第2話 徐春末日
文字数 3,924文字
のろのろとだが、審査を待つ列は前に進み陽が中天に上がりきったころにやっと麗射の順番が回ってきた。彼は波州でもらったオアシスへの通行手形を門番に渡す。それを傍らに腰かけた初老の書記が確かめ、小さく頷いた。
「黒髪、黒目、肌はうす茶色」
身体に触れて危険な武器の持ち込みがないか調べながら門番がつぶやく。それを書記が石墨の筆で帳面に記載した。
「年は?」
「19歳です」
「ちょっと背中を見せてもらうぞ」
がっしりとした肉好きの若い門番は、麗射の襟首を掴んでマントごと肩甲骨のあたりまでぐいと引き下げる。体力が限界に達している麗射は体勢を崩して尻もちをついた。
「悪い悪い、疲れてるんだな」
門番はうす茶色の目を細めて苦笑いしながら麗射の腕を取って身体を引き起こした。
「焼刻 は無いな」
彼は麗射の背中に罪人の証である焼き印が無いことを確認して、下げていた襟をぐいと引き上げる。
「次は荷の検閲だ。そのずだ袋だけか」
砂漠を旅してきたには軽装すぎる麗射に門番は驚いた様子だ。
「途中まで一緒に来た隊商とはぐれてーー」
「たった一人でか? 良く生きてここにたどり着いたな」
門番が絶句する。
「ええ、幸運でした。天帝と郷神のお導きです」
麗射は促されるまま若い門番の前で荷物を開いた。その中には路銀、一滴も水の入っていない竹の水筒、ぼろきれ、絵筆とともに、柿渋紙でしごく厳重に包まれた書状が入っていた。
「その包みは?」
麗射は包みを開けて美術工芸院への推薦状を見せた。封の上から麗射の師匠の紋の入った美麗な印が押されており、師匠によると、うまく行けばこの推薦状だけでも入学試験は免除されるのではないかという事だった。
しかしその書類をちらりと一瞥した門番は、肩をすくめて麗射に告げた。
「残念だが、君。昨日で入学の受け付けは済んでしまったはずだ」
「えっ」
まさかの言葉に、麗射は凍りついた。
「でも、願書には『受け付けは徐春末日 の日没まで』って――。受付期限は今日まででしょう」
「確かに今日は末日だが、暦の関係で「広沙州 」は四年に一度徐春が一日多くなるのだ。そしてその特別な徐春の末日、すべての学校や役所は休日になる。残念ながら今日は美術工芸院も休みのはずだ」
波間の真珠のある砂漠地帯一帯を広沙州と呼ぶ。荒涼とした山に囲まれ、砂漠が広がるこの不毛の地に定住する民族はほとんどおらず、唯一このオアシスのみが交易の中継地として繁栄している。地図上の「広沙州」は広大だが、行政的な意味での「広沙州」はこのオアシス都市のことを指しているのである。
しまった。地域によって暦が微妙に違うのを忘れていた。麗射は唇をかみしめる。末日が増えているのは知っていたが、遅延した旅程でもこれでなんとか間に合ったと良い方向にしか考えていなかった。まさか休みになっているとは。
言葉を失ってしまった青年の表情を見て、気のいい門番は慌てて付け加えた。
「まあ、行って聞いてみるがいい。だが、運よく美術工芸院に入れたとしても見た目の華やかさに比べて、内実は楽ではないと聞くぞ」
彼は麗射の肩をぽんと叩くと、日に焼けた顔から白い歯を見せてニコリと笑った。
半ば呆然としながら、麗射はオアシスの町に足を踏み入れた。
4年に一度の休日である、祭りが開かれているのか大門から続く広い道の両側には、日よけを張った簡素な店が所狭しとならび、見たことも無い果物や、まばゆく輝く装身具を売っていた。楽師たちが聞いたこともない旋律の心浮き立つ曲を奏で、菓子を持った子供たちが歓声を上げながら横を走り去っていく。しかし、暗雲が立ち込めている今の麗射の心には、この祭りの風景も色の無いぼけた墨絵のようにしか映らなかった。
これが無事入学を果たした後であれば、どれだけ心がはずんだか。
門番は親切にも大路をそのまま突っ切って行けば美術工芸院だと教えてくれたが、眼前にそびえるその建物を見れば言われなくても行き方は一目瞭然だった
だが、すぐ近くと思われた美術工芸院までは実際のところかなりの距離があった。あまりの大きさに近くに見えていたにすぎなかったのである。
暦の上では明日から本格的な春らしいが、雲一つない空にさんさんと輝く陽は、すでに凶暴な日差しを大地に注いでいる。これが夏になればどんな暑さになるのやら。麗射は顔をしかめながらマントの襟元を掴んでバタバタと風を入れた。
