しいようだな」
麗射が走耳のところに駆け寄ってくる。
「足手まといだ、来るな」
厳しい声とともに、走耳は容赦なく傍らの麗射を突き飛ばす。
「清那を守ってさっさと外に出ろ」
「そ、走耳っ」美蓮の叫びが響く。「駄目だ、食堂出口が賊に囲まれているんだ」
男は薄笑いを浮かべながら、青天切を構える走耳にゆっくりと近づいてきた。
「無駄な抵抗だ、食堂は仲間で取り囲んでいる。お前達が人払いしてくれたおかげだ。観念してさっさと冥府に行け」
走耳は食堂のテーブルを左手で掴みながら、男に切っ先をを向ける。顔面蒼白だが、殺気は衰えていない。
「私の命は差し上げます。だからこの人たちは――」
「無駄だ、公子。こいつらは俺たちを一人残らず殺すつもりだ」走耳が清那の言葉を遮る。
走耳の身体がガクガクと揺れ始めた。
彼の全身から力が抜けていく。あの短剣にはしびれ薬が塗ってあったようだ。
それでも走耳は青天切を握りしめて離さない。
目の前がかすんでいく。しかし、その時走耳は妙な光景を見ていた。
これは、幻覚か。
食堂の外にいた賊達が、一人一人ゆっくりと倒れていく。
目の前の男が振り向いて何か叫ぶ。
何かが、白くてモサモサした何かが走ってくる。
それは――。
走耳の目の前で、賊が空を舞った。
白いモサモサした頭。枯れ枝のようだが、実は筋肉質のカマキリのような姿態。
「久しぶりだな、未熟者」
「爺さん、ニンニク臭いぜ……」
走耳は顔をしかめて床に倒れ込んだ。
「ここから出入りしてたんだ」
麗射は厨房の模様に沿って指を走らせる。厚いときは膨張してぴったり隙間無く隠れるドアの輪郭だが、屋上の模様が冷たくなるとここにまで冷たさが伝わって、金属が収縮することでツメの先ほどの隙間が出来る。入口は花で描かれた文様の中心を押せば開くようになっていた。それにしてもなんと繊細な隠し扉か。麗射はため息をつく。戸の輪郭は模様に沿っていびつに走っており、かなりの範囲が開くが、言われても最初は解らないくらいのわずかな隙間であった。
「しかし隠れてたのが、幻風だとは思わなかったよ」
麗射にとっては牢獄以来の再会である。老人は
「ははは、すでに調べがすんでいる場所ほど潜むのに安全なところはないし、ここは麗射や走耳達を見守るのに丁度良い。水もあるし、食材も豪華だし、ついつい盗み食いをしてしもうた」
白髪の老人は椅子を並べて作った簡易の寝台の上で走耳の傷を酒で洗いながら言った。
「まあ、老い先短い爺いじゃ、どうか許してくれ」
「俺、幻風って永遠に生きのびそうな気がしてるけどね」首をひねりながら麗射がつぶやく。「それはそうと、走耳はいつ頃目を覚ますかな」
「あと半刻もすれば目覚めるだろう。公子は生け捕りにするつもりだったらしい。刀に塗られていたのは毒ではなく、安物のしびれ薬じゃ、効き目もそんなに続かん」
「私のためにご迷惑をおかけしました」
真っ赤な目をして清那が頭を下げる。
「麗射にも止められていたのに……。私の勝手なふるまいで、走耳に傷を負わせてしまった」
「まあ、こいつもお前さんの事が、他人事とは思えないんだろうな」
幻風は白い髭をしごいた。
「世が世なら、
皆が息をのむ。
「だって、走耳は前政権の遺児の末端の末端って」
麗射の言葉に、幻風は顔を振る。
「いいや、コイツは直系も直系。前王朝の最後の王と、ある美しい女剣士の子供さ」
幻風は食堂の酒を手酌で注ぐとぐいっと煽った。
「ちょっとした
目尻が赤くなっているのは、酒のためかそれとも他の理由があるのか。
「わしは煉州王の事は知らないが、コイツの皮肉屋なところは母親そっくりだ。柔らかな茶色の毛も、地味だが整った顔立ちも。コイツの母親は心の強い奴だった。我が身を削っても人のために尽くすような……わしらまで巻き込まれていつも人助けにこき使われていたがね」
「幻風は好きだったんですね、走耳の母親のことを」
いきなりの麗射の言葉。幻風は飲みかけた酒にむせて、喉がひっくり返るくらい咳をする。
「いや、わしらも今よりは若いとはいえ、いくら何でも年の差がありすぎてな。そんなよこしまな心は……」
三人の意味ありげな視線を一身に受けて、幻風は観念したように首を振った。
「ああ、そうじゃ。恋をしていたよ。わしも、そして多分ジェズムも」
麗射の目が大きく開いた。
初めてジェズムに会った時、麗射の絵を見たジェズムが言った言葉。
『若い頃に、好きな女を別の男と争ったことがある。気恥しくなるくらい熱い恋じゃった。結局女は人生の荒波にその命を奪われての。その時の荒れ狂う気持ちを思い出したのじゃ。遠い昔の話だが、この絵を見ているとなぜかはっきりと思い出す』
走耳の母親は……。
麗射は目を伏せる。
「いつかはコイツに話さないといけないと思いつつもな、何から話して良いかわからないまま時間だけが過ぎてしまった。ジェズムもいきなりこの子に会ってびっくりしたろう。脱獄の時にたまたまオアシスに居るなんて、やはり
幻風は慈しむように走耳の茶色の髪をなでる。起きてるときにしようものなら、
「何もしてやれないが、わしらはいつもお前の幸せを願っているよ」
ぐすぐすと鼻をすする音がする。それは、清那だった。
「私は、彼のことを何でも冷たい視線で見る皮肉屋で、何も背負わない気楽な男だと思っていました。彼の過去にそんなことがあったなんて。ごめんなさい、ごめんなさい、走耳」
どこから出てくるのだろうかと思うほど、涙の雫は止りそうに無い。
「公子、ひとつ提案があるんじゃが」
幻風がにやりと笑った。
「あなたは学院の寮に入られたらいかがか。麗射の横の者は卒業したようだから、ちょうどそこに入れば良い。走耳はその部屋のどこかに吊床でも下げて寝るじゃろう。警備兵が常にいる場所の方がやはり何かと安全じゃし、わしも盗み食いのお詫びに厨房で働こうかと思っているんじゃ、走耳とともにあなたをお守りいたそう」
ポカンと口を開けた公子。
慌てたのは麗射である。
「い、いや、いくら何でも俺の部屋はむさくるしくて、公子――」
「それは良い考えですね、是非お言葉通りにさせていただきます」
麗射の言葉を遮って、清那が快諾した。公子は鼻の頭を赤くしたままにっこりと微笑んだ。