第96話 戦況
文字数 3,425文字
麗射が学院で迎える2年目の夏は特に暑かった。
猛暑は広沙州 だけではなく、近隣の三州にも同様に訪れている。雨が少なく、地下水に頼ることの多い煉州 では、頼みの地下水ですら枯渇しはじめ、干ばつによる田畑の不作は飢餓を呼びそのまま民衆の不満につながっていた。
飢餓に対する王室の無策が、民衆の怒りに油を注いだ。だらけきった貴族の集まりにすぎない煉州軍は、剴斗 の奮戦にもかかわらず負けを繰り返している。反乱軍に加勢する者が後を絶たず、王室軍は苦しい戦いを強いられ続けた。反乱は局地戦から次第に国全土を巻き込む本格的な内乱に発展しつつあった。
玲斗とその部下が居を構える煉州街と呼ばれるオアシスの一隅は、故国の反乱軍と王室軍の戦況が使者によってもたらされるたびに一喜一憂していた。最初は言葉を濁していた使者も、隠しきれなくなったのか、最近は状況を包み隠さず報告するようになった。
「玲斗様、王室軍の不利が報告されています。私たちは帰るべきでは無いでしょうか」
順正がたずねる。麗射達の爆花小屋を炎上させたあの一件では、思いあまって行動に移した彼だったが、それは純粋な玲斗への忠誠心の表れに他ならない。あの時には順正を叱った玲斗だったが、心の中ではその気持ちを十分に理解している。
玲斗に対して声を上げたのは順正であったが、彼の後ろには目を血走らせた沢山の同郷の青年達が立っていた。
「お前達は私が御父兄から託された大切な預かり物だ。君達をつれて戦地に戻ることはできない、君達がここに居るからこそ御父兄も安心して戦えるのだ」
玲斗は窓から照りつける太陽を仰ぐ。
「夏に砂漠を移動すること自体が危険だ。もう少しここで情報を待とう。安心しろ、我が父剴斗は、誕生のその日に高名な占い師から伝説の武人天駆 の君 ユーシェルにしかその命を奪うことはできないと予言された男だ。その言葉に慢心せず、父は平時でも常に戦いを忘れてはおらず、館の中で訓練を繰り返していた。易々と反乱軍に負けたりしない」
その言葉を聞いて、何人かの貴族の青年が頭を垂れる。
貴族の中に剴斗のような武人は少なく、ほとんどはきらびやかな調度の家に住み武を磨くことを忘れて日々安穏と暮らしていた。剴斗がいかに武人として優れていても、彼に続けるものは沢山はいないことが解っている。
「父とともに武勇に優れた兄の勇斗 もいる、彼は私と違って冷静沈着な根っからの武人だから反乱軍を蹴散らしてくれるだろう」
とりまきの青年達は、自らを卑下する玲斗の言葉を肯定して良いか迷うように目を泳がせた。
しかし、彼らも心の内では勇斗に期待するところが大きい。
剴斗は武人として傑出している勇斗をことのほかかわいがり、我が跡取りだと自慢げに紹介していた。
冷静で感情を表に表すことの少ない兄が玲斗は苦手である。比べられるといつも自分が怒られることがわかっている彼は、次第に兄と同じ事をすることを避けるようになっていった。兄が武道を研鑽しているからこそ、玲斗は絵画の道に入ったのである。もし、兄が絵画を描いていれば、玲斗は迷わず他の道を選んだであろう。
質実剛健を旨とする剴斗の城には楽器など他に打ち込めるものは無かった。書物は武道と戦関係のものばかり。玲斗が逃げられるのは亡き母が残した絵の具と紙の中だけであった。絵を描くのが好きであった母を思い出すのか、剴斗も玲斗が武術をさぼって絵を描くのをさほどとがめなかったばかりか、学院への入学を後押しすらしてくれた。
しかし、それは玲斗にとって寂しいことでもあった。心の底では武道に励めと叱って欲しかったのかも知れない。父親の温情は、自らに武人としての才能の無さを嫌というほど知らしめた。
