第59話 艶聞
文字数 2,456文字
居室に帰ると、牙蘭はとたんにぐったりと寝台に倒れ込み苦し気に咳をし始めた。清那の前では無理に平静を装っていたのだろう。身体に触れると先ほどよりさらに熱くなっていた。
水を飲めば治りますと、目をつぶって繰り返す牙蘭であったが、咳が続き、刻々と苦し気になっていく。とうとう麗射が医師を呼びに行こうと立ち上がった時、部屋をノックする音とともに煌露 が現れた。彼女は薬草の入ったかごを下げ、後ろに年老いた医師を伴っていた。
「清那様からお伺いしました。どのようなお具合ですか?」
「あまりよくないようで、咳が止まらず、熱も高い様子です」
「お疲れが出たのでしょう。先生に診察をしていただきますね」
彼女は牙蘭の寝台の横に医師用の椅子を設えた。
老医師が煌露に何かをささやいた。
「胸の診察がありますので、失礼いたしますね」
煌露は掛け布団をそっとはぐると牙蘭の着物の袷を大きく左右に開いた。筋肉で盛り上がった厚い胸板がむき出しになる。
一瞬煌露の手が止まる。その胸には縦横無尽に刀傷が走っていた。
「すまない、娘子には怖かろう」
い、いえ。煌露は小声でつぶやくと顔を赤くして、医師の後ろに退いた。
老医師は厚い胸板に薄い耳をぴたりと当てた。
「ほう、胸の笛がぴいぴいなっておる。痰を纏った病が笛を吹いておるのだ」
老医師の指示で煌露は部屋で薬草の入った湯を沸かし、枕もとに蒸気をたてた。
お世辞にも良いとは言えないつんとした香りだが、蒸気が立ち始めると牙蘭の咳が徐々に収まった。そればかりではなく、その薬湯の香りは心に平穏をもたらし、長椅子に座って待っていた麗射もまたいつの間にか眠りこけてしまった。
どれくらいの間寝ていたのか、流れ出る汗の感触で麗射は目を覚ました。
あたりは暗くなっている。
「飲み込まれましたか? それでは次を冷ましますね」
煌露の声がする。
麗射が目をやるとすでに医師はおらず、煌露は汁と匙を手にして寝台の傍らに腰かけていた。
視線に気が付いたのか、煌露が振り向いた。
「麗射様、お目覚めでしたか。そちらの丸テーブルに食事が用意してあります」
薄いカーテンで境された、となりの部屋に設えられた食卓にランプの灯りが揺れている。
麗射は部屋に漂う、ふんわりと心に染み入るようなキノコの香りに気が付いた。
「煉州特産の香傘茸 を山鳥と煮込んだ、煉州の名物山香汁 です」
まだ身体を起こす気力が無いのか、牙蘭は目を閉じてぐったりと寝台に横たわっている。
「飲み込まれましたか? それでは次を冷ましますね」
牙蘭が黙ったまま首を縦に振るのを見て、煌露は赤い唇を尖らすと何度か匙に息を吹きかけた。そのまま牙蘭の口元に持っていく。かすかに開けられた牙蘭の口に山香汁が滑り込んでいった。
「ずっと世話をしていたのか」
「ええ、お二人のお世話を任されております。麗射様もなんなりとお申し付けください」
煌露はにっこりとほほえんだ。
「牙蘭が、あの牙蘭がだぞっ」
「まあまあ、ちょっと落ち着いたらどうです」
鼻を膨らましてまくしたてる麗射を、清那はくすくすと笑いながら制した。
「おまえに俺の気持ちがわかるか? 匙を口に運んでもらう、その一瞬ごとに二人で見つめあうんだ。あいつがだぞ、信じられるか、清那」
「私はそんな姿を見たことはありません。しかしお堅い男だと思っていたのに、なかなかどうして隅に置けないじゃないですか」
清那がうれしそうに微笑んだ。麗射が自分をおまえで呼ぶのも気にならないらしい。砂漠行以来、二人の関係は今までと逆になっていた。
「部屋は薄布で境されているとはいえ、気配はわかる。3日もずううっとその調子なんだぞ」
「で、居場所に困ってここに来ている、と」
