第8話 銀老草
文字数 4,404文字
遮るものが何もない砂漠の日暮れは遅い。麗射に仕事を上がれとの命令が伝えられたのは、永劫とも思える時間の後だった。
石を敷かれた浅い用水路のところで、囚人達ははいつくばって水を飲み始めた。銀嶺の雫から引かれている水であろうか、冷たく甘い水を皆むさぼるようにして飲む。これはもともと許されていることなのだろう、獄吏たちも何も言わずに囚人たちが水を飲むのを待っていた。牢獄にも房の端に簡単な厠と手洗い兼水飲み場があるが、水はどこかに貯められているものらしくこの鮮烈な水とは違い、腐ったような香りがした。
「おい新入り、大丈夫だったか」
走耳が麗射の横にやって来た。
口元からふんと甘い香りがする。多分木の上で監視の目を盗みナツメヤシの熟果をつまみ食いしているのであろう。木の上に登り、長時間そこで労働するという技術と体力がいる仕事だが役得も十分あるわけだ。
麗射の視線に気が付いたのか、走耳はニヤリと笑っていった。
「ここで生き抜くためには、きれいごとじゃ駄目さ。なんとか獄吏の目を出し抜いてさぼったり、食い物をちょろまかさないと死んでしまうぞ」
そういう場所なのだ。麗射は今更ながら自分が厳しい場所にいることを再認識した。あの壁画を作ったのはまだ昨日の晩なのに、ずいぶん昔のことのように思える。もう、美術工芸学院には入れないのだろうか。誰かがあの壁画を見て、評価してくれないのだろうか。このまま自分は砂漠に放逸されて死んでしまうのだろうか。肩にくい込む麻袋がなんだか一層重く感じる。
麗射が絶望に苛まれている間に、号令がくだり、囚人たちはのろのろと歩き始めた。
「どうだった新入り」
雷蛇が近づいてきた。労務中は姿を見なかったが、朝と変わらない様子で大きな体躯を揺らしながら満面の笑みを浮かべている。
「姿を見なかったけど、どこにいたんですか?」
「俺たちゃ、あっちの木陰で畑の雑草を抜きながらのんびりさ。獄吏どもは、雷蛇様の報復が怖いと見える。見て見ぬふりで何にも言いやしない」
くちゃくちゃと何かを噛みながら、彼は唾をそこいらにまき散らした。片手には真っ白な細い花びらを付けた花が根っこごと数本握られていた。
これは、銀老草だ。麗射は眉をひそめた。
銀老草は砂漠に生える乾性植物の一つである。細い葉を無数に付けた丈の低い草だが、春に茎から垂れ下がる翁のひげを思わせる真っ白な細い花びらを付けることからそう呼ばれている。この草の根は強い幻覚作用を持っていた。
麗射はこの植物を絵の兄弟子が使っているのを見たことがある。これを口で噛むとどんなに行き詰っていても、しばらくすると想像を超えた世界が見えてくると兄弟子は話していた。実際、彼の描く絵はどこか常人離れした美しさと激しさを持っていた。
しかし、師はそれを知っていたのだろう、決して兄弟子の作品を認めようとはしなかった。兄弟子の絵の噂を聞きつけた宮廷から、度重なる買取りの打診が来た時も無下に断ったほどだ。
「自らの力を開放するのは、己でなければならない。自らを突き詰めた際に至る境地を、何か他の力を借りて到達してもそれは所詮偽りの作品に他ならない」
師は事あるごとに麗射に繰り返した。
登山は足で登るから頂上の景色がより美しいのだ。雲に乗って上がり同じ景色を見てもそれはただ景色でしかない。労苦の重なり合いが、景色に感動を与えるのだ。決して甘美な誘惑に負けてはならない。美への境地には自らの心を研ぎ澄まして到達するのだ、と。