正直なところ、玲斗は絵を描くことが好きでは無い。
しかし、絵は彼を救ってくれる唯一の友であった。そして幸い彼には友に答えるありあまる才能があった。父と兄が居る光が満ちる表舞台から背を向けて、彼は芸術の暗闇に沈むことにした。そして美術工芸院には、作者の背景など関係なく、公平に美術を評価してくれる公平さがあった。父からの付け届けはあったかもしれないが、玲斗は自分が得た評価は正しく自分の実力と考えている。
ここは崇高なる芸術の戦場だ。
武人だの、家族からの評価など、すべてを忘れて挑めるものがある。
だからこそ、お祭りのような騒ぎの中、不正な方法で学院に入学してきた麗射は許せなかった。
今の玲斗は、あの男に牛耳られた学院になど戻る気は無い。
焦燥の夏が過ぎ、秋風が吹きはじめ、息を止めるような暑さが和らいできた。
夏は隊商も行き来を止め、オアシスは砂漠の海の中で孤立した島となる。外からの情報は何も得られず、玲斗達はただひたすら行き交い始めた隊商がもたらす情報を待つのみであった。
伝鳥の頻度が低いのは猛暑のためであろうと考えていた玲斗が、そうでは無いことを知ったのは、秋も半ばになってからであった。
青空が高いある朝、血みどろの男が玲斗邸の戸を叩いた。
対応した下働きの娘の悲鳴がまだ静かな煉州街に響く。
「れ、玲斗様」
「どうした」
駆け込んできた順正に声をかけ、彼の顔が蒼白であることを見た玲斗は眉をひそめる。
順正の手には、血の付いた書状が握られていた。
「お、お館様が――」
それ以上は口に出せず、順正は膝をついて嗚咽を上げ始める。
ひったくるようにして書状を取った玲斗も、その内容を読みすすめるにつれ、全身を小刻みに震わせた。
何事か、と館の人々が開け放たれた主人の部屋の扉から中をうかがう。
玲斗は天井を向いて硬直していた。
号泣する順正、まるで彫像になったような玲斗。
声をかける雰囲気では無く、館の者は顔を見合わせる。
「あ、兄上が亡くなった」
しばらくして、玲斗は絞り出すような声を出した。
息をのむ人々。しかし、続く言葉でその空間は凍り付いた。
「父が、兄を手にかけた――」
「秋になったのに、食事の内容が良くならないなあ」
乱削麺 から、米粉の透き通った麺に心変わりしている美蓮がぼやいた。本来なら米粉の麺に豆乳の温かいスープを入れ、その上から茹でた鶏肉とごま油、ハーブを入れるはずなのだが、豆が手に入らないらしく、鳥ガラで出汁を取った透明なスープになっている。これはこれで美味しいのだが、豆乳のスープが気に入っている美蓮には物足りないらしい。
「仕方が無い、最近煉州の混乱で各国も守りに入って、美術品が売れないようだからな。さすがの美の殿堂も経営に苦しんでいるようだ」
手に算盤 をもって瑠貝が首を振った。
最近、彼はあまり学院の授業に顔を出さなくなっていた。ただ飯にありつくために、寮には居るようだが、この秋は波州から叡州に旅行に行くつもりで予定を立てている。
「今、ジェズムの伝 を借りて、金融の網を構築しようとしているんだ。だいぶ形になってきた」
「なんだ、そりゃ」
「例えば叡州 で美術品を売ったとする、そしてここに戻ってくるときに叡州からごっそり大金を運ぶのは危険だろ、だから絵を買った者が契約している交換所に金を払ってその代わり手形を出してもらうんだ。絵を売った奴がその手形をここに持って帰れば、ここの交換所で金に換わるっていう機構だ」
みんなキョトンとして瑠貝を見ている。
「ま、機構ができたら、おれは砂漠とかげの涙ほどの手数料をもらうがね」
「どうせ、砂漠とかげの涙を集めて湖にしようって魂胆だろう」
