第93話 水音の道
文字数 3,305文字
「えええ、茴香芹 がないのかあ」
突然の大声に食堂にいた学生達が一斉に振り向いた。とりわけまだ学院に来て日の浅い新入生達は目を丸くしている。彼らの視線は食べ物の受け渡しをする台で顔を赤くしている豪華な巻き毛の先輩に集中した。
巻き毛の先輩――美蓮は注文品受け渡しの台で乱削麺 の椀をのぞき込んで全身を震わせている。
「僕は今朝の授業中からあの甘やかな香りと、鼻腔をくすぐる官能で頭をいっぱいにして昼食を待ち望んでいたんだぞ。昨日確認したときにはあるって言ったじゃないか。あれがあるのと無いのとでは、乱削麺の旨さが全然違うんだよ」
最近美蓮が香草を乗せた乱削麺を毎回頼むので、厨房も多種類の香草を育てるようになった。香草は肥沃な土地が必要ないため、豊富な水と照りつける日差しだけですくすくと育っている。
「虫だ、虫の駆除をさぼったろっ。僕も茴香芹が好きだが、虫たちも大好物だからな。言ったろう、毎日様子を見ろって」
美蓮の剣幕に対応にあたる給仕の者がもじもじと困ったように目を泳がせる。
「どうしたんだ」
騒ぎを聞きつけて、麗射が美蓮の横に駆け寄ってきた。
「おい。みっともないぞ、新入生達の前で」
「だって、人生の内に食べられる食事って限られているんだぞ。一食入魂で何が悪い」
麗射に向かってなおも大声を張り上げる美蓮の唇を二本の指で閉じ、麗射は給仕人に頭を下げた。
「すまないなあ。こいつ食うことになると常軌を逸するんだ」
給仕は慌てて頭を横に振る。
「いえ、昨日から予約してもらっていた料理を用意できないのは私たちの不手際です。あ、あの」
口ごもりながら、給仕は助けを求めるようにチラリと奥の方に目をやった。その視線を受けて現れたのは短く切り上げた金髪と青い目という背の高い典型的な煉州人の若者だった。彼は剴斗の厨房で働いていたが、清那が指図して作らせた叡州料理に魅せられて麗射達とオアシスに渡ってきた花燭 である。勉強熱心な彼は異例の速さで叡州料理を会得し、今では厨房の中心人物となっていた。先日の玲斗がらみの事件は花燭で影がかすんだ料理人が金を儲けて一山当てようと美蓮に銀老草を盛ったものであった。同州人の不祥事だが、他の調理人から信望の厚い花燭の地位を揺るがすものではなかったようだ。
「ご迷惑をおかけしています」
「それはこちらが言うことだよ、香草くらいでこの大食らいが騒いですまないね、花燭」
「ぼ、僕も大人げなかったよ」
花燭は彼らにとって一緒に煉州から真珠の都まで旅してきた気心の知れた仲間である。花燭が出てきてから、美蓮の激昂も落ち着いたようであった。
お詫びにと美蓮には鳥の煮物の薄切りを山盛りにした乱削麺が用意された。香草の上から散らされた色とりどりの食べられる花びらが豪華さを増している。
「おおっ、これは目にもご馳走だ」
先ほどまでの不機嫌はどこにやら、美蓮は一転鼻歌を歌いながら大きなどんぶりを抱えて席に着いた。
「単純な奴だ」麗射はため息をつく。
「麗射様、あとでちょっとお話ししたい件があるのです。よろしければお時間をいただけないでしょうか」
花燭が麗射の耳に顔を寄せてつぶやいた。
「順正が指図して美蓮様の酸冷麺に銀老草を忍ばせた、あの一件後厨房は警備兵の大捜索を受けました。かくいう私も玲斗様の息のかかった人間。警備隊の施設でかなり尋問も受けましたが、仲間達の証言もあり私は釈放されました」
花燭は多くを語らないが、暴力を使った尋問もあった様子だ。麗射は自分の時の事を思い出し眉をひそめた。
「でも、それからしばらくして……」
花燭の言葉が途切れる。しばし逡巡 の後、彼は口を開いた。
