第39話 天才の過去
文字数 3,027文字
目を赤く血走らせた玲斗が夕陽に近づいた。
「あんなに衝撃的な絵なら誰だって目を奪われるさ。お前が上手いんじゃない、お前は母親の哀れな姿で皆を釣ったのさ」
「――わからない」
夕陽の背中が小刻みに震えている。
「気が付いたら、描いていた。描き始めるとやめられなかった」
「流石天才だな。絵の前にはなんだってありか。はだけられた母親の服、血塗られた肌、眼窩から飛び出した目、肉親のあんな気持ちの悪い姿をよく衆目の前にさらせるもんだ」
頭を抱えて夕陽はうずくまる。しかし、玲斗の誹りは容赦なく続いた。
「お前は親を辱めたんだよ、あんな汚い場面を見たら皆こんな気持ちだぜ」
玲斗は下劣な声を上げて、吐く真似をした。取り巻きはそれを見て大笑いする。
「や、やめろ」
夕陽は猛然と立ち上がって玲斗に飛びかかろうとした。しかし、その中に厨房から飛び出してきた麗射が割って入った。
「夕陽、こいつらに関わるな」
レドウィンから彼のことを頼まれている麗射は、引き留める仲間を振り切って厨房から飛び出てきたのだ。
「頼む。制作棟に戻ってくれ、夕陽さん」
背中を押して、食堂から出そうとする麗射。このままでは酔った玲斗がなにをするかわからない。
麗射を見ていいカモが飛び込んできたとばかり、玲斗はほくそ笑んだ。皆に一目置かれている天才の夕陽にこれ以上絡むのは流石に外聞が悪いと気が付いたのだろう。麗射なら一度落ちた評判がまだすべて回復しているわけではない。うっ憤を晴らすのにはちょうどいい相手であった。
「焼き印入りの獄奴のくせに、調子にのりやがって。根性を鍛えなおしてやる」
玲斗の合図とともに子分が麗射を押さえつける。優秀賞を取れなかったうっ憤を晴らすように、玲斗は麗射を殴り飛ばした。
「貴族に対する口の利き方を教えてやれ」
羽交い絞めにされた麗射の顔にもう一度鉄拳が見舞われる。武芸のたしなみもあるのだろう、玲斗の鋭い一撃は側面から麗射の顎にめり込んだ。
「逃げろ、夕陽さん、ここから立ち去ってくれ」
四方から、蹴る、殴るの暴行が加えられる。目の前が暗くなる前に、麗射はありったけの声で叫んだ。
夕陽は真っ青な顔で凍り付いたように立ちすくんでいる。
ただ一人を囲んで皆が暴行する。夕陽の頭には押し込めておきたかった記憶が鮮明に蘇り、心はあの瞬間に戻っていた。助ける余裕もなく、夕陽はただガクガクと全身を震わせていた。
誰かが呼んだのか、ばたばたと食堂に駆け込んでくる足音が聞えた。
「やめてください、死にます」
守衛らしき声が聞こえる、しかしその間も麗射の身体は情け容赦なく玲斗の打撃を受け続けていた。玲斗の渾身の一撃で、血しぶきが飛んだ。ぬるい鼻血が麗射の口に流れ込む。
学院をつんざくような夕陽の絶叫が食堂に響いた。
「あなたとの約束を全うできなかった」
ベッドの上で顔に包帯をまかれた麗射はボロボロと涙を流した。
「そんなことはないさ。あのまま玲斗に夕陽が飛びかかって行っても、同じことが起きただろうよ。あの日の玲斗は生贄をさがしていたんだ」
レドウィンは目を伏せた。彼は傍らに座って、麗射の額に置いた水で濡らした布を時々換えてやっていた。
「どう転んでもこうなっていたのさ、すべては天帝の思し召しだよ」
食堂で麗射が殴られて血を流した日から、また夕陽の筆が止まってしまった。部屋からも出ず、数日前からは絶え間ない頭の痛みに苦しんでいるという。
「俺はなんて馬鹿なんだ、俺が出ていかなければ――」
「無理してしゃべるな、鼻の骨が折れているんだ、それに顎の骨にもひびが入っているかもしれんと医者が言っていた」