その表情には弟子を救えなかった苦悩がにじみ出ていた。
自分の作品を公にしないことに業を煮やして師の元を離れた麗射の兄弟子は、有名画家としてしばらくは都で華やかな生活を送っていた。しかし、徐々に人格も変わりついには変わり果てた姿で発見された。こと切れた彼の部屋には銀老草の根と種をいぶした香りが立ち込めていたらしい。
銀老草を使った者の悲惨な末路は、麗射の頭に刻みつけられている。
雷蛇の後ろには、点々と彼の吐いた根のカスが落ちていた。よく見ると目は半眼でどこか焦点があっていない。
一目見れば異変はわかるだろうに、獄吏達は牢名主の雷蛇に遠慮して何も言わないのであろうか。麗射は雷蛇と交わした掌魂 の誓いを思い出した。それは誓った相手に対して、無償の敬愛をささげる事と麗射の中では理解している。
「雷蛇、それは銀老草か? 身体に良くない。やめたほうが――」
「黙れ、小僧。俺様に説教をする気か」
雷蛇の形相が瞬く間に変化し、とろりとしていた目が険しく吊り上がった。
「俺の兄弟子はそれに才能も命も奪われた。だから――」
皆まで言わぜず麗射の胸倉を太い腕がつかんだ。
ふわりと麗射は浮き上がり、受け身を取る暇もなく、肩から地面にたたきつけられる。袋に入ったナツメヤシの実が散らばった。
駆け寄ってきた獄吏たちは、雷蛇には近寄らず麗射を怒鳴ると蹴りつけた。
「馬鹿野郎、砂漠の神の実に何てことするんだ。すぐ拾え」
のろのろと体を起こして拾い始める麗射を見た獄吏の一人が周りを取り囲む囚人たちを見回して、声を上げた。
「お前らもナツメヤシを拾え。一つでも残したら連帯責任で今日の夕食はないぞ」
慌てて囚人たちが膝をついて実を探し始める。しかし、当の雷蛇は突っ立ったまま微動だにしない。そして獄吏達もそれを咎めようとはしなかった。
「ちぇっ、牢の中では極悪なもんほどいい扱いだな」
麗射の近くで実を拾っている男がつぶやいた。
「そうだな、あいつ結構な数を殺しているらしいぜ。獄吏どもも、奴がここを出た後の報復が怖いんだろう」
誰かが小声で相槌を打つ。
麗射はそっと雷蛇を見上げた。彼は悪びれることなく腕組みをして銀老草の根を噛み続けている。だが、ふてぶてしい外見とは裏腹に、夕日に向けられているその目はどこかおびえたような光を放っているのに麗射は気が付いた。
獄に入るとすでに雷蛇の横に麗射の場所はなかった。先ほどの忠告が彼の機嫌を損ねたのだろう。
もともとの末席に腰を下ろすと、横の走耳が「お前、馬鹿だな」とつぶやいて軽く肩をすくめた。
夕食に出てきたのは、深い大鉢に山盛りの乾燥ナツメヤシだった。
労働でくたくたになっている麗射の身体は、砂糖に近い甘さを持つナツメヤシの実をたまらなく欲している。甘い実になると砂糖のような甘い結晶が口の中でガリガリと音を立てる。全身がその染み渡る甘い陶酔を求めていた。
それはだれしも同じなのであろう、雷蛇の前に置かれているナツメヤシの実を皆が固唾をのんで見つめている。
雷蛇は、無言で実をむんずと掴むとそのまま口に入れた。山盛りの実の頂上がごっそりと無くなる。牢の中には、くちゃくちゃという雷蛇の咀嚼音だけが響いた。
残りのナツメヤシを雷蛇以外の人数で割ると、多分片手ずつしかない。
あたりに漂う甘い香りに麗射の腹の虫がたまらずに鳴き声をあげた。
雷蛇がおもむろに種を吐き捨てた。
