第121話 言伝
文字数 2,762文字
オアシスの防衛に散らばっていた人々はすべて美術工芸院に帰還している。今後はここに集結して、相手を牽制しながら撤退していくのだ。
彼らは唇を噛みしめながら、3階のベランダから敵の攻撃によって音を立てて崩れていく高い壁を見ていた。
「清那、牙蘭は見当たらないぞ」
真珠の塔から音も無く降りてきた走耳の声が響く。
清那はそっとうなずいた。
薄い唇がかすかに笑み、紫の瞳の奥に安堵の光が浮かぶ。
「ありがとうございます。剴斗殿」
あのとき、牙蘭からも軽装で現れた清那の胸に矢が向かうのが見えている。あの速度、そして角度から清那が避けられないこともわかったはず。
清那のために命を奪いに来た、とは言えあのまっすぐな男が主殺しの重圧に耐えられるはずが無かった。このままであれば、清那の死を思い憔悴し気が違うか、自ら命を捨てるかのいずれかであろう。心の中の慚愧 を咀嚼 し分解して透明な感情に変えていくには、戦から離れて幾ばくかの静謐な時間を過ごすことが必要になるはずだった。
牙蘭の精神が壊れてしまうのを恐れて、きっと剴斗殿がここから彼を遠ざけてくれたのだろう。現実から離れて、彼が家族の元で己の新たな根っこを思い出せるように。安易に自らの命を絶たぬように――と。
玲斗とは雰囲気の全く違う男臭い武人の姿を思い、清那は頭を垂れた。
同時に、清那の胸にチクリと何かが刺さる。剴斗殿の温情あふれる措置で、牙蘭という知将はこの戦局から姿を消した。すなわち、清那の手を読む者は煉州軍にはいなくなったということである。
清那は、自分の心の奥底に居る冷徹な策士がふと笑みを浮かべるのを感じた。牙蘭を戦線離脱させるためにも、彼は牙蘭の矢に身をさらさねばならなかったのである。
「清那様」
作戦会議室に戻った清那の前に現れたのは玲斗だった。
「今から配置に着きます。ご挨拶に参りました」
上半身を煉州武人が使う鉄製の甲冑に身を固めた彼はぎこちない動作で清那の前に立つと、左手を胸に当て深々と頭を下げる丁寧な礼を行った。清那も同様に礼を返す。
しかし、清那が顔を上げたとき、玲斗の視線は周囲をさまよっていた。
「どうしました?」清那の問いに、玲斗はぎくりと首の動きを止める。
だが、しばらくして意を決したように口を開いた。
「麗射が見当たりませんが」
「すでに皆を連れて、食堂に向かいました」
「そうですか」玲斗は少し安堵した表情を浮かべる。「ならば――」
彼は背中を向けて会議室から出ようとした。
「玲斗」清那が呼びかける。「麗射に何か言いたいことがあったのでは無いですか?」
金髪の青年の足が止る。
「清那様。突き当たりの祭壇の絵、あれと同じ筆致で絵を描く男が叡州にいるという噂を聞きました。燃えるような赤毛と白髪の入り混じった、ひょろ長い身体の絵師……」
清那が息をのむ。
「ゆ、夕陽ですか?」
「さあ、わかりません。夏頃、そういう噂を小耳に挟んだだけなのです。この戦いで今生の別れとなるやも知れない腐れ縁のお節介焼きに、どうか伝えてやってください」
振り向きもせずに言うと、玲斗は足早に出て行った。
「ノズエ、コウブ、今の言葉を麗射に伝えていただけますか。そして、あなた方もそのままここから逃げてください」
清那は自分の後ろに立つ耳の大きい黒装束の二人組を振り返った。彼らは地下の特別保管庫を守り、不審者は情け容赦なく命を奪う『無言の闇人 』と恐れられる番人であった。清那の言葉に、二人組が不思議そうに清那を見る。
「長きにわたり、あの保管庫を守ってくださってありがとうございました。その任も今日で終わりです」
両側の腰に刀を下げた、小柄な二人組は顔を見合わせる。そして、清那の方を見ると首を横に振った。彼らは言葉を話せるのだが、寡黙を尊ぶ祖先からの教えを守っているのである。
「誇り高き古 の一族であるあなた方は、暗闇の中でこそその真価を発揮します。今、この薄暗い部屋の中でもその目はまぶしさに悲鳴を上げている事でしょう。あなた方がこの美術工芸院を去らないのは、遙か祖先からの相伝と存じています。でも、もう時代は変わったのです。過去に命を捧げる必要はありません。命をかけるに値するものは、命しかないのです」