すぐにでも湖に行って無料の水を息もつかずに飲みたいのだが、日のあるうちに美術工芸院に行って推薦状の提出をしないといけない。失敗したらこの数年の努力がすべて水泡に帰してしまう。麗射にとってこれは何にもまして優先される事項だった。
しばらく行くと露店のにぎわいも徐々に失せ、道の両側には陶板で飾られた日干し煉瓦の瀟洒な家が立ち並び始めた。宿屋とか、美術工芸院の関係者たちの家であろうか。さすが交易の中心だけあって様々な地域から取り寄せられたらしい、夜光貝をあしらった虹色の門扉や銀嶺ガラスのランプなど意匠のこらされた装飾が施されている。砂漠の街とは思えない贅を尽くした街並みに感嘆のため息をつきながら、麗射は郷里のひなびた漁村とは違うこのオアシスの繁栄を肌で感じ取っていた。
ようやく、麗射は陶板にヤシの葉をモチーフにした紋様が描かれた大きな建物にたどり着いた。門の横にある金泥が塗られた大きな石板には、美術工芸研鑽学院と言う文字が黒々と彫り付けられている。
だが、門は入るものを拒絶するようにがっちりとした厚い鉄の扉で閉ざされていた。
ごん、ごん。
叩いてみるが、何の反応も無い。陽に照らされた鉄の扉は素手でたたくには熱すぎるということが分かっただけだ。
途方に暮れて、立ちすくむ麗射だったが、数人の若者の笑い声に気づき、声の方向に走り出した。
別に関係者用の通用口があるのかもしれない。
各地からやってくる学院生たちは、ほとんどがこの学院の寄宿舎に住むと聞いている。祭りで外に出た者もいるだろう、彼らが戻るための入り口があるはずだ。
ぐるりと建物の壁に沿って走る。ほどなく、麗射は数人の若者の一団に追いついた。中心の少年は何やらきらめく装飾の付いた冠を付けて、金糸の縫い取りの入った赤い服に身を包んでいる。大きな青い石を連ねた長い三連の首飾りを垂らしている。金髪に青い目という外見から推察するとどうやら煉州 付近の貴族らしかった、その周りの青年達も同郷なのか、皆金髪に色の入った目をして小ざっぱりした衣服を身に着けている。
「あ、あの」
青年達の一団は、麗射の方をちらりと見たが、砂まみれでぼろ布のような服をまとったみすぼらしい姿を見るとかかわりになることを避けるようにそそくさと足を速める。
疎まれている、ということは痛いほど伝わって来たが、ここで引くわけにはいかない。彼らを追いかけて麗射は大声で呼びかけた。
「す、すみません。入学の手続きに遅れてしまって、ここに入りたいのですが門の中に一緒に中に入れてもらえませんか」
青年たちは麗射の言葉など耳に入っていない様子で談笑している。どうやら町で遊んだ娘たちの話題で盛り上がっているらしい。
「あ、あの、すみません」
くりかえされる麗射の言葉に、一団の後ろに居た背の高い青年が、めんどうくさそうに止まって振り向いた。
「なんだ」
最後尾の青年が足を止めたことに気が付いたのか、一団も足を止めた。
「一緒に門の中に入れていただけませんか。実は、入学手続き――」
背の高い青年は懇願する麗射を睨みつけた。
「どうしたんだ、安理 」
先頭を歩いていた冠をかぶった青年が麗射の方に近づいてきた。彼が肩を揺らしながら歩くたびに、目の色と同じ青色の首飾りがじゃらりと音を立てる。
「俺たちと一緒に美術工芸院の中に入りたいそうです。どうします、玲斗様」
この集団を率いているのであろう、玲斗と呼ばれた青年は安理の問いに薄い笑みを浮かべた。
よかった。話を聞いてもらえるようだ。麗射も精一杯の笑みを浮かべながらその青年の方に近づいた。
だが、その瞬間。先頭の冠をかぶった青年は、顔を背けて吐き捨てるように言った。
「身の程知らずに、思い知らせてやれ」
その言葉が終わらぬうちに、残忍な光を目に宿した安理がいきなり麗射の腹を蹴り上げた。
「誰に口をきいていると思っているんだよ」
麗射は吹っ飛んで地面に叩きつけられる。安理が地面に倒れたたままの麗射に唾を吐きかけ、仕上げとばかりにもう一度横たわる麗射の身体を蹴り上げた。
「玲斗 様はな、煉州 の名家のご血筋で、本来ならお前なんか目通りもかなわない方なんだ。気軽に声をかけるんじゃねえ。この平民が」
青年達は笑いながら行ってしまった。
――内実は楽ではないと聞くぞ。
先ほどの門番の声が頭に蘇える。