これで終わりかと思われたが、雷蛇はまたおもむろに大きな手でナツメヤシを掴むと口の中にほうりこんだ。獄の中を甘い香りが漂い、麗射の胃の腑をますます締め付けた。山盛りであったはずのナツメヤシはごっそりと減っていた。
雷蛇はしばらく悠然と食べ続けた後に、半分も残っていない器を乱暴に横の男の方に押しやった。
横の男は遠慮もなくナツメヤシを掴んで口に入れた。そして次の男も。
見る見るうちに皿の中のナツメヤシは無くなり、最後尾に座る麗射の前には空っぽの鉢が回されてきた。
「いつもこうなのか」
麗射は走耳に耳打ちする。走耳は無表情でこくりとうなずいた。彼も食べてはいないが、労務の時に木のてっぺんでナツメヤシの実をたらふく食べているので不都合を感じないらしい。幻風も平気な顔をしているところを見ると、実の収穫の時にいくつかちょろまかしているのだろう。
「ここでは公平とか潔白という言葉は通用しないんだよ。人を出し抜かないと生きていけない」
ぽん、と麗射の肩を叩き、あとはすることもないとばかりに走耳は横になり目をつぶった。
「おい、新入り。片付けを忘れるな」
古参の囚人が種を片付けろという身振りをする。
麗射はのろのろとからの鉢に皆が土間に吐き出した種を集めて回った。
「お前、まだ食ってないんだろ」
雷蛇がニヤリと笑みを浮かべた。
「ああ」
雷蛇のまき散らした種を拾いながら麗射がうなずく。
「あんたが人のことを考えないで食ってしまうから、俺にはナツメヤシが残っていなかった」
麗射は雷蛇の目をまっすぐに見て言った。
「この獄の中で一番上の席に座っているのなら、皆のことも考えてくれ」
「ふん、俺にそんな物言いをするとはいい度胸だ」
雷蛇の目が赤く燃え上がった。
「それじゃあ、お前ら食わせてやれ」
雷蛇の号令と共に数人の囚人が立ち上がると麗射を羽交い絞めにした。逃れようとする麗射を押さえつけ、その口に彼が拾い集めた泥だらけの種を目いっぱいにねじ込んだ。
「あいつ、底抜けのバカだぜ」末席で走耳がつぶやいた。
麗射の口の中にじゃりじゃりとした砂漠の砂が貼りつく。
囚人たちがしゃぶりつくした小さな種にすでに実は残っておらず種を覆う皮のかすかな酸味がするばかりであった。
「食うまで出さすな」
「飲み込め」
麗射の口が大きな手でふさがれる。その手が鼻腔までもふさぎ息苦しさに麗射はもがいた。牢の中ではこんなことも娯楽の一つなのだろう、彼がもがけばもがくほど牢の中は沸き立った。獄吏も牢の騒ぎを気が付いているのかいないのか、誰も見に来る者はいない。
種は固く容易にかみ砕けるものではなかった。紡錘形の種の先端で口のどこかを切ったのか鼻に生臭い香りが上ってくる。
呼吸ができない麗射の眼前は急速に暗くなり、全身の力が抜けた。
「満腹になったか」
床にへたり込み、種を吐き出す麗射の頭を蹴って雷蛇が笑う。
「いつでも言え、満腹にしてやるからな」
麗射の頭に囚人たちの笑い声が響く。
「お前ら、それで満足か?」
麗射はありったけの力を振り絞り叫んだ。
「雷蛇一人が満腹で、それで満足か」
牢獄が一瞬静まり返る。麗射はよろよろと立ち上がり雷蛇を睨みつけた。
「雷蛇、お前一人が満腹になるかぎり――」
雷蛇の顔が紅潮し、目が吊り上がる。太い腕が振り上げられる。
「お前の心はますます空腹になるんだ」