図星である。麗射は肩をすくめた。
「いや、ありがたいことです、煌露に感謝しなくては。ひと時でも牙蘭が憩いの時間を持てているようで安心しました。あまりにも私の警護に全身全霊を傾けるので申し訳なく思っていたところなのです。私など別に死んでも誰も困らないのに」
またこいつの卑下が始まった。こいつはこいつで世話が焼ける、麗射は顔をしかめた。
「そんなことはない。清那がいなくなったら、美術工芸院を含む三州の美術界の損失だ」
「私の画は単に細かくて上手いだけの絵です。あなたとは違って、誰にだって技術があれば描ける絵です」
「何をひねくれてるんだ、人のいう事は素直に聞け」
麗射の情熱を避けるように清那の瞳が窓の外に向けられた。
「ああ、もう盛夏も終わりですね」
かすかな日の陰りを感じたのか、清那がつぶやく。
「牙蘭があの調子では帰るまでにもうしばらくかかりそうです。真珠の都に帰るころには晩夏を通り越して秋季になっていますね」
「そうそう、その事なんだが」
麗射が口ごもりながら切り出した。
「俺、この館にも居づらくて、な。だから顔料になりそうな石を探しにちょっと出かけてこようと思うんだ。店で自分の好きな色を物色できるほどの金はないしーー。いや、反乱軍がいそうな場所には行く気はないから安心しろ」
「一人で抜け駆けですか。あなたが行くなら、私も探しに行きます」
清那のまなじりが急に吊り上がった。
「だって、お前はまだ熱が下がったばかりじゃないか」
「薬で病魔は去りました、もう元気です」
まだ青白い頬を膨らませて清那が腰掛けていた寝台から立ち上がった。
「辺境は危険だと言ったのは他でもないお前だろう。俺だけではお前の身を守ることはできない。今牙蘭は病の床だが、武人の多いこの館に居れば君の身の危険もないだろう。なに、10日もすればここに帰ってくる。そのころにはお前たち二人とも元気になってるだろうし、アイゲル達と一緒に帰ろう」
ついていくと言わんばかりの清那の恨みがましい視線を振り切るように、麗射はそそくさと部屋を後にした。
水を飲めば治りますと、目をつぶって繰り返す牙蘭であったが、咳が続き、刻々と苦し気になっていく。とうとう麗射が医師を呼びに行こうと立ち上がった時、部屋をノックする音とともに
「清那様からお伺いしました。どのようなお具合ですか?」
「あまりよくないようで、咳が止まらず、熱も高い様子です」
「お疲れが出たのでしょう。先生に診察をしていただきますね」
彼女は牙蘭の寝台の横に医師用の椅子を設えた。
老医師が煌露に何かをささやいた。
「胸の診察がありますので、失礼いたしますね」
煌露は掛け布団をそっとはぐると牙蘭の着物の袷を大きく左右に開いた。筋肉で盛り上がった厚い胸板がむき出しになる。
一瞬煌露の手が止まる。その胸には縦横無尽に刀傷が走っていた。
「すまない、娘子には怖かろう」
い、いえ。煌露は小声でつぶやくと顔を赤くして、医師の後ろに退いた。
老医師は厚い胸板に薄い耳をぴたりと当てた。
「ほう、胸の笛がぴいぴいなっておる。痰を纏った病が笛を吹いておるのだ」
老医師の指示で煌露は部屋で薬草の入った湯を沸かし、枕もとに蒸気をたてた。
お世辞にも良いとは言えないつんとした香りだが、蒸気が立ち始めると牙蘭の咳が徐々に収まった。そればかりではなく、その薬湯の香りは心に平穏をもたらし、長椅子に座って待っていた麗射もまたいつの間にか眠りこけてしまった。
どれくらいの間寝ていたのか、流れ出る汗の感触で麗射は目を覚ました。
あたりは暗くなっている。
「飲み込まれましたか? それでは次を冷ましますね」
煌露の声がする。
麗射が目をやるとすでに医師はおらず、煌露は汁と匙を手にして寝台の傍らに腰かけていた。
