第3話 銀嶺の雫
文字数 3,909文字
痛みの残る腹をさすりながら立ち上がった麗射は、しばらくのあいだ漆喰で美しく塗られた美術工芸院の壁に沿ってのろのろと歩き続けた。どこまでも続く汚れ一つない白亜の壁に麗射はため息をつく。漆喰は石灰岩が原料になる。砕いた石灰を焼いたものに水を加えて海藻から採ったふのりなどを混ぜて作るのだが、砂漠の真ん中で使うにはあまりにも高価な材料だった。近くに石灰の産地があるとしても、これほどの距離を延々と漆喰で塗り固めていくには相当な財力が必要である。その贅沢さにため息をつきながら麗射はそびえたつ白亜の壁に沿って歩き続けた。
裏門とおぼしき門の前、建物から突き出たひさしの下に先ほどの城砦に居た門番よりもずっと鋭い目をした兵が二人立っていた。腰に長い剣を下げこの地域の正装と思われる革の上着に身を固めている兵たちは、ふいに現れた麗射の方を睨みつけている。美術工芸院自体がこのオアシスの政庁も兼ねていて独自の軍隊も持っていると聞いていたが、精悍なその姿と隙のない身のこなしは、麗射が今まで見た中でも一番本格的な軍人に見えた。
「あの、入学志願者なんですが」
相手に見えるように推薦状を取り出して、門から足を踏み入れようとした瞬間、麗射の首元にいきなり弓なりの剣が突き付けられた。
「そこで、待て」
横合いから出てきたもう一人の兵が、ひったくるように推薦状を奪った。
「これは昨日で終わっているのだ。明日試験を受ける者の選別は昨日でもう済んでいる」
「で、でも。俺は波州 の波光村 からはるばるやってきたんです。砂漠で道に迷い、命からがら今日ここにたどり着いたんです」
ふん。薄汚れた青年の懇願には目もくれず、兵士は推薦状をぐしゃりと握りしめる。
麗射は自分の心臓が掴まれたような気がして、息を止めた。
「帰れ。規則は規則だ」
「規則、って……、要綱に徐春末日までって」
「今日は休日だ。すなわち期限は昨日までということだ。すでにこれはごみだな」
放り出された推薦状が彼の目の前にぽたりと落ちる。
命より大切にしてきた師匠からの推薦状。これを手に入れるために、彼がどれだけ苦労してきたか。
ぐしゃぐしゃになった推薦状を震える手で広げると、麗射はそっと砂ぼこりを払った。そしていつくしむように大切に懐にしまった。
ちらりと兵士に視線を向けた麗射だが、兵士はもう話は終わったとばかりに口をへの字に曲げたまま微動だにせず前を向いている。
ここで彼に問答しても無駄だと悟った麗射は、とぼとぼとその場を立ち去った。
どこをどう歩いたかよく覚えていない。しらずしらずのうちに水の匂いを察知していたのかもしれない。いきなり建物が消え、目の前に大きな泉が出現した。
その美しさ、尊さと言ったら――。
湧水の揺らめきで底の砂がおどる様子が見えるほど透き通り、水面は目が痛くなるほど真っ青に輝いている。
これが奇跡の泉。遠く叡州 の、雪を頂く高峰からもたらされるという銀嶺の雫 か。
水の匂いを嗅いだ瞬間から麗射の頭は真っ白になり、すべての憂いも吹き飛んだ。
衝撃のあまり忘れていた水への渇望がいきなり彼を支配し、気が付くと彼は泉に廻らされた低い日干し煉瓦の囲いから落ちんばかりに身を乗り出して、息も切らさず湖を吸い上げていた。
ああ、しみる。
水が甘いとはこのことか。旅の途中でいくつかの小さい泉や井戸で水を飲んだが、泥交じりであったり、塩水であったり。いずれにせよ、ここまで鮮烈な真水ではなかった。麗射は脳にまで染み渡るような美味しさにただただ感動し飲み続ける。
やっと息をする欲求のほうが、水への渇望に勝り、彼は泉から顔を上げた。
周りを見回す。
そこでは水桶を抱えたたくさんの人々が思い思いに水を汲みだし、彼らの住処へと持ち帰っていた。一部は水路に流されて灌漑に使われているのだろう、泉の彼方にナツメヤシの林やサトウキビの穂が揺れる畑が見えた。久しぶりの緑が目を潤す。
飲め。再び体が彼に命令し、麗射は泉の水に口を付けた。
胃袋が重くなり、やっと鮮烈な冷たさが全身にいきわたる。
再び顔を上げ周りを見回すと、水を汲む人々がじっと麗射の方をもの言いたげな目つきで眺めているのに気が付いた。
金が要ったのか?
