第33話 天女の声
文字数 3,020文字
次の日。
麗射は再び早朝から教場にいた。手には前夜食堂でせしめておいたパンが握られている。
どんな目に会おうともかまわない、つらい思いすら芸術においては糧とすることができるのだ。あの天女の瞳が麗射の背中を後押ししてくれていた。
鐘の音がなり、教場には院生たちがざらりと一杯になった。皆、ちらちらと麗射の方を見ては、今日は上級生からどんないたぶられ方をするのかとばかり、意地の悪い笑みを浮かべる。
「麗射、経是講師が呼んでたぜ」
安理がまた声をかける。しかし麗射は席を立とうとしなかった。
「どうしたんだよ、聞こえないのか」
「昨日のは間違いだったので、今日は行きません」
次の瞬間、顔を赤くした安理が麗射のほうにつかつかとやってきた。
「新入生がなに生意気な口きいているんだよ」
そういうと、麗射の胸倉を捕まえて無防備な麗射をいきなり床に叩きつけた。薄笑いを浮かべた玲斗が椅子から立ち上がったのを見て、教場にざわめきが起こる。
「焼き印入りの罪人のくせして、大きな顔しやがって」
玲斗が目で合図すると安理たち数人が麗射を床に押さえつけた。もがく麗射の髪の毛を掴んで、顔だけ引き上げる。教場は騒然とした。
ニヤリと笑った玲斗が、麗射のかばんから顔料の入った陶器の小瓶をつまみ上げた。
「や、やめろ」
特にお気に入りの真紅。財布を空にして購入した大切な画材。
小瓶をつまんでいた白い指が広げられた。
麗射の視界の前でそれはゆっくりと宙に舞い、床に当たる。
陶器の砕ける音が響き、中身がふわりと飛び散っていった。
「次は、お前にはもったいないこの黄金色だな」
それはとっておきの金色だった。朝一番に窓から飛び込む荘厳な光を、闇夜に光るフクロウの鋭い目を、その顔料であれば雄弁に表現してくれるはずだった。
麗射の絶叫とともに金色の粉が舞う。
まるで処刑されるかのように、次々に瓶が割れていった。
麗射には、役目を全うすることなく四散する顔料たちの悲鳴が聞こえる。
「やめろっ」
麗射がもがいて叫ぶたびに教室には甲高い笑い声が響き渡った。
「これは下手くそにはもったいない筆だな」
北の国からはるばる送ってこられたイタチ毛で作られた、最高級の筆を手に取った玲斗は自らの掌で筆先の感触を試した。
「なめらかで最高の描き心地だ、身の程知らずめ」
次の瞬間、彼は激しい憎悪を顔に浮かべ、穂先をむしるといきなりその筆をへし折った。
麗射は息を飲んだ。
絵描きにとって気に入りの筆は、美の海に乗り出す冒険のかけがえのない相棒である。
しかし彼の相棒は無残にも、二つに分かれ床に転がった。
あまりの仕打ちに教場の中はしんと静まり返り、誰も笑うものはいなくなった。
「勘にさわるんだよ。才能もない貧乏人が祭り上げられるのは。せっかく腕を磨いてここに入学したのに、お情けで試験免除になった罪人のお前なんかと一緒にされてはたまったもんじゃない、とっととこの学院から出ていけ」
玲斗はそういうと、再び情け容赦なく画材を壊し始めた。
顔料で床が七色に染まったころ、今日のモデルとなる若い男を連れて経是が部屋に入ってきた。
「何事だ」
床に飛び散った瓶のかけらと顔料をちらりと見て講師は顔をしかめた。
「画材を大切にしないものに絵を描く資格はないぞ」
教授が部屋に入る前に安理たちは自分の席に退散していた。誰も糾弾の声を上げようとするものはおらず、床にうずくまって肩を震わせた麗射の嗚咽だけが低く響いていた。
それ以上何も言及せず、経是は男性を椅子に座らせて皆に写生を開始するように告げた。
絵筆を走らせる音だけが教場に響く。
