第28話 美蓮

文字数 2,570文字

 翌日から授業が始まった。美術の授業と言っても最初から本格的な絵は描かない、まずは座学で絵画に必要な素養を習うところから始まる。麗射が獄中に居たころは、絵の基礎と筆の選び方、筆の使い方などをみっちり仕込まれていたようだ。
 もちろん麗射も師匠のところで絵画の基礎は習っていた。とはいえ、ここまでの本格的な授業は初めてである。色の調合、彩度と明度。色一つにしても体系的な指導が構築されている。そのほか、絵画によく用いられる題材の文学、歴史。そして顔料の調合に使う計量や化学、画面構築の計算に使う算術など講義は多岐にわたった。
 いままで本能的に描くだけであった麗射にとって、目からうろこの日々が始まった。
「そんなので驚くのはまだ早いぜ」
 同室のレドウィンが語るところによれば、画材の卵を得るために鶏の飼いかた、顔料のもととなる石を得るための地学や山登りまでこれから多岐にわたった知識を習うとのことだった。
「昔は煉州(れんしゅう)の険しい山まで、顔料の元となる石の採取をするために砂漠を越えて登りに行っていたらしいが、最近は治安も乱れてきたから本物の山登りに行くのはここ2、3年途絶えている。まあ、内乱が無くてもあの磁石の効かない砂漠じゃあ人死にも珍しくはないからなあ」
 砂漠か。麗射はため息をついた。すんでのところで死にかけた、あの砂漠の放浪が脳裏によみがえる。
「星を見て大まかな方位を知るとしても、星だけで行きたいところに正確に行けるわけじゃない。それに月や星も隠れる曇天の日には進めやしないし、食料は積まないといけないし、鉱石実習は大変さ」
 レドウィンは可笑しそうに言った。
「だが、輿(こし)に載って優雅に茶を飲みながらここに連れてこられた上流階級の連中も本当の砂漠を知ってから画風がころっと変わるってことがよくあるらしいぜ」
 経験の積み重ねが内面を変えていき、そして絵も変えていく。美しい体験や、苦い体験が成熟を呼ぶのだ、とレドウィンは語り続けた。
「だがな、麗射。気を付けなくてはならないのは、衝撃的な体験で全く描けなくなる奴もいるってことだ」
 彼は遠い目を窓の外に向けた。
「そして、残念なことにそれは感受性の強い才能にあふれた、生まれながらの芸術家に多いんだ――」
 レドウィンの言葉は大きな鐘の音に打ち消された。それを聞くと急に麗射がそわそわし始めた。
「そろそろ午後の授業だ」
「それは焦りすぎだろう。これは太陽が中天に達した合図だ。次の鐘が入室の合図だぞ」
 レドウィンは食堂から持ってきた、パンに菜っ葉とチーズを挟んだものをのんびりとかじりながら言った。
「今日から画面構成術の授業が始まるんだ、待ちに待った銀の公子の講義だ。自由聴講だから、早く行っていい席をとらないと」
 そう言うと、麗射は、鉛筆と紙をひっつかんで部屋を飛び出した。狭い部屋の中、あちこち体をぶつけながら慌てて去って行く後ろ姿を、レドウィンはあっけにとられて見送った。
 幸い、午後の講義室にまだひと気はなく、麗射は黒板の良く見える真ん中に陣取ることができた。「画面構成術」は絵を魅力的に見せるための構図に使う比率の計算をはじめとする、構成理論についての講義であった。もちろん講義にも興味があるのだが、麗射はそれよりも自分を助けてくれた銀の公子に早く会いたくてたまらなかった。本来なら真っ先にお礼に向かうべきだが、身分が違い過ぎる上に凶状持ちの自分が許可もなく尋ねても良いかどうか悩んでいる間に時間がたってしまったのである。
 しばらくしてぽつぽつと人が入ってきた。人気の授業だけあって人の集まりが早い。次の鐘が鳴るころには、講義室は一杯になっていた。麗射は早く来てよかったと胸をなで下ろす。
「横、いい?」
 彼の隣、荷物のみが置かれていた場所に現れたのは波打つこげ茶色の髪を肩まで伸ばした、まん丸い目をした青年だった。悪戯っぽい瞳は髪と同じ黒に近い茶色で、にこやかな笑みとともにこの青年に邪気がないことを語っていた。
「僕は美蓮(みれん)。君は麗射だろ、あの有名な」
 麗射に対してはほとんどの学生が、有名人と意識してか妙に肩ひじ張って話しかけてきたが、この青年は自然体で屈託なく話しかけてくる。
「ふうん、僕も波州出身だけど。君は彫りが深いな」
 しばらく麗射の顔を覗き込んでいたかと思うと、彼はやにわに布袋を開いてごそごそと探り始めた。
「あった」
 彼が手にしていたのは、針のついていない木製のコンパス。そしてコンパスの両脚をいきなり麗射の鼻先と額にぺったりと押し当てた。
「え、えっ――」
 麗射は目を丸くして硬直した。
「あ、じっとしてて。危ないから」
 美蓮はすました顔でそういうと、手慣れた様子で麗射の目と目の間や、目から上唇までありとあらゆる顔面の距離を次々と測りながら、いつの間に取り出したのか手帳に左手で書き込んでいく。
「な、何を――」
「集めているんだ、人の顔の比率を。僕は工芸科だからこういう数学的資料が大切なんだ。銀の公子の授業も数理的解釈が多くて勉強になるって聞いて受けてみることにしたんだ」
 そこまで言うと、美蓮は慌ててコンパスと手帳を布袋に突っ込んで、ノートを取り出した。
「そろそろ講義が始まるぞ」
 この講座が楽しみで、待ちきれないとばかり美蓮は講師が来るはずの廊下に目を向けた。
 つられて麗射も廊下に顔を向ける。そのとたん彼は息を飲んだ。
 あの荷物運びを手伝ってくれた少年が廊下に立っているではないか。手に黒板拭きや定規などの荷物を持っているところを見ると、もしかして公子の小姓かもしれない。えらい教授たちの中には見目のよい少年を小間使いとして雇っている者も多かった。
「おおい、清那(せいな)!」
 麗射は席から立ちあがって手を振る。
 その瞬間、教室内が揺れるようにざわめいた。
 名を呼ばれた少年ははっとした顔で麗射の方に顔を向ける。
「おい、麗射」
 横合いから美蓮が青い顔で麗射の袖を引いた。
「失礼だぞ」
「は?」
 麗射は一瞬相手が何を言っているのかがわからなかった。
「銀の公子を呼び捨てだなんて、失礼だぞ」
 美蓮はもう一度大きな声ではっきりと繰り返した。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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