「食べ物が無くなるのです。それも高価な美味しいものばかり。決して沢山の量ではないのです。だから最初は思い違いかと思っていましたが、それが続くためおかしいと思った調理人達が声を上げ始め、ようやく皆が認識しだした次第で」
茴香芹も昨晩確認したときにはあったが、朝にはすっかり食べられていたと花燭は肩を落とした。
「学院長や警備兵には相談しました。だけど、警備隊は先日捜索したばかり。わしらの調べに落ち度があるのかと怒り出す始末で。学院長もそれを見て、逃げてしまって」
「でも、小さな事が大きな事件につながることが時々あるし、どうにかして原因を調べないと……。ネズミは?」
「ネズミ獲りをいくつもしかけ、数人で寝ずの番をしたこともあります。煌々とランプを付けて。でも、翌朝にはやっぱり少量の食材が無くなっているのです……」
そんなことが出来るのは。
麗射の頭には走耳の顔が浮かんでいる。しかし、彼は清那の家で寝起きを伴にしており、もちろん清那の料理を食べているはずだ。
「わかった、俺も原因捜索のためにいろいろ動いてみよう」
麗射は花燭の肩を叩いた。
「ふうん、面白いですね」
お気に入りの柑橘の香りのする香草茶を飲みながら清那はにこやかに笑う。走耳が探索から戻ってからは、さすがに部屋が狭くなるため麗射達は寮に戻っていたが、学生代表としていろいろと相談したいことも多く麗射は頻繁に清那の家に通っていた。
「走耳はどう思いますか」
壁が揺れたかと思うと、気配を持たない青年が浮き出した。
「ま、経験の豊富なこそ泥なら出来ないことはないと思うな。ちょっとした物音で相手の意識を逸らすとか、相手と呼吸を同期することで気配を消すとか」
「これは私が学院の図書館から借りてきた本です」
清那はぼろぼろの羊皮紙の本をそっと開いた。古びた香りがあたりに広がる。
「これはこのオアシス都市の昔の戦いの記録です。真珠の塔を中心としたこの建物は今でこそ改築がなされ、平和な美の砦になっていますが、元々は戦うための砦であったのです」
麗射は初めて学院に来た時、夕陽がこの学院を案内してくれたことを思い出した。彼は一体どこに行ったのであろうか。忽然と姿を消した恩人、麗射の瞳が曇る。
「戦の終盤。難攻不落を誇ったこの砦に、とうとう武勲を誇った天駆 の君ユーシェルが攻め込みます。血で血を洗う激しい戦いの果てにこの砦が落ちた時、奇跡的に逃げ延びた数人の兵士達が居ました。彼らはこの学院のどこかにある地下道を通って外に出たらしいのですが、今となっては地下道の入り口の情報は失われ、伝説扱いになっています」
清那は虫が食って穴だらけの頁の一文を指さす。しかし、これは最も古いと言われている伝承古語と呼ばれる類 の文字で、かなりの高等教育を受けた者しか読むことが出来なかった。文面がただの線にしか見えない麗射は困ったようにうなずく。察した清那は虫食いを補いながら訳し始めた。
「徐秋末日。我らは水音の道を進みついに陽光の下に出る。3日間、水しか口にすることは出来なかったが、さらに今からは熱砂を越えていかねばならない。果たして我らは海向かいの国に生きてたどり着くことができるのだろうか」
かろうじて読めるのはそれだけだった様だ。
「水音の道……」
夕陽はもしかしてそこを見つけてオアシスを出たのだろうか。
「ご存じかも知れませんが、この学院の下には伏流水が流れていて、食堂の井戸に通じています」
食堂で出される水はいつも震えるほど冷たい。それは直接泉から通じる伏流水を組み上げる井戸のおかげだったのである。美蓮が愛して止まない冷麺が冷たくて旨いのもそのためだ。
「どこかその伏流水にそった道があるのかもしれませんが、そこに到達する方法がわかりませんでした。でも、厨房でそのような奇妙なことが起こるのであれば、もう一度探す価値はあるのかもしれませんね」