視線に気が付いたのか、煌露が振り向いた。
「麗射様、お目覚めでしたか。そちらの丸テーブルに食事が用意してあります」
薄いカーテンで境された、となりの部屋に設えられた食卓にランプの灯りが揺れている。
麗射は部屋に漂う、ふんわりと心に染み入るようなキノコの香りに気が付いた。
「煉州特産の
まだ身体を起こす気力が無いのか、牙蘭は目を閉じてぐったりと寝台に横たわっている。
「飲み込まれましたか? それでは次を冷ましますね」
牙蘭が黙ったまま首を縦に振るのを見て、煌露は赤い唇を尖らすと何度か匙に息を吹きかけた。そのまま牙蘭の口元に持っていく。かすかに開けられた牙蘭の口に山香汁が滑り込んでいった。
「ずっと世話をしていたのか」
「ええ、お二人のお世話を任されております。麗射様もなんなりとお申し付けください」
煌露はにっこりとほほえんだ。
「牙蘭が、あの牙蘭がだぞっ」
「まあまあ、ちょっと落ち着いたらどうです」
鼻を膨らましてまくしたてる麗射を、清那はくすくすと笑いながら制した。
「おまえに俺の気持ちがわかるか? 匙を口に運んでもらう、その一瞬ごとに二人で見つめあうんだ。あいつがだぞ、信じられるか、清那」
「私はそんな姿を見たことはありません。しかしお堅い男だと思っていたのに、なかなかどうして隅に置けないじゃないですか」
清那がうれしそうに微笑んだ。麗射が自分をおまえで呼ぶのも気にならないらしい。砂漠行以来、二人の関係は今までと逆になっていた。
「部屋は薄布で境されているとはいえ、気配はわかる。3日もずううっとその調子なんだぞ」
「で、居場所に困ってここに来ている、と」
図星である。麗射は肩をすくめた。
「いや、ありがたいことです、煌露に感謝しなくては。ひと時でも牙蘭が憩いの時間を持てているようで安心しました。あまりにも私の警護に全身全霊を傾けるので申し訳なく思っていたところなのです。私など別に死んでも誰も困らないのに」
またこいつの卑下が始まった。こいつはこいつで世話が焼ける、麗射は顔をしかめた。
「そんなことはない。清那がいなくなったら、美術工芸院を含む三州の美術界の損失だ」
「私の画は単に細かくて上手いだけの絵です。あなたとは違って、誰にだって技術があれば描ける絵です」
「何をひねくれてるんだ、人のいう事は素直に聞け」
麗射の情熱を避けるように清那の瞳が窓の外に向けられた。
「ああ、もう盛夏も終わりですね」
かすかな日の陰りを感じたのか、清那がつぶやく。
「牙蘭があの調子では帰るまでにもうしばらくかかりそうです。真珠の都に帰るころには晩夏を通り越して秋季になっていますね」
「そうそう、その事なんだが」
麗射が口ごもりながら切り出した。
「俺、この館にも居づらくて、な。だから顔料になりそうな石を探しにちょっと出かけてこようと思うんだ。店で自分の好きな色を物色できるほどの金はないしーー。いや、反乱軍がいそうな場所には行く気はないから安心しろ」
「一人で抜け駆けですか。あなたが行くなら、私も探しに行きます」
清那のまなじりが急に吊り上がった。
「だって、お前はまだ熱が下がったばかりじゃないか」
「薬で病魔は去りました、もう元気です」
まだ青白い頬を膨らませて清那が腰掛けていた寝台から立ち上がった。
「辺境は危険だと言ったのは他でもないお前だろう。俺だけではお前の身を守ることはできない。今牙蘭は病の床だが、武人の多いこの館に居れば君の身の危険もないだろう。なに、10日もすればここに帰ってくる。そのころにはお前たち二人とも元気になってるだろうし、アイゲル達と一緒に帰ろう」
ついていくと言わんばかりの清那の恨みがましい視線を振り切るように、麗射はそそくさと部屋を後にした。