第81話 拒絶
文字数 3,633文字
「麗射、麗射っ」
叫ぶ清那の声が麗射の意識をこの世に引きずり戻した。
うっすら開けた瞳に、周りからは歓声があがる。
頭を巻いた包帯は、まだ傷口から染み出る液体で茶色く染まっていたがそれでも数日前よりはかなり汚染が軽減していた。
「頭の傷は血が多く出るが、わりと腐りにくいんじゃ。傷の方は血さえ止まれば心配はいらなかったんだが」
牙蘭を診てくれた剴斗 お抱えの侍医が水桶で手を洗いながら言う。
「問題は鞭自体にかなり重量があった事だ。その打撃により頭に強い衝撃を受け、意識が戻らなかったようじゃな。頭部のひどい打撲では記憶がなくなったり、以前より頭の回りが悪くなったりする者が居るが……」
侍医はそこで言葉を止めて、麗射の様子を観察する。
「ここは?」
ゆっくりだが麗射は清那に視線を合わせて、口を開く。
「玉酔だよ。剴斗殿が特別に宿を借り上げてくださったんだ。剴斗殿と玲斗は反乱軍の報告をするために、先に王都に帰った」
清那の手が麗射の手を握る。麗射の眉毛がかすかに動いた。
「冷たいな……」
「あなたが熱いんです、麗射。まだ微熱が続いているのですから」
麗射は不思議そうに、目を潤ませて自分を見つめる公子を見返した。
「ずっと意識が戻らずに憂慮しておりましたが、お気がつかれて何より」
低いが、張りのある声。麗射はゆっくりと顔を向ける。
万事控えめだが実は当代きっての武芸者である男が、透き通った紅に近い茶色の瞳に憂いを浮かべて傍らに控えていた。
「良かった、牙蘭。生きていてくれて」
玲斗をかばって、霧亜と対峙した場面から麗射の意識は無かった。盟友の無事を確認できて、麗射の顔が緩む。
「まあ、頭の方も大丈夫なようじゃな」侍医はほっと安堵のため息をついた。
「そうだ走耳。走耳は無事なのか」
麗射の声に、皆から押し出されるようにして人垣の後ろにいた走耳が枕元に顔をのぞかせる。
「危険な目に遭わせてすまなかった。手……どうしたんだ、大丈夫か?」
彼の両手には包帯が巻かれている。走耳はおくびにも出さなかったが、それは清那救出のために行った崖登りがどれだけ過酷だったかを物語っていた。
「ああ。お前に比べたら、かすり傷だぜ」
それだけ言うと、存在感の無い青年はすっと人垣の後ろに消えていった。
ふと、麗射は目を大きく開け、回りを見回す。そしていきなり体を起こそうとした。慌てて押しとどめようとする周りの者。しかし皆が手を出すまでも無く、麗射はうめいて再び寝台の上に頭を埋めた。
清那には麗射が何を探しているのかわかっていた。
「イラムは居ない。父親の元に帰ったよ」
「そうだったな」
天井を見ながら麗射はそっとうなずいた。
別れ際、彼女の手の中に小石を握らせてきた。彼女の顔を描いた石。下手くそだが、ありったけの思いだけは詰まった石。
「いつか、また会えるよ」
清那の声が遠くに聞こえる。再び麗射の意識は白い霧の中に吸い込まれて行った。
開けた窓から吹き込んでいた熱風が無くなってから久しい。風の後味とでもいうのだろうか、吹き過ぎる風に潜む冷たさを感じ、麗射は空を見上げた。
突き抜けるように青い空に浮かぶ陽が低くなっている。
「もう冬だな」
体調が回復して王都の玲斗邸に戻ってからしばらく経つ。真珠の都では、美術工芸院の後期が始まっているだろう。夕陽さんは元気になっただろうか。美蓮や瑠貝、レドウィンはどうしているだろうか。麗射は遙か彼方の仲間達に思いを馳せる。
「麗射様、ずいぶん長く外においでですね。病み上がりにご無理は禁物ですよ」
煌露が絹の肩布を持って近づいてきた。耳に通した金の細い輪が陽にあたり、浅黒い肌に反射光がきらめく。最近凄絶とでも言いたくなるほど色香を増した煌露にしばし見とれて、差し出される肩布を受け取るのも忘れて麗射は立ちすくんだ。
「どうぞ」
くすりと微笑むと、煌露はそっと青年の肩にふわりと布をかけた。わずかな手の動きにもかかわらず、ひき締まってはいるが豊満な胸が大きく揺れて麗射は慌てて目をそらす。
香の匂いはかすかなのに、鼻腔から熟した果実を嗅いだような陶酔を感じて麗射は礼を言うのも忘れて横に傅く煌露を見た。
「何か?」
女性は戸惑うように首をかしげた。
「い、いや」
この変貌の理由はわかっている。