清那はそっと微笑んだ。
「あなた方の気持ちはわかります。宝を守りとおす、その行為こそがあなたたちの存在意義だっったのでしょう。でも、ここで死ぬ必要はありません。またきっとどこかで新しい任があなた方を待っています」
ノズエとコウブはしばらくそこに立っていたが、やがて彼に一礼をして会議室を出て行った。
3階のベランダに居た人々も次々に清那に頭を下げて去って行く。
走耳はいつの間にか姿を消していた。
会議室に居るのは、清那一人。
彼は一人真珠の塔の先端に向かって階段を上がって行った。
「ここからは、もう作戦の中枢は必要ありません。各自の判断と運に身を任せて、それぞれが生き抜いていくしか……」
いきなり眼前が開け、全周窓からオアシスの景色が広がった。
もう、彼が見ることは無いだろう。真珠の塔、最上階からの景色。
珠林 を追われてたどり着いた、砂漠の果てのオアシス。
陽を受けて輝く色とりどりの屋根。
鮮烈な銀嶺の恵みが湧き出す青い泉。
唄うかのように風に揺れる、目にしみる緑の木々。
無機質な銀と青の砂漠の中に、忽然と現れた煌めく宝石。
ここは、初めて何も隠すこと無く自分をさらけ出せた場所。
仲間――と。
景色がこみ上げた涙で押し流され、線となって崩れていく。
歯を食いしばり、清那は袖で涙を払う。
「感傷はここまでだ。私は私の成すべき事をする」
清那もまた、弓を握りしめて彼の持ち場に向かった。
水音の道。ランプを掲げて走るのは奇併、そして続くのは副官縁筆と足自慢、力自慢の兵士達。
「昨日美蓮達が調べたときには、問題なかったらしい」
彼らは先遣隊 として、全員が脱出する前に水音の道の出口を最終確認しに来たのである。食堂に集まった人々は、彼らの確認が終わり次第こちらに来ることになっている。
「よし、そっと開けてみてくれ。まずは隙間から敵軍が居ないかどうか確認する」
兵士達4人がかりでそっと石造りの思い蓋を持ち上げる。
暗い空間の中、男達のうめきが反響する。彼らの腕の肉が盛り上がり、ブルブルと震える。
「う、動きません」
「何だって? おい」
縁筆に目で合図すると、奇併も蓋を持ち上げるのに手を貸す。
「き、奇併様」
縁筆の震え声。
差し出された手には、ぬらりと光るものがべったりと付いていた。
ランプの光の下、茶色く照らし出される液体。
金気 を含んだ、禍々しい匂い。
天井の蓋がかすかにずれた事によって、その隙間からどろりと何かが落ちてくる。
「血……だ」
奇併の顔が強ばった。
彼らは唇を噛みしめながら、3階のベランダから敵の攻撃によって音を立てて崩れていく高い壁を見ていた。
「清那、牙蘭は見当たらないぞ」
真珠の塔から音も無く降りてきた走耳の声が響く。
清那はそっとうなずいた。
薄い唇がかすかに笑み、紫の瞳の奥に安堵の光が浮かぶ。
「ありがとうございます。剴斗殿」
あのとき、牙蘭からも軽装で現れた清那の胸に矢が向かうのが見えている。あの速度、そして角度から清那が避けられないこともわかったはず。
清那のために命を奪いに来た、とは言えあのまっすぐな男が主殺しの重圧に耐えられるはずが無かった。このままであれば、清那の死を思い憔悴し気が違うか、自ら命を捨てるかのいずれかであろう。心の中の
牙蘭の精神が壊れてしまうのを恐れて、きっと剴斗殿がここから彼を遠ざけてくれたのだろう。現実から離れて、彼が家族の元で己の新たな根っこを思い出せるように。安易に自らの命を絶たぬように――と。
玲斗とは雰囲気の全く違う男臭い武人の姿を思い、清那は頭を垂れた。
同時に、清那の胸にチクリと何かが刺さる。剴斗殿の温情あふれる措置で、牙蘭という知将はこの戦局から姿を消した。すなわち、清那の手を読む者は煉州軍にはいなくなったということである。
清那は、自分の心の奥底に居る冷徹な策士がふと笑みを浮かべるのを感じた。牙蘭を戦線離脱させるためにも、彼は牙蘭の矢に身をさらさねばならなかったのである。
「清那様」
作戦会議室に戻った清那の前に現れたのは玲斗だった。