独房に咆哮が響く。雷蛇の一撃をまともにくらった麗射は房の壁に叩きつけられた。壁からずり落ちた体は乱暴に引きずり起こされ、容赦なくもう一撃が腹に決まる。
麗射の目の前が一瞬で暗くなった。
石を敷かれた浅い用水路のところで、囚人達ははいつくばって水を飲み始めた。銀嶺の雫から引かれている水であろうか、冷たく甘い水を皆むさぼるようにして飲む。これはもともと許されていることなのだろう、獄吏たちも何も言わずに囚人たちが水を飲むのを待っていた。牢獄にも房の端に簡単な厠と手洗い兼水飲み場があるが、水はどこかに貯められているものらしくこの鮮烈な水とは違い、腐ったような香りがした。
「おい新入り、大丈夫だったか」
走耳が麗射の横にやって来た。
口元からふんと甘い香りがする。多分木の上で監視の目を盗みナツメヤシの熟果をつまみ食いしているのであろう。木の上に登り、長時間そこで労働するという技術と体力がいる仕事だが役得も十分あるわけだ。
麗射の視線に気が付いたのか、走耳はニヤリと笑っていった。
「ここで生き抜くためには、きれいごとじゃ駄目さ。なんとか獄吏の目を出し抜いてさぼったり、食い物をちょろまかさないと死んでしまうぞ」
そういう場所なのだ。麗射は今更ながら自分が厳しい場所にいることを再認識した。あの壁画を作ったのはまだ昨日の晩なのに、ずいぶん昔のことのように思える。もう、美術工芸学院には入れないのだろうか。誰かがあの壁画を見て、評価してくれないのだろうか。このまま自分は砂漠に放逸されて死んでしまうのだろうか。肩にくい込む麻袋がなんだか一層重く感じる。
麗射が絶望に苛まれている間に、号令がくだり、囚人たちはのろのろと歩き始めた。
「どうだった新入り」
雷蛇が近づいてきた。労務中は姿を見なかったが、朝と変わらない様子で大きな体躯を揺らしながら満面の笑みを浮かべている。
「姿を見なかったけど、どこにいたんですか?」
「俺たちゃ、あっちの木陰で畑の雑草を抜きながらのんびりさ。獄吏どもは、雷蛇様の報復が怖いと見える。見て見ぬふりで何にも言いやしない」
くちゃくちゃと何かを噛みながら、彼は唾をそこいらにまき散らした。片手には真っ白な細い花びらを付けた花が根っこごと数本握られていた。
これは、銀老草だ。麗射は眉をひそめた。
銀老草は砂漠に生える乾性植物の一つである。細い葉を無数に付けた丈の低い草だが、春に茎から垂れ下がる翁のひげを思わせる真っ白な細い花びらを付けることからそう呼ばれている。この草の根は強い幻覚作用を持っていた。
麗射はこの植物を絵の兄弟子が使っているのを見たことがある。これを口で噛むとどんなに行き詰っていても、しばらくすると想像を超えた世界が見えてくると兄弟子は話していた。実際、彼の描く絵はどこか常人離れした美しさと激しさを持っていた。
しかし、師はそれを知っていたのだろう、決して兄弟子の作品を認めようとはしなかった。兄弟子の絵の噂を聞きつけた宮廷から、度重なる買取りの打診が来た時も無下に断ったほどだ。
「自らの力を開放するのは、己でなければならない。自らを突き詰めた際に至る境地を、何か他の力を借りて到達してもそれは所詮偽りの作品に他ならない」
師は事あるごとに麗射に繰り返した。
登山は足で登るから頂上の景色がより美しいのだ。雲に乗って上がり同じ景色を見てもそれはただ景色でしかない。労苦の重なり合いが、景色に感動を与えるのだ。決して甘美な誘惑に負けてはならない。美への境地には自らの心を研ぎ澄まして到達するのだ、と。