レドウィンが自責の念を吐露する麗射を制した。
「この件は流石に問題になっていて、玲斗の方にも停学などの何らかの罰則が適応されるらしい。そうなれば、国元にも連絡がいくだろう。親に知れれば流石の奴も面子がたつまい」
「でも、夕陽の心は戻ってこないかもしれない」
麗射のつぶやきにレドウィンは目を伏せた。
「そうだな。きっとあいつも、母親のあんな姿を克明に描いたということで自責の念に駆られていたのかもしれない。でも、お前はあの絵に救いを見つけて祈りをささげていた。それを見てあいつはこの絵を描いてしまった後悔から解放された気持ちになったそうだ。お前の姿に自分への許しを感じたんだろう」
レドウィンは、ガラス窓から見える青い空に目をやった。しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。
「俺は隊商で育って小さい頃から各地の事件や珍しい話をたくさん聞いてきた。その中に燃えるような赤毛の女性の話があった。あの絵を見たとき、俺はあの時聞いた話の女性だと確信したよ」
レドウィンは立ち上がって、碗に駱駝の乳酒を注いだ。独特の酸味のある香りがあたりに広がる。
「以前酒を飲みながら、夕陽に聞いてみたらやはりそうだった。あまりに陰惨な話なので俺の心だけに秘めていようと思ったんだが、お前にも話さねばなるまい。いや、話すのが遅すぎたのかもしれないな」
彼はぐいと酒をあおった。
「夕陽はここからずいぶん遠く、煉州のずっと北東の生まれだ。そこには昔噴火していた火山があって天変地異の多い場所だったらしい。夕陽の母は小さい頃から地震や大雨の前に頭痛がひどくなってそれを感じることができたようだ。彼女の生まれた村は魔女の迷信があって、親からはその能力を伏せるようにきつく言われていた。彼女はその村で嫁に行き夕陽を生んだが,、親子三人の平和な日々は長くは続かなかった――」
レドウィンは何かに憑かれたようにとつとつと話し始めた。
ある日、強い頭痛が夕陽の母を襲った。それは幾日も幾日も続いた。彼女は今までの経験から、自分の頭痛が天候の変化につながっており、今回はただ事じゃないとわかっていた。異変を隠して家族三人で逃げることもできただろうが、しかし彼女は夕陽を見て少しでも多くの子供たちを救いたいと感じた。彼女は家族が止めるのを振り切って、村中に災いが起こるから逃げろと触れ回った。
だが、村人は皆相手にしなかった。
そして、それは突然起こった。彼女が触れ回った数日後、大きな地震が起こり大勢の人々が倒れた家の下敷きになって亡くなった。けが人の救出や、亡くなった人の弔いが済んで一段落した村人の怒りや悲しみが向いたのは、村のために救護にいそしんでいた彼女だった。彼女が災いを連れてきた伝説の魔女だという事になって、生き残った村人は彼女を捕まえて撲殺した。夕陽は物陰からその現場を見てしまった。
魔女の血を引く夕陽も狙われたが、父親が何とか救出し二人で放浪の末、叡州にたどり着いた。絵の上手な夕陽に絵を習わせるため、父親は昼夜を問わず働きとうとう病に倒れ、亡くなってしまった。
「そして夕陽はここに来た。学院に入った初めての夏の休暇で描いたのがあの絵だ」
語り終えたころには酒瓶が空になっていた。
「夕陽は言っていた、それ以来血を見ると頭が湧くような気分になって我を忘れてしまうのだと。一度は混乱のあまり高い窓から飛び降りてしまったこともあるらしい。幸い、命に別状はなかったようだが」
麗射は無言だった。
話し終えたレドウィンも何も言わず、窓越しに空を眺めている。