敵意にも似た目の不穏さに麗射は絶句する。その時。
「旅の人、神聖な泉に直接口を付けてはいけない」
涼やかな声とともに、彼の前に銀色のコップが差し出された。
白くて細い指。
顔を上げた麗射の目に黒い頭巾付きのマントで全身を覆った華奢なシルエットが飛び込んできた。
少年? いやマントで隠されているが、肩の部分にほんの僅か丸みがある。少女か。
麗射は緻密な絵を描く絵描きではないが、ここら辺の観察力は流石である。
「砂糖入りのミント水」
「もらってもいいのか」
マントの人影がこくりとうなずく。
「それだけ飲めば、さすがにただの水では味気ないでしょう。旅の者には心を尽くす、これが、このオアシスの流儀――」
麗射の手の中に預けられたコップは表面に露をまとい、熱波とざわめきに包まれたこの土地には不似合いなほど冷たくて静謐だった。
さわやかな甘い香りが麗射の鼻をくすぐる。
コップの中には生き生きとした丸い葉っぱがついたミントの茎が数本入っている。麗射は小さなコップを片手でつかむと、ぐいとあおった。
胃の腑に落ちた冷たい汲みたての水ときび砂糖の甘さが、疲れ切った体に染み渡っていくのを感じる。
「どう? 銀嶺の雫の採りたてミント水の味は。すべての憂いが消えるような味でしょ」
大きな頭巾が影になって顔がほとんど見えないが、その奥でキラリと瞳が悪戯っぽく輝いている。美しいものにはこの上なく敏感な麗射の心臓が大きく音を立てた。
「うまい。惜しむらくはこのように上品な小さいコップではなく、桶でごくごくいきたいところだ」
「馬ではあるまいし」
マントの下からくすくすと笑い声が響く。
やはり少女だ。その声の高さで麗射は確信した。
砂漠の暑い日差しと舞い上がる砂を避けるため、砂漠の人々はマントを被ることが多い。
しかし砂嵐でもないのにここまで顔をすっぽり隠すスタイルは、初めてだった。オアシスは男性に対して女性の比率が少ないと聞く。この娘は身を守るために姿をできるだけ隠しているのだろうか。
笑いが収まった少女が口を開く。
「あなたをここに放置しておいたら、奇跡の泉も明日には干上がっているかもしれない」
「人を伝説の龍のように言わないでくれ」
「旅の人、伝説をよく知っているわね」
「共に砂漠を旅をしていた隊商から聞いた」
昔々、広沙州に青色と銀色の鱗を持つ龍がどこからか舞い降りて来た。喉が渇いていた龍はこのあたりの水をすべて飲みほしてしまった。
銀嶺の泉はその美しさを愛でた天帝専用の飲み水であったが、龍は欲望を押さえられず、最期に残されたこのオアシスの泉まで飲み干そうとした。禁断の泉に手を出した龍は天帝の怒りを買い雷に打たれ砕け散ってしまった。だからこのあたりの砂は砕け散った龍の鱗の色をしているのだ、と。
少女は麗射の傍らに腰を下ろした。
海辺の村にいたときから、麗射はなぜか幼い女の子に人気があった。
少し垂れた穏やかな目つきが無害な雰囲気を醸し出すのか、細かいことにはこだわらないそのおおらかな性格が、女の子たちに伝わるのか。彼の周りにはいつも小さい女の子がうろついていた。
「あなたは隊商の人? お仲間がいないようだけど」
「いや、美術工芸院に入るためにここに来た。隊商と一緒だったのは途中までだ」
「途中まで?」
砂漠を1人で旅するのは自殺行為と知っているのであろう、少女がいぶかしげにたずねる。
「隊商に金を渡してここまで連れてきてもらう予定だったんだが――」
麗射が口ごもる。
「はぐれたの?」
「い、いやーー」
何か面白い話のしっぽをつかんだと感じたのか少女がたたみかける。
「どうして? どうして途中までしか一緒に旅をしなかったの?」
彼女との会話が、奈落の底に突き落とされている麗射の心をほのかに照らしていた。
「愛想をつかされたんだ。珍しい風景や、虫や動物を見るたびにフラフラと隊列から離れて、写生していたもんで。とうとうおいていかれた」
あはははははは。
少女がのけぞって笑った瞬間。
黒い頭巾が肩まで落ちて、そこから濃いはちみつ色の金髪が流れ出した。
優美な円弧を描くひそやかな眉、長いまつげの下に光る青い目。紅玉の唇。
息を飲むほどに、美少女だった。