その表情には弟子を救えなかった苦悩がにじみ出ていた。
自分の作品を公にしないことに業を煮やして師の元を離れた麗射の兄弟子は、有名画家としてしばらくは都で華やかな生活を送っていた。しかし、徐々に人格も変わりついには変わり果てた姿で発見された。こと切れた彼の部屋には銀老草の根と種をいぶした香りが立ち込めていたらしい。
銀老草を使った者の悲惨な末路は、麗射の頭に刻みつけられている。
雷蛇の後ろには、点々と彼の吐いた根のカスが落ちていた。よく見ると目は半眼でどこか焦点があっていない。
一目見れば異変はわかるだろうに、獄吏達は牢名主の雷蛇に遠慮して何も言わないのであろうか。麗射は雷蛇と交わした
「雷蛇、それは銀老草か? 身体に良くない。やめたほうが――」
「黙れ、小僧。俺様に説教をする気か」
雷蛇の形相が瞬く間に変化し、とろりとしていた目が険しく吊り上がった。
「俺の兄弟子はそれに才能も命も奪われた。だから――」
皆まで言わぜず麗射の胸倉を太い腕がつかんだ。
ふわりと麗射は浮き上がり、受け身を取る暇もなく、肩から地面にたたきつけられる。袋に入ったナツメヤシの実が散らばった。
駆け寄ってきた獄吏たちは、雷蛇には近寄らず麗射を怒鳴ると蹴りつけた。
「馬鹿野郎、砂漠の神の実に何てことするんだ。すぐ拾え」
のろのろと体を起こして拾い始める麗射を見た獄吏の一人が周りを取り囲む囚人たちを見回して、声を上げた。
「お前らもナツメヤシを拾え。一つでも残したら連帯責任で今日の夕食はないぞ」
慌てて囚人たちが膝をついて実を探し始める。しかし、当の雷蛇は突っ立ったまま微動だにしない。そして獄吏達もそれを咎めようとはしなかった。
「ちぇっ、牢の中では極悪なもんほどいい扱いだな」
麗射の近くで実を拾っている男がつぶやいた。
「そうだな、あいつ結構な数を殺しているらしいぜ。獄吏どもも、奴がここを出た後の報復が怖いんだろう」
誰かが小声で相槌を打つ。
麗射はそっと雷蛇を見上げた。彼は悪びれることなく腕組みをして銀老草の根を噛み続けている。だが、ふてぶてしい外見とは裏腹に、夕日に向けられているその目はどこかおびえたような光を放っているのに麗射は気が付いた。
獄に入るとすでに雷蛇の横に麗射の場所はなかった。先ほどの忠告が彼の機嫌を損ねたのだろう。
もともとの末席に腰を下ろすと、横の走耳が「お前、馬鹿だな」とつぶやいて軽く肩をすくめた。
夕食に出てきたのは、深い大鉢に山盛りの乾燥ナツメヤシだった。
労働でくたくたになっている麗射の身体は、砂糖に近い甘さを持つナツメヤシの実をたまらなく欲している。甘い実になると砂糖のような甘い結晶が口の中でガリガリと音を立てる。全身がその染み渡る甘い陶酔を求めていた。
それはだれしも同じなのであろう、雷蛇の前に置かれているナツメヤシの実を皆が固唾をのんで見つめている。
雷蛇は、無言で実をむんずと掴むとそのまま口に入れた。山盛りの実の頂上がごっそりと無くなる。牢の中には、くちゃくちゃという雷蛇の咀嚼音だけが響いた。
残りのナツメヤシを雷蛇以外の人数で割ると、多分片手ずつしかない。
あたりに漂う甘い香りに麗射の腹の虫がたまらずに鳴き声をあげた。
雷蛇がおもむろに種を吐き捨てた。
これで終わりかと思われたが、雷蛇はまたおもむろに大きな手でナツメヤシを掴むと口の中にほうりこんだ。獄の中を甘い香りが漂い、麗射の胃の腑をますます締め付けた。山盛りであったはずのナツメヤシはごっそりと減っていた。