青かった空は、オレンジ色を残した紫に変わっていた。
「あんなに衝撃的な絵なら誰だって目を奪われるさ。お前が上手いんじゃない、お前は母親の哀れな姿で皆を釣ったのさ」
「――わからない」
夕陽の背中が小刻みに震えている。
「気が付いたら、描いていた。描き始めるとやめられなかった」
「流石天才だな。絵の前にはなんだってありか。はだけられた母親の服、血塗られた肌、眼窩から飛び出した目、肉親のあんな気持ちの悪い姿をよく衆目の前にさらせるもんだ」
頭を抱えて夕陽はうずくまる。しかし、玲斗の誹りは容赦なく続いた。
「お前は親を辱めたんだよ、あんな汚い場面を見たら皆こんな気持ちだぜ」
玲斗は下劣な声を上げて、吐く真似をした。取り巻きはそれを見て大笑いする。
「や、やめろ」
夕陽は猛然と立ち上がって玲斗に飛びかかろうとした。しかし、その中に厨房から飛び出してきた麗射が割って入った。
「夕陽、こいつらに関わるな」
レドウィンから彼のことを頼まれている麗射は、引き留める仲間を振り切って厨房から飛び出てきたのだ。
「頼む。制作棟に戻ってくれ、夕陽さん」
背中を押して、食堂から出そうとする麗射。このままでは酔った玲斗がなにをするかわからない。
麗射を見ていいカモが飛び込んできたとばかり、玲斗はほくそ笑んだ。皆に一目置かれている天才の夕陽にこれ以上絡むのは流石に外聞が悪いと気が付いたのだろう。麗射なら一度落ちた評判がまだすべて回復しているわけではない。うっ憤を晴らすのにはちょうどいい相手であった。
「焼き印入りの獄奴のくせに、調子にのりやがって。根性を鍛えなおしてやる」
玲斗の合図とともに子分が麗射を押さえつける。優秀賞を取れなかったうっ憤を晴らすように、玲斗は麗射を殴り飛ばした。
「貴族に対する口の利き方を教えてやれ」
羽交い絞めにされた麗射の顔にもう一度鉄拳が見舞われる。武芸のたしなみもあるのだろう、玲斗の鋭い一撃は側面から麗射の顎にめり込んだ。
「逃げろ、夕陽さん、ここから立ち去ってくれ」
四方から、蹴る、殴るの暴行が加えられる。目の前が暗くなる前に、麗射はありったけの声で叫んだ。
夕陽は真っ青な顔で凍り付いたように立ちすくんでいる。
ただ一人を囲んで皆が暴行する。夕陽の頭には押し込めておきたかった記憶が鮮明に蘇り、心はあの瞬間に戻っていた。助ける余裕もなく、夕陽はただガクガクと全身を震わせていた。
誰かが呼んだのか、ばたばたと食堂に駆け込んでくる足音が聞えた。
「やめてください、死にます」
守衛らしき声が聞こえる、しかしその間も麗射の身体は情け容赦なく玲斗の打撃を受け続けていた。玲斗の渾身の一撃で、血しぶきが飛んだ。ぬるい鼻血が麗射の口に流れ込む。
学院をつんざくような夕陽の絶叫が食堂に響いた。
「あなたとの約束を全うできなかった」
ベッドの上で顔に包帯をまかれた麗射はボロボロと涙を流した。
「そんなことはないさ。あのまま玲斗に夕陽が飛びかかって行っても、同じことが起きただろうよ。あの日の玲斗は生贄をさがしていたんだ」
レドウィンは目を伏せた。彼は傍らに座って、麗射の額に置いた水で濡らした布を時々換えてやっていた。
「どう転んでもこうなっていたのさ、すべては天帝の思し召しだよ」
食堂で麗射が殴られて血を流した日から、また夕陽の筆が止まってしまった。部屋からも出ず、数日前からは絶え間ない頭の痛みに苦しんでいるという。
「俺はなんて馬鹿なんだ、俺が出ていかなければ――」
「無理してしゃべるな、鼻の骨が折れているんだ、それに顎の骨にもひびが入っているかもしれんと医者が言っていた」
レドウィンが自責の念を吐露する麗射を制した。