「今から配置に着きます。ご挨拶に参りました」
上半身を煉州武人が使う鉄製の甲冑に身を固めた彼はぎこちない動作で清那の前に立つと、左手を胸に当て深々と頭を下げる丁寧な礼を行った。清那も同様に礼を返す。
しかし、清那が顔を上げたとき、玲斗の視線は周囲をさまよっていた。
「どうしました?」清那の問いに、玲斗はぎくりと首の動きを止める。
だが、しばらくして意を決したように口を開いた。
「麗射が見当たりませんが」
「すでに皆を連れて、食堂に向かいました」
「そうですか」玲斗は少し安堵した表情を浮かべる。「ならば――」
彼は背中を向けて会議室から出ようとした。
「玲斗」清那が呼びかける。「麗射に何か言いたいことがあったのでは無いですか?」
金髪の青年の足が止る。
「清那様。突き当たりの祭壇の絵、あれと同じ筆致で絵を描く男が叡州にいるという噂を聞きました。燃えるような赤毛と白髪の入り混じった、ひょろ長い身体の絵師……」
清那が息をのむ。
「ゆ、夕陽ですか?」
「さあ、わかりません。夏頃、そういう噂を小耳に挟んだだけなのです。この戦いで今生の別れとなるやも知れない腐れ縁のお節介焼きに、どうか伝えてやってください」
振り向きもせずに言うと、玲斗は足早に出て行った。
「ノズエ、コウブ、今の言葉を麗射に伝えていただけますか。そして、あなた方もそのままここから逃げてください」
清那は自分の後ろに立つ耳の大きい黒装束の二人組を振り返った。彼らは地下の特別保管庫を守り、不審者は情け容赦なく命を奪う『無言の
「長きにわたり、あの保管庫を守ってくださってありがとうございました。その任も今日で終わりです」
両側の腰に刀を下げた、小柄な二人組は顔を見合わせる。そして、清那の方を見ると首を横に振った。彼らは言葉を話せるのだが、寡黙を尊ぶ祖先からの教えを守っているのである。
「誇り高き
清那はそっと微笑んだ。
「あなた方の気持ちはわかります。宝を守りとおす、その行為こそがあなたたちの存在意義だっったのでしょう。でも、ここで死ぬ必要はありません。またきっとどこかで新しい任があなた方を待っています」
ノズエとコウブはしばらくそこに立っていたが、やがて彼に一礼をして会議室を出て行った。
3階のベランダに居た人々も次々に清那に頭を下げて去って行く。
走耳はいつの間にか姿を消していた。
会議室に居るのは、清那一人。
彼は一人真珠の塔の先端に向かって階段を上がって行った。
「ここからは、もう作戦の中枢は必要ありません。各自の判断と運に身を任せて、それぞれが生き抜いていくしか……」
いきなり眼前が開け、全周窓からオアシスの景色が広がった。
もう、彼が見ることは無いだろう。真珠の塔、最上階からの景色。
陽を受けて輝く色とりどりの屋根。
鮮烈な銀嶺の恵みが湧き出す青い泉。
唄うかのように風に揺れる、目にしみる緑の木々。
無機質な銀と青の砂漠の中に、忽然と現れた煌めく宝石。
ここは、初めて何も隠すこと無く自分をさらけ出せた場所。
仲間――と。
景色がこみ上げた涙で押し流され、線となって崩れていく。
歯を食いしばり、清那は袖で涙を払う。
「感傷はここまでだ。私は私の成すべき事をする」
清那もまた、弓を握りしめて彼の持ち場に向かった。
水音の道。ランプを掲げて走るのは奇併、そして続くのは副官縁筆と足自慢、力自慢の兵士達。
「昨日美蓮達が調べたときには、問題なかったらしい」
彼らは
「よし、そっと開けてみてくれ。まずは隙間から敵軍が居ないかどうか確認する」
兵士達4人がかりでそっと石造りの思い蓋を持ち上げる。
暗い空間の中、男達のうめきが反響する。彼らの腕の肉が盛り上がり、ブルブルと震える。
「う、動きません」
「何だって? おい」
縁筆に目で合図すると、奇併も蓋を持ち上げるのに手を貸す。
「き、奇併様」
縁筆の震え声。
差し出された手には、ぬらりと光るものがべったりと付いていた。
ランプの光の下、茶色く照らし出される液体。
天井の蓋がかすかにずれた事によって、その隙間からどろりと何かが落ちてくる。
「血……だ」
奇併の顔が強ばった。