慌てて、四方を見回すと頭巾を目深にかぶる少女。
「もう、行かないと」
バタバタと駆け出したが、いきなり立ち止まると麗射の方を振り向く。
「私はイラム」
「俺の名は麗射だ」
イラムはにっこり微笑んだ。
「麗射――、私の天龍さん。いつかまた会いましょう」
イラムと名乗った少女は、再び駆け去って行った。
「また、きっとーー」
慌ててその背中に大声で叫ぶ麗射。
聞こえたか、聞こえなかったか。
ふと気が付くと、彼の手の中にはミント水が入っていた銀色のコップが残されていた。
しげしげとそのコップを見た麗射は、眉毛を釣り上げた。
「これは、銀製じゃないか」
簡単に庶民が持てるものではない。相当高価なコップだと気が付いた麗射は、少女が消えた街の方向を呆然と眺め続けた。
裏門とおぼしき門の前、建物から突き出たひさしの下に先ほどの城砦に居た門番よりもずっと鋭い目をした兵が二人立っていた。腰に長い剣を下げこの地域の正装と思われる革の上着に身を固めている兵たちは、ふいに現れた麗射の方を睨みつけている。美術工芸院自体がこのオアシスの政庁も兼ねていて独自の軍隊も持っていると聞いていたが、精悍なその姿と隙のない身のこなしは、麗射が今まで見た中でも一番本格的な軍人に見えた。
「あの、入学志願者なんですが」
相手に見えるように推薦状を取り出して、門から足を踏み入れようとした瞬間、麗射の首元にいきなり弓なりの剣が突き付けられた。
「そこで、待て」
横合いから出てきたもう一人の兵が、ひったくるように推薦状を奪った。
「これは昨日で終わっているのだ。明日試験を受ける者の選別は昨日でもう済んでいる」
「で、でも。俺は
ふん。薄汚れた青年の懇願には目もくれず、兵士は推薦状をぐしゃりと握りしめる。
麗射は自分の心臓が掴まれたような気がして、息を止めた。
「帰れ。規則は規則だ」
「規則、って……、要綱に徐春末日までって」
「今日は休日だ。すなわち期限は昨日までということだ。すでにこれはごみだな」
放り出された推薦状が彼の目の前にぽたりと落ちる。
命より大切にしてきた師匠からの推薦状。これを手に入れるために、彼がどれだけ苦労してきたか。
ぐしゃぐしゃになった推薦状を震える手で広げると、麗射はそっと砂ぼこりを払った。そしていつくしむように大切に懐にしまった。
ちらりと兵士に視線を向けた麗射だが、兵士はもう話は終わったとばかりに口をへの字に曲げたまま微動だにせず前を向いている。
ここで彼に問答しても無駄だと悟った麗射は、とぼとぼとその場を立ち去った。
どこをどう歩いたかよく覚えていない。しらずしらずのうちに水の匂いを察知していたのかもしれない。いきなり建物が消え、目の前に大きな泉が出現した。
その美しさ、尊さと言ったら――。
湧水の揺らめきで底の砂がおどる様子が見えるほど透き通り、水面は目が痛くなるほど真っ青に輝いている。
これが奇跡の泉。遠く
水の匂いを嗅いだ瞬間から麗射の頭は真っ白になり、すべての憂いも吹き飛んだ。
衝撃のあまり忘れていた水への渇望がいきなり彼を支配し、気が付くと彼は泉に廻らされた低い日干し煉瓦の囲いから落ちんばかりに身を乗り出して、息も切らさず湖を吸い上げていた。
ああ、しみる。
水が甘いとはこのことか。旅の途中でいくつかの小さい泉や井戸で水を飲んだが、泥交じりであったり、塩水であったり。いずれにせよ、ここまで鮮烈な真水ではなかった。麗射は脳にまで染み渡るような美味しさにただただ感動し飲み続ける。
やっと息をする欲求のほうが、水への渇望に勝り、彼は泉から顔を上げた。
周りを見回す。
そこでは水桶を抱えたたくさんの人々が思い思いに水を汲みだし、彼らの住処へと持ち帰っていた。一部は水路に流されて灌漑に使われているのだろう、泉の彼方にナツメヤシの林やサトウキビの穂が揺れる畑が見えた。久しぶりの緑が目を潤す。
飲め。再び体が彼に命令し、麗射は泉の水に口を付けた。
胃袋が重くなり、やっと鮮烈な冷たさが全身にいきわたる。
再び顔を上げ周りを見回すと、水を汲む人々がじっと麗射の方をもの言いたげな目つきで眺めているのに気が付いた。
金が要ったのか?