ふと煌露の目が泳ぐ。庭に上半身をむき出しにした牙蘭が棒を持って出てきた。後から出てきた銀茶色の短い髪の騎剛も上半身裸で棒を持っている。
あの手合わせ以来、二人は好敵手として毎日武術の研鑽をともに行う仲となっていた。
煌露の目は棒を打ち合う二人の姿をじっと追っている。まるで麗射の事を忘れてしまったかのように目を奪われている彼女の姿を見て、麗射は苦笑する。
「煌露、彼らに飲み物と汗を拭く布を用意してあげてくれ。あの二人は武芸に夢中でそんな用意など頭の隅にもないだろうからね」
麗射の真意がわかったのだろうか、煌露は顔を染めて頭をさげると飲み物の準備をするためそそくさと館に入っていった。
「煌露、きれいになりましたね」
いつのまにか麗射の傍らに清那が立っている。
「ああ、いいことでもあるんだろう」
麗射はニヤニヤしながら、煌露の差し入れに破顔する牙蘭を眺める。
そんな麗射を見ながら、いつになく言い出しにくそうにして清那が口を開いた。
「実は、一つ相談があるのです」
「相談?」
ええ。と頷いたものの、次の句を告げずに清那はうつむいたまま黙っている。あまりに沈黙が長いのでしびれを切らした麗射が助け船を出した。
「どうしたんだ」
「あなたには助けられてばかりで、こんなお願いをするのは申し訳ないのですが――」
清那はまた口ごもる。
「清那、いつも言っているけど、俺は君を助けることができなかった。むしろ野盗から救われたのは俺の方だし、俺はあそこに行っただけで君を救う何の力にもなれなかった。君を助けたのはイラムや走耳や牙蘭だ」
何を言っているのかとばかり、清那の目が丸くなる。
「イラムも、そして走耳も、最後の弓術隊の見逃しも、すべてあなたの人徳のなせる技です。あなたを慕った人たちが、あなたのために私を救出してくれたんです。あなたがいなければ私は一生あの暗闇の中から出ることができませんでした」
人徳、といわれても麗射に思い当たる節は無い。いつも彼は自分自身の信念のままに生きているだけだ。清那の感謝をどう受け止めて良いか、困惑の表情を浮かべて彼は清那を見返した。
「で、相談とは?」
「実は走耳の事なんですが」
手の傷が癒えるまで、ということで彼はまだこの館にとどまっていた。名目上、清那の使用人として館に逗留を許されサボテン鳥の世話をまかされている。
麗射の横の部屋を与えられた彼は居るのか居ないのかの生活を送っているが、時折麗射と傾ける杯は彼にとっても楽しいようで、館から全く姿を消すことは無かった。
しかし、ぎこちなかった走耳の左中指の動きも改善しており、麗射は彼との別れも遠くない予感がしている。
「あなたの頼みなら、引き受けてくれると思うのです」
清那の目にただならぬ決意が浮かんでいた。
数日後の夜。
清那が開いた宴席には、麗射と牙蘭、そして珍しく走耳も呼ばれていた。
清那の指図か、珍しく叡州 風の食事が供され、皆はその趣向を凝らした料理に舌鼓をうった。
ひとしきり談笑した後に食後のお茶と乾果 が運ばれてきた。それを合図にか、清那がおもむろに口を開いた。
「麗射の体調も安定した。そろそろ美術工芸院に帰る支度を始めようと思う」
皆を見回す清那。彼の瞳は左横に座る牙蘭を見て、止まる。
忠実な家臣は、清那が命じれば今からでも支度を始めかねない勢いで主人を見つめている。清那はその一途な瞳から逃げるように視線をずらすと、口を開いた。
「牙蘭、申し訳ないがお前はここで私の警備の任を解く」
はっ? 牙蘭の顔が蒼白になる。
「清那様、私に何か落ち度が」
「落ち度は無いが……」
長年寝食を伴にした忠臣に対しての言葉を選ぶように、清那はゆっくりと言葉を続けた。
「お前は私が雇い入れた、いわば私の私兵だ。私が解任すれば、お前に一切の義務は無くなる」
突然の宣告に、言葉を忘れたかのように牙蘭は唇を震わせるばかり。
「私に何か改善点があれば、何なりとお叱りください。あなた様にお仕えするのが私の生きる意味でございます。あなた様のためなら私は喜んで命を捧げます。どうして、解任されるのかお教えください」
「重いのだ、お前のその忠義が」
延々と繰り返される牙蘭の抗議に、とうとう顔を背けて吐き捨てるように清那が告げた。
「お前がいると、鬱陶 しい。だから、離れたい」
清那の拒絶に愕然とする牙蘭だが、必死に食い下がる。
「しかし、私が居なくなれば、あなた様の御身はだれが警備を――」