そういうことか。麗射は肩をすくめた。故郷の波光村 では彼の周りには同じ漁民ばかりで、身分の違いによる齟齬を感じたことは無かった。
これが美術工芸院の内実か。
麗射は唇をかみしめ身体の埃を払って立ち上がった。
今から違う世界に飛び込むのだから、貴族の輩には気を付けねばならない。だが、いつまでも見下されてはいないぞ。
ぎらぎらとした瞳で青年たちの消えていった道をにらみながら、麗射は屈辱をバネにするべく心に刻み込んだ。
「黒髪、黒目、肌はうす茶色」
身体に触れて危険な武器の持ち込みがないか調べながら門番がつぶやく。それを書記が石墨の筆で帳面に記載した。
「年は?」
「19歳です」
「ちょっと背中を見せてもらうぞ」
がっしりとした肉好きの若い門番は、麗射の襟首を掴んでマントごと肩甲骨のあたりまでぐいと引き下げる。体力が限界に達している麗射は体勢を崩して尻もちをついた。
「悪い悪い、疲れてるんだな」
門番はうす茶色の目を細めて苦笑いしながら麗射の腕を取って身体を引き起こした。
「
彼は麗射の背中に罪人の証である焼き印が無いことを確認して、下げていた襟をぐいと引き上げる。
「次は荷の検閲だ。そのずだ袋だけか」
砂漠を旅してきたには軽装すぎる麗射に門番は驚いた様子だ。
「途中まで一緒に来た隊商とはぐれてーー」
「たった一人でか? 良く生きてここにたどり着いたな」
門番が絶句する。
「ええ、幸運でした。天帝と郷神のお導きです」
麗射は促されるまま若い門番の前で荷物を開いた。その中には路銀、一滴も水の入っていない竹の水筒、ぼろきれ、絵筆とともに、柿渋紙でしごく厳重に包まれた書状が入っていた。
「その包みは?」
麗射は包みを開けて美術工芸院への推薦状を見せた。封の上から麗射の師匠の紋の入った美麗な印が押されており、師匠によると、うまく行けばこの推薦状だけでも入学試験は免除されるのではないかという事だった。
しかしその書類をちらりと一瞥した門番は、肩をすくめて麗射に告げた。
「残念だが、君。昨日で入学の受け付けは済んでしまったはずだ」
「えっ」
まさかの言葉に、麗射は凍りついた。
「でも、願書には『受け付けは
「確かに今日は末日だが、暦の関係で「
波間の真珠のある砂漠地帯一帯を広沙州と呼ぶ。荒涼とした山に囲まれ、砂漠が広がるこの不毛の地に定住する民族はほとんどおらず、唯一このオアシスのみが交易の中継地として繁栄している。地図上の「広沙州」は広大だが、行政的な意味での「広沙州」はこのオアシス都市のことを指しているのである。
しまった。地域によって暦が微妙に違うのを忘れていた。麗射は唇をかみしめる。末日が増えているのは知っていたが、遅延した旅程でもこれでなんとか間に合ったと良い方向にしか考えていなかった。まさか休みになっているとは。
言葉を失ってしまった青年の表情を見て、気のいい門番は慌てて付け加えた。
「まあ、行って聞いてみるがいい。だが、運よく美術工芸院に入れたとしても見た目の華やかさに比べて、内実は楽ではないと聞くぞ」
彼は麗射の肩をぽんと叩くと、日に焼けた顔から白い歯を見せてニコリと笑った。
半ば呆然としながら、麗射はオアシスの町に足を踏み入れた。
4年に一度の休日である、祭りが開かれているのか大門から続く広い道の両側には、日よけを張った簡素な店が所狭しとならび、見たことも無い果物や、まばゆく輝く装身具を売っていた。楽師たちが聞いたこともない旋律の心浮き立つ曲を奏で、菓子を持った子供たちが歓声を上げながら横を走り去っていく。しかし、暗雲が立ち込めている今の麗射の心には、この祭りの風景も色の無いぼけた墨絵のようにしか映らなかった。
これが無事入学を果たした後であれば、どれだけ心がはずんだか。
門番は親切にも大路をそのまま突っ切って行けば美術工芸院だと教えてくれたが、眼前にそびえるその建物を見れば言われなくても行き方は一目瞭然だった
だが、すぐ近くと思われた美術工芸院までは実際のところかなりの距離があった。あまりの大きさに近くに見えていたにすぎなかったのである。
暦の上では明日から本格的な春らしいが、雲一つない空にさんさんと輝く陽は、すでに凶暴な日差しを大地に注いでいる。これが夏になればどんな暑さになるのやら。麗射は顔をしかめながらマントの襟元を掴んでバタバタと風を入れた。