美蓮が肩をすくめる。「どうしてそんな金のことばかり考えるかな」
「馬鹿にするなよ、金も芸術だ。金の巡りをよくすることで、人々の生活も活気づいていくんだ。煉州を見ろ、金がひとっところに偏 るとろくな事が無い。金が軽やかに動くには『信用』のある組織が必要なんだ。俺は今からその組織を作りに行くんだ」
一呼吸置いて、瑠貝が口を開く。
「金は汚いものだと馬鹿にする奴は多いが、金の巡りをよくすることで平和にも、そして皆が幸せにもなるんだ。俺は金の力で平和な三州を作るのが夢なんだよ」
「それは壮大な夢だが、また俺達のところに帰ってきてくれよ。単位は落とさないように気をつけろ、できるだけ協力するから」
いつのまにか常識的な発言をするようになった麗射に目を丸くした瑠貝だが、微笑んで大きくうなずいた。
「当たり前だ。ここは俺の本拠地だからな」
「ちょっとさみしいね。君がいなくなる時間が多いと」
美蓮がつぶやいた。
猛暑は
飢餓に対する王室の無策が、民衆の怒りに油を注いだ。だらけきった貴族の集まりにすぎない煉州軍は、
玲斗とその部下が居を構える煉州街と呼ばれるオアシスの一隅は、故国の反乱軍と王室軍の戦況が使者によってもたらされるたびに一喜一憂していた。最初は言葉を濁していた使者も、隠しきれなくなったのか、最近は状況を包み隠さず報告するようになった。
「玲斗様、王室軍の不利が報告されています。私たちは帰るべきでは無いでしょうか」
順正がたずねる。麗射達の爆花小屋を炎上させたあの一件では、思いあまって行動に移した彼だったが、それは純粋な玲斗への忠誠心の表れに他ならない。あの時には順正を叱った玲斗だったが、心の中ではその気持ちを十分に理解している。
玲斗に対して声を上げたのは順正であったが、彼の後ろには目を血走らせた沢山の同郷の青年達が立っていた。
「お前達は私が御父兄から託された大切な預かり物だ。君達をつれて戦地に戻ることはできない、君達がここに居るからこそ御父兄も安心して戦えるのだ」
玲斗は窓から照りつける太陽を仰ぐ。
「夏に砂漠を移動すること自体が危険だ。もう少しここで情報を待とう。安心しろ、我が父剴斗は、誕生のその日に高名な占い師から伝説の武人
その言葉を聞いて、何人かの貴族の青年が頭を垂れる。
貴族の中に剴斗のような武人は少なく、ほとんどはきらびやかな調度の家に住み武を磨くことを忘れて日々安穏と暮らしていた。剴斗がいかに武人として優れていても、彼に続けるものは沢山はいないことが解っている。
「父とともに武勇に優れた兄の
とりまきの青年達は、自らを卑下する玲斗の言葉を肯定して良いか迷うように目を泳がせた。
しかし、彼らも心の内では勇斗に期待するところが大きい。
剴斗は武人として傑出している勇斗をことのほかかわいがり、我が跡取りだと自慢げに紹介していた。
冷静で感情を表に表すことの少ない兄が玲斗は苦手である。比べられるといつも自分が怒られることがわかっている彼は、次第に兄と同じ事をすることを避けるようになっていった。兄が武道を研鑽しているからこそ、玲斗は絵画の道に入ったのである。もし、兄が絵画を描いていれば、玲斗は迷わず他の道を選んだであろう。
質実剛健を旨とする剴斗の城には楽器など他に打ち込めるものは無かった。書物は武道と戦関係のものばかり。玲斗が逃げられるのは亡き母が残した絵の具と紙の中だけであった。絵を描くのが好きであった母を思い出すのか、剴斗も玲斗が武術をさぼって絵を描くのをさほどとがめなかったばかりか、学院への入学を後押しすらしてくれた。
しかし、それは玲斗にとって寂しいことでもあった。心の底では武道に励めと叱って欲しかったのかも知れない。父親の温情は、自らに武人としての才能の無さを嫌というほど知らしめた。