「走耳だ」
赤く血走った目で牙蘭が走耳を見る。だが、当の本人は修羅場の卓の雰囲気など知らぬふりで干した葡萄を口に放り込んでいた。
叫ぶ清那の声が麗射の意識をこの世に引きずり戻した。
うっすら開けた瞳に、周りからは歓声があがる。
頭を巻いた包帯は、まだ傷口から染み出る液体で茶色く染まっていたがそれでも数日前よりはかなり汚染が軽減していた。
「頭の傷は血が多く出るが、わりと腐りにくいんじゃ。傷の方は血さえ止まれば心配はいらなかったんだが」
牙蘭を診てくれた
「問題は鞭自体にかなり重量があった事だ。その打撃により頭に強い衝撃を受け、意識が戻らなかったようじゃな。頭部のひどい打撲では記憶がなくなったり、以前より頭の回りが悪くなったりする者が居るが……」
侍医はそこで言葉を止めて、麗射の様子を観察する。
「ここは?」
ゆっくりだが麗射は清那に視線を合わせて、口を開く。
「玉酔だよ。剴斗殿が特別に宿を借り上げてくださったんだ。剴斗殿と玲斗は反乱軍の報告をするために、先に王都に帰った」
清那の手が麗射の手を握る。麗射の眉毛がかすかに動いた。
「冷たいな……」
「あなたが熱いんです、麗射。まだ微熱が続いているのですから」
麗射は不思議そうに、目を潤ませて自分を見つめる公子を見返した。
「ずっと意識が戻らずに憂慮しておりましたが、お気がつかれて何より」
低いが、張りのある声。麗射はゆっくりと顔を向ける。
万事控えめだが実は当代きっての武芸者である男が、透き通った紅に近い茶色の瞳に憂いを浮かべて傍らに控えていた。
「良かった、牙蘭。生きていてくれて」
玲斗をかばって、霧亜と対峙した場面から麗射の意識は無かった。盟友の無事を確認できて、麗射の顔が緩む。
「まあ、頭の方も大丈夫なようじゃな」侍医はほっと安堵のため息をついた。
「そうだ走耳。走耳は無事なのか」
麗射の声に、皆から押し出されるようにして人垣の後ろにいた走耳が枕元に顔をのぞかせる。
「危険な目に遭わせてすまなかった。手……どうしたんだ、大丈夫か?」
彼の両手には包帯が巻かれている。走耳はおくびにも出さなかったが、それは清那救出のために行った崖登りがどれだけ過酷だったかを物語っていた。
「ああ。お前に比べたら、かすり傷だぜ」
それだけ言うと、存在感の無い青年はすっと人垣の後ろに消えていった。
ふと、麗射は目を大きく開け、回りを見回す。そしていきなり体を起こそうとした。慌てて押しとどめようとする周りの者。しかし皆が手を出すまでも無く、麗射はうめいて再び寝台の上に頭を埋めた。
清那には麗射が何を探しているのかわかっていた。
「イラムは居ない。父親の元に帰ったよ」
「そうだったな」
天井を見ながら麗射はそっとうなずいた。
別れ際、彼女の手の中に小石を握らせてきた。彼女の顔を描いた石。下手くそだが、ありったけの思いだけは詰まった石。
「いつか、また会えるよ」
清那の声が遠くに聞こえる。再び麗射の意識は白い霧の中に吸い込まれて行った。
開けた窓から吹き込んでいた熱風が無くなってから久しい。風の後味とでもいうのだろうか、吹き過ぎる風に潜む冷たさを感じ、麗射は空を見上げた。
突き抜けるように青い空に浮かぶ陽が低くなっている。
「もう冬だな」
体調が回復して王都の玲斗邸に戻ってからしばらく経つ。真珠の都では、美術工芸院の後期が始まっているだろう。夕陽さんは元気になっただろうか。美蓮や瑠貝、レドウィンはどうしているだろうか。麗射は遙か彼方の仲間達に思いを馳せる。
「麗射様、ずいぶん長く外においでですね。病み上がりにご無理は禁物ですよ」
煌露が絹の肩布を持って近づいてきた。耳に通した金の細い輪が陽にあたり、浅黒い肌に反射光がきらめく。最近凄絶とでも言いたくなるほど色香を増した煌露にしばし見とれて、差し出される肩布を受け取るのも忘れて麗射は立ちすくんだ。
「どうぞ」
くすりと微笑むと、煌露はそっと青年の肩にふわりと布をかけた。わずかな手の動きにもかかわらず、ひき締まってはいるが豊満な胸が大きく揺れて麗射は慌てて目をそらす。
香の匂いはかすかなのに、鼻腔から熟した果実を嗅いだような陶酔を感じて麗射は礼を言うのも忘れて横に傅く煌露を見た。
「何か?」
女性は戸惑うように首をかしげた。
「い、いや」
この変貌の理由はわかっている。
