第53話 大弓

文字数 2,419文字

 さらに盛り上がった水面は荒れ狂う波がしぶきを上げている。この流れに逆らって岸辺からなんのよりどころもなくこの洲に船を着けるのは、ほぼ不可能だ。
「俺が行く」
 岸辺では美蓮がくりぬき船を下ろそうとするが、レドウィンが頑として許さない。
「やめろ、流れはますます早くなっている。これではお前のほうが先に天帝の元に行ってしまう」
「しかし、このまま指をくわえてあの二人が水に流されるのを見ているわけにはいかない」
 二人の言い合いの声に清那の瞼が瞬き、ゆっくりと開いた。
「麗射。麗射はどうした、牙蘭?」
 朦朧としていた清那が上半身を起こして、あたりを見回す。
「玲斗たちを見つけて救出中です。最後の二人を船に乗せてこちらに連れて来る途中でしたが、あちらに渡していた綱が切れて制御を失いました。どうにか別な洲に乗り上げたところですが、船は大破しその洲も心もとありません。一人見当たらないところを見ると、誰かが水に飲まれたのかもしれません」
 牙蘭の視線の先、洲の方を見た清那の顔が真っ青になった。
「こちらから残った船を出そうにも、美蓮は疲労困憊で櫂だけで州にたどり着くのは無理だと思われます」
「れ、麗射は無事なのか?」
「こちらの呼びかけに手を振り返しているのが、多分麗射でしょう」
 清那がほっと息をつく。しかし、すぐその目が吊り上がった。
「しかし一刻の猶予もない」
 清那は立ち上がろうとするが、ふらついて砂の上に崩れ落ちた。慌てて牙蘭が抱き起す。
「牙蘭、手伝ってくれ。あの距離なら十分届く」
 それだけで意図を察した牙蘭はうなずくと駱駝の方に駆け出して行った。
「離せ、もう行かないと。見殺しにするのは波州の男の恥なんだ」
 叫ぶ美蓮。レドウィンが羽交い絞めにして止めている。
「美蓮、待て。今から洲に綱を渡す」
 叫んだ清那の傍らに、筋肉が巻き付くように盛り上がった腕に大弓を持った牙蘭が立っていた。弓は弦を貼る前と形を変えており、今は中央に大きな湾曲をがあり、その上下に軽い反対の湾曲のある独特の形をしている。牙蘭の右手の親指には、弓を引くときに使う、星の意匠の入った太い銀の指輪がはめられていた。
 大弓に似つかわしい、石の矢じりを付けた長くて太い矢にはすでに縄が結わえられている。
「こ、これを引くのか?」レドウィンがそっと弦に触るが、すぐさま首を振って手を引いた。「人間技ではないな」
 美蓮が注意を表す大きな赤い布を振った。右に、左に。それは2回繰り返された。
「波州の海の男なら、手旗の意味が解るはずだ」
 洲の上の二人は動きを止めて、洲の端っこに逃げた。
「さあ、時間が無い。頼む牙蘭」
 牙蘭は清那に向かって黙礼すると、矢をつがえた弓を引き絞った。右肩の筋肉が倍になったように盛り上がり、小刻みに震えている。
 その傍らで、清那は遠くの洲を睨みながら弓の角度の調整をする。
「垂直の半分よりやや下げて」
 洲に立つ二人を避けて、洲の上に矢を落とすのは針の穴に糸を通すほどの正確さが必要であった。しかし、清那は迷いなく牙蘭に指示を出す。
「風を考えるともう少し左に振って――。よし、今だ」
 言葉が終わると同時に、牙蘭の手が躊躇なく弓を離した。勢いよく弓は鈍色の空に飛び立っていった。
「少し左すぎたか――」
 レドウィンが眉をしかめる。
 しかし、上空の風で右に押された矢は中空で洲の正面へ軌道を変え、そのまま先端を下に向けて洲に突き刺さった。
 洲の上で手を振っているのは麗射であろうか、牙蘭の掴む縄に、あちらから引っ張る手ごたえが伝わってきた。
「もう、猶予はない。僕は行くぞ」
 洲と岸辺をつないだ縄に、縄で作った輪っかを通し片側を船に結び付けると美蓮は濁流の中に漕ぎ出していった。
 美蓮が無事2往復し麗射と玲斗が帰ってきたのを見た時、人々はおおきな歓声を上げた。しかし、玲斗の一行だけは最初は主人の無事を喜んだものの、安理の不在に気が付き顔をこわばらせて声を失った。レドウィン達も、玲斗の泣きはらした目と、麗射の膨れ上がった顔を見て何が起こったのかを悟り、徐々に喜びの声は静まっていった。
「れ、玲斗様――、安理様は」順正が蒼白な顔で尋ねる。
「この焼刻野郎が、あいつを見殺しにした」
 吐き捨てるように玲斗が叫ぶ。
 色めき立つ玲斗達の子分。
「何を言うんだ。この状況では不可抗力に違いない。だいたいもとはと言えば忠告を聞かずに出て行ったお前の責任だ。麗射がお前らを助けてやったんだぞ」
 美蓮が顔を赤くして叫ぶ。
「あんな根拠もない忠告を誰が聞くんだ、俺たちが助けを頼んだか? 煉州貴族の主従は生きるときも死ぬときも一緒なんだ」
 玲斗が拳を振り上げる。その時美蓮の前に麗射が踊り出た。
「殴りたいなら俺を殴れ。俺の責任だ」
 玲斗達と麗射の仲間が向かい合って睨みあう。
「おやめなさい」
 凛とした声の方に顔を向けた玲斗が息を飲んだ。
「銀の公子、なぜあなたがここに」
 牙蘭の身体にすがるようにして立ちながら、青い顔をした清那が玲斗をまっすぐに見据えている。
「学院は、叡州公が自由な芸術を花開かせるために作った美の殿堂です。私は叡州公家の一員として、学院に関わる全ての方々を守る責任があります。玲斗、失われた命を悼む代わりに、無益な諍いを起こすとは誠に嘆かわしいことだとは思いませんか」
 玲斗は唇をかみしめ、直立不動のままぶるぶると震えながら、清那の言葉を聞いている。
 麗射にとって玲斗のこんな態度は初めてだった。
 煉州貴族である玲斗は、身分に強いこだわりを持っている。自分より身分の低い者には容赦ない態度をとるが、その反面高い身分の者に対しては絶対服従が身に沁み込んでいるらしい。
「私怨に走った言動、お恥ずかしい限りです公子殿」
 玲斗が頭を下げ、その場はひとまず収まった。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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