敵意にも似た目の不穏さに麗射は絶句する。その時。
「旅の人、神聖な泉に直接口を付けてはいけない」
涼やかな声とともに、彼の前に銀色のコップが差し出された。
白くて細い指。
顔を上げた麗射の目に黒い頭巾付きのマントで全身を覆った華奢なシルエットが飛び込んできた。
少年? いやマントで隠されているが、肩の部分にほんの僅か丸みがある。少女か。
麗射は緻密な絵を描く絵描きではないが、ここら辺の観察力は流石である。
「砂糖入りのミント水」
「もらってもいいのか」
マントの人影がこくりとうなずく。
「それだけ飲めば、さすがにただの水では味気ないでしょう。旅の者には心を尽くす、これが、このオアシスの流儀――」
麗射の手の中に預けられたコップは表面に露をまとい、熱波とざわめきに包まれたこの土地には不似合いなほど冷たくて静謐だった。
さわやかな甘い香りが麗射の鼻をくすぐる。
コップの中には生き生きとした丸い葉っぱがついたミントの茎が数本入っている。麗射は小さなコップを片手でつかむと、ぐいとあおった。
胃の腑に落ちた冷たい汲みたての水ときび砂糖の甘さが、疲れ切った体に染み渡っていくのを感じる。
「どう? 銀嶺の雫の採りたてミント水の味は。すべての憂いが消えるような味でしょ」
大きな頭巾が影になって顔がほとんど見えないが、その奥でキラリと瞳が悪戯っぽく輝いている。美しいものにはこの上なく敏感な麗射の心臓が大きく音を立てた。
「うまい。惜しむらくはこのように上品な小さいコップではなく、桶でごくごくいきたいところだ」
「馬ではあるまいし」
マントの下からくすくすと笑い声が響く。
やはり少女だ。その声の高さで麗射は確信した。
砂漠の暑い日差しと舞い上がる砂を避けるため、砂漠の人々はマントを被ることが多い。
しかし砂嵐でもないのにここまで顔をすっぽり隠すスタイルは、初めてだった。オアシスは男性に対して女性の比率が少ないと聞く。この娘は身を守るために姿をできるだけ隠しているのだろうか。
笑いが収まった少女が口を開く。
「あなたをここに放置しておいたら、奇跡の泉も明日には干上がっているかもしれない」
「人を伝説の龍のように言わないでくれ」
「旅の人、伝説をよく知っているわね」
「共に砂漠を旅をしていた隊商から聞いた」
昔々、広沙州に青色と銀色の鱗を持つ龍がどこからか舞い降りて来た。喉が渇いていた龍はこのあたりの水をすべて飲みほしてしまった。
銀嶺の泉はその美しさを愛でた天帝専用の飲み水であったが、龍は欲望を押さえられず、最期に残されたこのオアシスの泉まで飲み干そうとした。禁断の泉に手を出した龍は天帝の怒りを買い雷に打たれ砕け散ってしまった。だからこのあたりの砂は砕け散った龍の鱗の色をしているのだ、と。
少女は麗射の傍らに腰を下ろした。
海辺の村にいたときから、麗射はなぜか幼い女の子に人気があった。
少し垂れた穏やかな目つきが無害な雰囲気を醸し出すのか、細かいことにはこだわらないそのおおらかな性格が、女の子たちに伝わるのか。彼の周りにはいつも小さい女の子がうろついていた。
「あなたは隊商の人? お仲間がいないようだけど」
「いや、美術工芸院に入るためにここに来た。隊商と一緒だったのは途中までだ」
「途中まで?」
砂漠を1人で旅するのは自殺行為と知っているのであろう、少女がいぶかしげにたずねる。
「隊商に金を渡してここまで連れてきてもらう予定だったんだが――」
麗射が口ごもる。
「はぐれたの?」
「い、いやーー」
何か面白い話のしっぽをつかんだと感じたのか少女がたたみかける。
「どうして? どうして途中までしか一緒に旅をしなかったの?」
彼女との会話が、奈落の底に突き落とされている麗射の心をほのかに照らしていた。
「愛想をつかされたんだ。珍しい風景や、虫や動物を見るたびにフラフラと隊列から離れて、写生していたもんで。とうとうおいていかれた」
あはははははは。
少女がのけぞって笑った瞬間。
黒い頭巾が肩まで落ちて、そこから濃いはちみつ色の金髪が流れ出した。
優美な円弧を描くひそやかな眉、長いまつげの下に光る青い目。紅玉の唇。
息を飲むほどに、美少女だった。
慌てて、四方を見回すと頭巾を目深にかぶる少女。
「もう、行かないと」
バタバタと駆け出したが、いきなり立ち止まると麗射の方を振り向く。
「私はイラム」
「俺の名は麗射だ」
イラムはにっこり微笑んだ。
「麗射――、私の天龍さん。いつかまた会いましょう」
イラムと名乗った少女は、再び駆け去って行った。
「また、きっとーー」
慌ててその背中に大声で叫ぶ麗射。
聞こえたか、聞こえなかったか。
ふと気が付くと、彼の手の中にはミント水が入っていた銀色のコップが残されていた。
しげしげとそのコップを見た麗射は、眉毛を釣り上げた。
「これは、銀製じゃないか」
簡単に庶民が持てるものではない。相当高価なコップだと気が付いた麗射は、少女が消えた街の方向を呆然と眺め続けた。