雷蛇はしばらく悠然と食べ続けた後に、半分も残っていない器を乱暴に横の男の方に押しやった。
横の男は遠慮もなくナツメヤシを掴んで口に入れた。そして次の男も。
見る見るうちに皿の中のナツメヤシは無くなり、最後尾に座る麗射の前には空っぽの鉢が回されてきた。
「いつもこうなのか」
麗射は走耳に耳打ちする。走耳は無表情でこくりとうなずいた。彼も食べてはいないが、労務の時に木のてっぺんでナツメヤシの実をたらふく食べているので不都合を感じないらしい。幻風も平気な顔をしているところを見ると、実の収穫の時にいくつかちょろまかしているのだろう。
「ここでは公平とか潔白という言葉は通用しないんだよ。人を出し抜かないと生きていけない」
ぽん、と麗射の肩を叩き、あとはすることもないとばかりに走耳は横になり目をつぶった。
「おい、新入り。片付けを忘れるな」
古参の囚人が種を片付けろという身振りをする。
麗射はのろのろとからの鉢に皆が土間に吐き出した種を集めて回った。
「お前、まだ食ってないんだろ」
雷蛇がニヤリと笑みを浮かべた。
「ああ」
雷蛇のまき散らした種を拾いながら麗射がうなずく。
「あんたが人のことを考えないで食ってしまうから、俺にはナツメヤシが残っていなかった」
麗射は雷蛇の目をまっすぐに見て言った。
「この獄の中で一番上の席に座っているのなら、皆のことも考えてくれ」
「ふん、俺にそんな物言いをするとはいい度胸だ」
雷蛇の目が赤く燃え上がった。
「それじゃあ、お前ら食わせてやれ」
雷蛇の号令と共に数人の囚人が立ち上がると麗射を羽交い絞めにした。逃れようとする麗射を押さえつけ、その口に彼が拾い集めた泥だらけの種を目いっぱいにねじ込んだ。
「あいつ、底抜けのバカだぜ」末席で走耳がつぶやいた。
麗射の口の中にじゃりじゃりとした砂漠の砂が貼りつく。
囚人たちがしゃぶりつくした小さな種にすでに実は残っておらず種を覆う皮のかすかな酸味がするばかりであった。
「食うまで出さすな」
「飲み込め」
麗射の口が大きな手でふさがれる。その手が鼻腔までもふさぎ息苦しさに麗射はもがいた。牢の中ではこんなことも娯楽の一つなのだろう、彼がもがけばもがくほど牢の中は沸き立った。獄吏も牢の騒ぎを気が付いているのかいないのか、誰も見に来る者はいない。
種は固く容易にかみ砕けるものではなかった。紡錘形の種の先端で口のどこかを切ったのか鼻に生臭い香りが上ってくる。
呼吸ができない麗射の眼前は急速に暗くなり、全身の力が抜けた。
「満腹になったか」
床にへたり込み、種を吐き出す麗射の頭を蹴って雷蛇が笑う。
「いつでも言え、満腹にしてやるからな」
麗射の頭に囚人たちの笑い声が響く。
「お前ら、それで満足か?」
麗射はありったけの力を振り絞り叫んだ。
「雷蛇一人が満腹で、それで満足か」
牢獄が一瞬静まり返る。麗射はよろよろと立ち上がり雷蛇を睨みつけた。
「雷蛇、お前一人が満腹になるかぎり――」
雷蛇の顔が紅潮し、目が吊り上がる。太い腕が振り上げられる。
「お前の心はますます空腹になるんだ」
独房に咆哮が響く。雷蛇の一撃をまともにくらった麗射は房の壁に叩きつけられた。壁からずり落ちた体は乱暴に引きずり起こされ、容赦なくもう一撃が腹に決まる。
麗射の目の前が一瞬で暗くなった。