清那の瞳が獲物を見つけた獣のようにキラリと光る。
「ああ、そこまで、そこまで。盗賊が関係しているかも知れない事件に公子を巻き込むわけには行きません」
「大丈夫です」
清那は傍らの走耳にチラリと視線を送る。
「私の護衛は優秀ですから」
「いや、標的にちょこまかと動かれては、できる警護もできないんだが」
明らかに不機嫌な声が隅っこから響く。
「さっそく明日探索に行きましょう。私が居ないと見つかるものも見つかりませんよ」
気の強い公子は鼻をうごめかした。
突然の大声に食堂にいた学生達が一斉に振り向いた。とりわけまだ学院に来て日の浅い新入生達は目を丸くしている。彼らの視線は食べ物の受け渡しをする台で顔を赤くしている豪華な巻き毛の先輩に集中した。
巻き毛の先輩――美蓮は注文品受け渡しの台で
「僕は今朝の授業中からあの甘やかな香りと、鼻腔をくすぐる官能で頭をいっぱいにして昼食を待ち望んでいたんだぞ。昨日確認したときにはあるって言ったじゃないか。あれがあるのと無いのとでは、乱削麺の旨さが全然違うんだよ」
最近美蓮が香草を乗せた乱削麺を毎回頼むので、厨房も多種類の香草を育てるようになった。香草は肥沃な土地が必要ないため、豊富な水と照りつける日差しだけですくすくと育っている。
「虫だ、虫の駆除をさぼったろっ。僕も茴香芹が好きだが、虫たちも大好物だからな。言ったろう、毎日様子を見ろって」
美蓮の剣幕に対応にあたる給仕の者がもじもじと困ったように目を泳がせる。
「どうしたんだ」
騒ぎを聞きつけて、麗射が美蓮の横に駆け寄ってきた。
「おい。みっともないぞ、新入生達の前で」
「だって、人生の内に食べられる食事って限られているんだぞ。一食入魂で何が悪い」
麗射に向かってなおも大声を張り上げる美蓮の唇を二本の指で閉じ、麗射は給仕人に頭を下げた。
「すまないなあ。こいつ食うことになると常軌を逸するんだ」
給仕は慌てて頭を横に振る。
「いえ、昨日から予約してもらっていた料理を用意できないのは私たちの不手際です。あ、あの」
口ごもりながら、給仕は助けを求めるようにチラリと奥の方に目をやった。その視線を受けて現れたのは短く切り上げた金髪と青い目という背の高い典型的な煉州人の若者だった。彼は剴斗の厨房で働いていたが、清那が指図して作らせた叡州料理に魅せられて麗射達とオアシスに渡ってきた
「ご迷惑をおかけしています」
「それはこちらが言うことだよ、香草くらいでこの大食らいが騒いですまないね、花燭」
「ぼ、僕も大人げなかったよ」
花燭は彼らにとって一緒に煉州から真珠の都まで旅してきた気心の知れた仲間である。花燭が出てきてから、美蓮の激昂も落ち着いたようであった。
お詫びにと美蓮には鳥の煮物の薄切りを山盛りにした乱削麺が用意された。香草の上から散らされた色とりどりの食べられる花びらが豪華さを増している。
「おおっ、これは目にもご馳走だ」
先ほどまでの不機嫌はどこにやら、美蓮は一転鼻歌を歌いながら大きなどんぶりを抱えて席に着いた。
「単純な奴だ」麗射はため息をつく。
「麗射様、あとでちょっとお話ししたい件があるのです。よろしければお時間をいただけないでしょうか」
花燭が麗射の耳に顔を寄せてつぶやいた。
「順正が指図して美蓮様の酸冷麺に銀老草を忍ばせた、あの一件後厨房は警備兵の大捜索を受けました。かくいう私も玲斗様の息のかかった人間。警備隊の施設でかなり尋問も受けましたが、仲間達の証言もあり私は釈放されました」
花燭は多くを語らないが、暴力を使った尋問もあった様子だ。麗射は自分の時の事を思い出し眉をひそめた。
「でも、それからしばらくして……」
花燭の言葉が途切れる。しばし