「この件は流石に問題になっていて、玲斗の方にも停学などの何らかの罰則が適応されるらしい。そうなれば、国元にも連絡がいくだろう。親に知れれば流石の奴も面子がたつまい」
「でも、夕陽の心は戻ってこないかもしれない」
麗射のつぶやきにレドウィンは目を伏せた。
「そうだな。きっとあいつも、母親のあんな姿を克明に描いたということで自責の念に駆られていたのかもしれない。でも、お前はあの絵に救いを見つけて祈りをささげていた。それを見てあいつはこの絵を描いてしまった後悔から解放された気持ちになったそうだ。お前の姿に自分への許しを感じたんだろう」
レドウィンは、ガラス窓から見える青い空に目をやった。しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。
「俺は隊商で育って小さい頃から各地の事件や珍しい話をたくさん聞いてきた。その中に燃えるような赤毛の女性の話があった。あの絵を見たとき、俺はあの時聞いた話の女性だと確信したよ」
レドウィンは立ち上がって、碗に駱駝の乳酒を注いだ。独特の酸味のある香りがあたりに広がる。
「以前酒を飲みながら、夕陽に聞いてみたらやはりそうだった。あまりに陰惨な話なので俺の心だけに秘めていようと思ったんだが、お前にも話さねばなるまい。いや、話すのが遅すぎたのかもしれないな」
彼はぐいと酒をあおった。
「夕陽はここからずいぶん遠く、煉州のずっと北東の生まれだ。そこには昔噴火していた火山があって天変地異の多い場所だったらしい。夕陽の母は小さい頃から地震や大雨の前に頭痛がひどくなってそれを感じることができたようだ。彼女の生まれた村は魔女の迷信があって、親からはその能力を伏せるようにきつく言われていた。彼女はその村で嫁に行き夕陽を生んだが,、親子三人の平和な日々は長くは続かなかった――」
レドウィンは何かに憑かれたようにとつとつと話し始めた。
ある日、強い頭痛が夕陽の母を襲った。それは幾日も幾日も続いた。彼女は今までの経験から、自分の頭痛が天候の変化につながっており、今回はただ事じゃないとわかっていた。異変を隠して家族三人で逃げることもできただろうが、しかし彼女は夕陽を見て少しでも多くの子供たちを救いたいと感じた。彼女は家族が止めるのを振り切って、村中に災いが起こるから逃げろと触れ回った。
だが、村人は皆相手にしなかった。
そして、それは突然起こった。彼女が触れ回った数日後、大きな地震が起こり大勢の人々が倒れた家の下敷きになって亡くなった。けが人の救出や、亡くなった人の弔いが済んで一段落した村人の怒りや悲しみが向いたのは、村のために救護にいそしんでいた彼女だった。彼女が災いを連れてきた伝説の魔女だという事になって、生き残った村人は彼女を捕まえて撲殺した。夕陽は物陰からその現場を見てしまった。
魔女の血を引く夕陽も狙われたが、父親が何とか救出し二人で放浪の末、叡州にたどり着いた。絵の上手な夕陽に絵を習わせるため、父親は昼夜を問わず働きとうとう病に倒れ、亡くなってしまった。
「そして夕陽はここに来た。学院に入った初めての夏の休暇で描いたのがあの絵だ」
語り終えたころには酒瓶が空になっていた。
「夕陽は言っていた、それ以来血を見ると頭が湧くような気分になって我を忘れてしまうのだと。一度は混乱のあまり高い窓から飛び降りてしまったこともあるらしい。幸い、命に別状はなかったようだが」
麗射は無言だった。
話し終えたレドウィンも何も言わず、窓越しに空を眺めている。
青かった空は、オレンジ色を残した紫に変わっていた。