ふと煌露の目が泳ぐ。庭に上半身をむき出しにした牙蘭が棒を持って出てきた。後から出てきた銀茶色の短い髪の騎剛も上半身裸で棒を持っている。
あの手合わせ以来、二人は好敵手として毎日武術の研鑽をともに行う仲となっていた。
煌露の目は棒を打ち合う二人の姿をじっと追っている。まるで麗射の事を忘れてしまったかのように目を奪われている彼女の姿を見て、麗射は苦笑する。
「煌露、彼らに飲み物と汗を拭く布を用意してあげてくれ。あの二人は武芸に夢中でそんな用意など頭の隅にもないだろうからね」
麗射の真意がわかったのだろうか、煌露は顔を染めて頭をさげると飲み物の準備をするためそそくさと館に入っていった。
「煌露、きれいになりましたね」
いつのまにか麗射の傍らに清那が立っている。
「ああ、いいことでもあるんだろう」
麗射はニヤニヤしながら、煌露の差し入れに破顔する牙蘭を眺める。
そんな麗射を見ながら、いつになく言い出しにくそうにして清那が口を開いた。
「実は、一つ相談があるのです」
「相談?」
ええ。と頷いたものの、次の句を告げずに清那はうつむいたまま黙っている。あまりに沈黙が長いのでしびれを切らした麗射が助け船を出した。
「どうしたんだ」
「あなたには助けられてばかりで、こんなお願いをするのは申し訳ないのですが――」
清那はまた口ごもる。
「清那、いつも言っているけど、俺は君を助けることができなかった。むしろ野盗から救われたのは俺の方だし、俺はあそこに行っただけで君を救う何の力にもなれなかった。君を助けたのはイラムや走耳や牙蘭だ」
何を言っているのかとばかり、清那の目が丸くなる。
「イラムも、そして走耳も、最後の弓術隊の見逃しも、すべてあなたの人徳のなせる技です。あなたを慕った人たちが、あなたのために私を救出してくれたんです。あなたがいなければ私は一生あの暗闇の中から出ることができませんでした」
人徳、といわれても麗射に思い当たる節は無い。いつも彼は自分自身の信念のままに生きているだけだ。清那の感謝をどう受け止めて良いか、困惑の表情を浮かべて彼は清那を見返した。
「で、相談とは?」
「実は走耳の事なんですが」
手の傷が癒えるまで、ということで彼はまだこの館にとどまっていた。名目上、清那の使用人として館に逗留を許されサボテン鳥の世話をまかされている。
麗射の横の部屋を与えられた彼は居るのか居ないのかの生活を送っているが、時折麗射と傾ける杯は彼にとっても楽しいようで、館から全く姿を消すことは無かった。
しかし、ぎこちなかった走耳の左中指の動きも改善しており、麗射は彼との別れも遠くない予感がしている。
「あなたの頼みなら、引き受けてくれると思うのです」
清那の目にただならぬ決意が浮かんでいた。
数日後の夜。
清那が開いた宴席には、麗射と牙蘭、そして珍しく走耳も呼ばれていた。
清那の指図か、珍しく
ひとしきり談笑した後に食後のお茶と
「麗射の体調も安定した。そろそろ美術工芸院に帰る支度を始めようと思う」
皆を見回す清那。彼の瞳は左横に座る牙蘭を見て、止まる。
忠実な家臣は、清那が命じれば今からでも支度を始めかねない勢いで主人を見つめている。清那はその一途な瞳から逃げるように視線をずらすと、口を開いた。
「牙蘭、申し訳ないがお前はここで私の警備の任を解く」
はっ? 牙蘭の顔が蒼白になる。
「清那様、私に何か落ち度が」
「落ち度は無いが……」
長年寝食を伴にした忠臣に対しての言葉を選ぶように、清那はゆっくりと言葉を続けた。
「お前は私が雇い入れた、いわば私の私兵だ。私が解任すれば、お前に一切の義務は無くなる」
突然の宣告に、言葉を忘れたかのように牙蘭は唇を震わせるばかり。
「私に何か改善点があれば、何なりとお叱りください。あなた様にお仕えするのが私の生きる意味でございます。あなた様のためなら私は喜んで命を捧げます。どうして、解任されるのかお教えください」
「重いのだ、お前のその忠義が」
延々と繰り返される牙蘭の抗議に、とうとう顔を背けて吐き捨てるように清那が告げた。
「お前がいると、
清那の拒絶に愕然とする牙蘭だが、必死に食い下がる。
「しかし、私が居なくなれば、あなた様の御身はだれが警備を――」
「走耳だ」
赤く血走った目で牙蘭が走耳を見る。だが、当の本人は修羅場の卓の雰囲気など知らぬふりで干した葡萄を口に放り込んでいた。