正直なところ、玲斗は絵を描くことが好きでは無い。
しかし、絵は彼を救ってくれる唯一の友であった。そして幸い彼には友に答えるありあまる才能があった。父と兄が居る光が満ちる表舞台から背を向けて、彼は芸術の暗闇に沈むことにした。そして美術工芸院には、作者の背景など関係なく、公平に美術を評価してくれる公平さがあった。父からの付け届けはあったかもしれないが、玲斗は自分が得た評価は正しく自分の実力と考えている。
ここは崇高なる芸術の戦場だ。
武人だの、家族からの評価など、すべてを忘れて挑めるものがある。
だからこそ、お祭りのような騒ぎの中、不正な方法で学院に入学してきた麗射は許せなかった。
今の玲斗は、あの男に牛耳られた学院になど戻る気は無い。
焦燥の夏が過ぎ、秋風が吹きはじめ、息を止めるような暑さが和らいできた。
夏は隊商も行き来を止め、オアシスは砂漠の海の中で孤立した島となる。外からの情報は何も得られず、玲斗達はただひたすら行き交い始めた隊商がもたらす情報を待つのみであった。
伝鳥の頻度が低いのは猛暑のためであろうと考えていた玲斗が、そうでは無いことを知ったのは、秋も半ばになってからであった。
青空が高いある朝、血みどろの男が玲斗邸の戸を叩いた。
対応した下働きの娘の悲鳴がまだ静かな煉州街に響く。
「れ、玲斗様」
「どうした」
駆け込んできた順正に声をかけ、彼の顔が蒼白であることを見た玲斗は眉をひそめる。
順正の手には、血の付いた書状が握られていた。
「お、お館様が――」
それ以上は口に出せず、順正は膝をついて嗚咽を上げ始める。
ひったくるようにして書状を取った玲斗も、その内容を読みすすめるにつれ、全身を小刻みに震わせた。
何事か、と館の人々が開け放たれた主人の部屋の扉から中をうかがう。
玲斗は天井を向いて硬直していた。
号泣する順正、まるで彫像になったような玲斗。
声をかける雰囲気では無く、館の者は顔を見合わせる。
「あ、兄上が亡くなった」
しばらくして、玲斗は絞り出すような声を出した。
息をのむ人々。しかし、続く言葉でその空間は凍り付いた。
「父が、兄を手にかけた――」
「秋になったのに、食事の内容が良くならないなあ」
「仕方が無い、最近煉州の混乱で各国も守りに入って、美術品が売れないようだからな。さすがの美の殿堂も経営に苦しんでいるようだ」
手に
最近、彼はあまり学院の授業に顔を出さなくなっていた。ただ飯にありつくために、寮には居るようだが、この秋は波州から叡州に旅行に行くつもりで予定を立てている。
「今、ジェズムの
「なんだ、そりゃ」
「例えば
みんなキョトンとして瑠貝を見ている。
「ま、機構ができたら、おれは砂漠とかげの涙ほどの手数料をもらうがね」
「どうせ、砂漠とかげの涙を集めて湖にしようって魂胆だろう」
美蓮が肩をすくめる。「どうしてそんな金のことばかり考えるかな」
「馬鹿にするなよ、金も芸術だ。金の巡りをよくすることで、人々の生活も活気づいていくんだ。煉州を見ろ、金がひとっところに
一呼吸置いて、瑠貝が口を開く。
「金は汚いものだと馬鹿にする奴は多いが、金の巡りをよくすることで平和にも、そして皆が幸せにもなるんだ。俺は金の力で平和な三州を作るのが夢なんだよ」
「それは壮大な夢だが、また俺達のところに帰ってきてくれよ。単位は落とさないように気をつけろ、できるだけ協力するから」
いつのまにか常識的な発言をするようになった麗射に目を丸くした瑠貝だが、微笑んで大きくうなずいた。
「当たり前だ。ここは俺の本拠地だからな」
「ちょっとさみしいね。君がいなくなる時間が多いと」
美蓮がつぶやいた。