すぐにでも湖に行って無料の水を息もつかずに飲みたいのだが、日のあるうちに美術工芸院に行って推薦状の提出をしないといけない。失敗したらこの数年の努力がすべて水泡に帰してしまう。麗射にとってこれは何にもまして優先される事項だった。
しばらく行くと露店のにぎわいも徐々に失せ、道の両側には陶板で飾られた日干し煉瓦の瀟洒な家が立ち並び始めた。宿屋とか、美術工芸院の関係者たちの家であろうか。さすが交易の中心だけあって様々な地域から取り寄せられたらしい、夜光貝をあしらった虹色の門扉や銀嶺ガラスのランプなど意匠のこらされた装飾が施されている。砂漠の街とは思えない贅を尽くした街並みに感嘆のため息をつきながら、麗射は郷里のひなびた漁村とは違うこのオアシスの繁栄を肌で感じ取っていた。
ようやく、麗射は陶板にヤシの葉をモチーフにした紋様が描かれた大きな建物にたどり着いた。門の横にある金泥が塗られた大きな石板には、美術工芸研鑽学院と言う文字が黒々と彫り付けられている。
だが、門は入るものを拒絶するようにがっちりとした厚い鉄の扉で閉ざされていた。
ごん、ごん。
叩いてみるが、何の反応も無い。陽に照らされた鉄の扉は素手でたたくには熱すぎるということが分かっただけだ。
途方に暮れて、立ちすくむ麗射だったが、数人の若者の笑い声に気づき、声の方向に走り出した。
別に関係者用の通用口があるのかもしれない。
各地からやってくる学院生たちは、ほとんどがこの学院の寄宿舎に住むと聞いている。祭りで外に出た者もいるだろう、彼らが戻るための入り口があるはずだ。
ぐるりと建物の壁に沿って走る。ほどなく、麗射は数人の若者の一団に追いついた。中心の少年は何やらきらめく装飾の付いた冠を付けて、金糸の縫い取りの入った赤い服に身を包んでいる。大きな青い石を連ねた長い三連の首飾りを垂らしている。金髪に青い目という外見から推察するとどうやら
「あ、あの」
青年達の一団は、麗射の方をちらりと見たが、砂まみれでぼろ布のような服をまとったみすぼらしい姿を見るとかかわりになることを避けるようにそそくさと足を速める。
疎まれている、ということは痛いほど伝わって来たが、ここで引くわけにはいかない。彼らを追いかけて麗射は大声で呼びかけた。
「す、すみません。入学の手続きに遅れてしまって、ここに入りたいのですが門の中に一緒に中に入れてもらえませんか」
青年たちは麗射の言葉など耳に入っていない様子で談笑している。どうやら町で遊んだ娘たちの話題で盛り上がっているらしい。
「あ、あの、すみません」
くりかえされる麗射の言葉に、一団の後ろに居た背の高い青年が、めんどうくさそうに止まって振り向いた。
「なんだ」
最後尾の青年が足を止めたことに気が付いたのか、一団も足を止めた。
「一緒に門の中に入れていただけませんか。実は、入学手続き――」
背の高い青年は懇願する麗射を睨みつけた。
「どうしたんだ、
先頭を歩いていた冠をかぶった青年が麗射の方に近づいてきた。彼が肩を揺らしながら歩くたびに、目の色と同じ青色の首飾りがじゃらりと音を立てる。
「俺たちと一緒に美術工芸院の中に入りたいそうです。どうします、玲斗様」
この集団を率いているのであろう、玲斗と呼ばれた青年は安理の問いに薄い笑みを浮かべた。
よかった。話を聞いてもらえるようだ。麗射も精一杯の笑みを浮かべながらその青年の方に近づいた。
だが、その瞬間。先頭の冠をかぶった青年は、顔を背けて吐き捨てるように言った。
「身の程知らずに、思い知らせてやれ」
その言葉が終わらぬうちに、残忍な光を目に宿した安理がいきなり麗射の腹を蹴り上げた。
「誰に口をきいていると思っているんだよ」
麗射は吹っ飛んで地面に叩きつけられる。安理が地面に倒れたたままの麗射に唾を吐きかけ、仕上げとばかりにもう一度横たわる麗射の身体を蹴り上げた。
「
青年達は笑いながら行ってしまった。
――内実は楽ではないと聞くぞ。
先ほどの門番の声が頭に蘇える。
そういうことか。麗射は肩をすくめた。故郷の
これが美術工芸院の内実か。
麗射は唇をかみしめ身体の埃を払って立ち上がった。
今から違う世界に飛び込むのだから、貴族の輩には気を付けねばならない。だが、いつまでも見下されてはいないぞ。
ぎらぎらとした瞳で青年たちの消えていった道をにらみながら、麗射は屈辱をバネにするべく心に刻み込んだ。