「食べ物が無くなるのです。それも高価な美味しいものばかり。決して沢山の量ではないのです。だから最初は思い違いかと思っていましたが、それが続くためおかしいと思った調理人達が声を上げ始め、ようやく皆が認識しだした次第で」
茴香芹も昨晩確認したときにはあったが、朝にはすっかり食べられていたと花燭は肩を落とした。
「学院長や警備兵には相談しました。だけど、警備隊は先日捜索したばかり。わしらの調べに落ち度があるのかと怒り出す始末で。学院長もそれを見て、逃げてしまって」
「でも、小さな事が大きな事件につながることが時々あるし、どうにかして原因を調べないと……。ネズミは?」
「ネズミ獲りをいくつもしかけ、数人で寝ずの番をしたこともあります。煌々とランプを付けて。でも、翌朝にはやっぱり少量の食材が無くなっているのです……」
そんなことが出来るのは。
麗射の頭には走耳の顔が浮かんでいる。しかし、彼は清那の家で寝起きを伴にしており、もちろん清那の料理を食べているはずだ。
「わかった、俺も原因捜索のためにいろいろ動いてみよう」
麗射は花燭の肩を叩いた。
「ふうん、面白いですね」
お気に入りの柑橘の香りのする香草茶を飲みながら清那はにこやかに笑う。走耳が探索から戻ってからは、さすがに部屋が狭くなるため麗射達は寮に戻っていたが、学生代表としていろいろと相談したいことも多く麗射は頻繁に清那の家に通っていた。
「走耳はどう思いますか」
壁が揺れたかと思うと、気配を持たない青年が浮き出した。
「ま、経験の豊富なこそ泥なら出来ないことはないと思うな。ちょっとした物音で相手の意識を逸らすとか、相手と呼吸を同期することで気配を消すとか」
「これは私が学院の図書館から借りてきた本です」
清那はぼろぼろの羊皮紙の本をそっと開いた。古びた香りがあたりに広がる。
「これはこのオアシス都市の昔の戦いの記録です。真珠の塔を中心としたこの建物は今でこそ改築がなされ、平和な美の砦になっていますが、元々は戦うための砦であったのです」
麗射は初めて学院に来た時、夕陽がこの学院を案内してくれたことを思い出した。彼は一体どこに行ったのであろうか。忽然と姿を消した恩人、麗射の瞳が曇る。
「戦の終盤。難攻不落を誇ったこの砦に、とうとう武勲を誇った
清那は虫が食って穴だらけの頁の一文を指さす。しかし、これは最も古いと言われている伝承古語と呼ばれる
「徐秋末日。我らは水音の道を進みついに陽光の下に出る。3日間、水しか口にすることは出来なかったが、さらに今からは熱砂を越えていかねばならない。果たして我らは海向かいの国に生きてたどり着くことができるのだろうか」
かろうじて読めるのはそれだけだった様だ。
「水音の道……」
夕陽はもしかしてそこを見つけてオアシスを出たのだろうか。
「ご存じかも知れませんが、この学院の下には伏流水が流れていて、食堂の井戸に通じています」
食堂で出される水はいつも震えるほど冷たい。それは直接泉から通じる伏流水を組み上げる井戸のおかげだったのである。美蓮が愛して止まない冷麺が冷たくて旨いのもそのためだ。
「どこかその伏流水にそった道があるのかもしれませんが、そこに到達する方法がわかりませんでした。でも、厨房でそのような奇妙なことが起こるのであれば、もう一度探す価値はあるのかもしれませんね」
清那の瞳が獲物を見つけた獣のようにキラリと光る。
「ああ、そこまで、そこまで。盗賊が関係しているかも知れない事件に公子を巻き込むわけには行きません」
「大丈夫です」
清那は傍らの走耳にチラリと視線を送る。
「私の護衛は優秀ですから」
「いや、標的にちょこまかと動かれては、できる警護もできないんだが」
明らかに不機嫌な声が隅っこから響く。
「さっそく明日探索に行きましょう。私が居ないと見つかるものも見つかりませんよ」
気の強い公子は鼻をうごめかした。