麗射には何もなかった。筆は無残に折られ筆先も潰されている。顔料は床に飛び散ったまま。水を入れる壷も砕けていた。
麗射はくしゃくしゃにされて床に落ちた紙をゆっくりと拾った。
怒りが頭をあぶっていた。
今、玲斗は油断している。仲間たちも絵筆を握り注意は対象物に向けられている。
今ならやれる。麗射は大きく息を吸い込んだ。
このまま、玲斗を殴りつけここから走り去って行きたい衝動が彼を支配していた。何百となく殴って二目と見られないほどの顔にしてやる。あの高慢ちきな顔が恐怖にゆがむのを見るのはどれほど快感だろう。しかしそれはお情けで入学した凶状持ちの麗射にとって即退学を意味し、手にした希望を一気に失くしてしまう危険な誘惑であった。
涙で視界がゆがむ。
もう我慢できない、俺にも矜持というものがある。麗射はこぶしを握り締めた。
――だめ。
耳の奥から声が響いた。
――自分の心に負けないで。どんな地獄にもきっと救いの手は差し伸べられるから。
それは夕陽の絵を見た初日に聞いた天女の声だった。
声が、麗射を鼓舞した。
暴力だけが闘いではない。美の砦に生きる者として、別な抗い方があるはずだ。
かれは拳を緩めて涙をぬぐうと顔を上げる。血走った目はまっすぐ椅子に座る男性に向けられていた。
彼はゆっくりとぬれた手を顔料の散った床に滑らせる。そしてそのままの指をべったりと紙に置いた。
指先が紙に乗り、滑るように走り始める。涙はいつしか枯れたが、ほとばしる汗が彼の顔料を潤わせた。時には叩きつけるように、時には念じるように。憑 りつかれたように指は止まることなく紙の上を乱舞した。
一刻後。
美しく仕上げられた絵の中にあって、麗射の絵は異彩を放っていた。
それはかろうじて男を描いたとわかる代物ではあったが、絵からは激しい怒りと絶望に屈しないという強い意思があざやかに立ち上っていた。
散らばった顔料をそのまま指につけて塗った線は太く、岩場に叩きつけられた波のような勢いがある。そして十分に混ぜられないで塗られた色は、原色が重なり合いまるで画面が咆哮を上げているようであった。心のままに描かれた線は、激しい感情をそのまま写し取っている。
絵は目の前の男であって男ではなかった。それはその男の姿を借りた麗射であった。
稚拙な線が、かえって心の奥から吹き上がる怒りの原始的な鼓動を増幅している。
その絵を目の当たりにした学生たちは皆、言葉を失った。
経是も息を飲んで立ちすくんでいる。しかし今日の彼は麗射の絵を罵倒しようとはしなかった。どの絵の寸評もせずに経是は口をへの字に曲げると被写体の男を連れてそそくさと教室を出て行った。誰も動こうとはしなかった。
一刻も早く立ち去りたかった麗射は前に並べられた絵からさっさと自分の絵を取り上げた。
その瞬間。
周りから静かな拍手が沸き上がった。
玲斗は戸惑うように振り向いて拍手をする院生たちを見ている。静かな拍手は徐々に大きくなり、教場を満たしていった。
誰からともなく麗射の傍らに歩み寄って、床に飛び散った顔料を片付け始めた。
「ごめんね、麗射」
「君は不正入学者じゃない。天才だよ、やっぱり」
口々に謝りながら。
麗射は思いがけない展開に、呆然としていた。学院生たちは、誰言うともなく持ち寄った筆や顔料を麗射の画材箱に補充した。
玲斗と仲間たちはいまいましそうにこの展開を眺めていたが、旗色が悪いのは一目瞭然と悟ったのか、彼らもまた経是と同じように急いで荷物をまとめて教場を出て行った。
麗射は再び早朝から教場にいた。手には前夜食堂でせしめておいたパンが握られている。
どんな目に会おうともかまわない、つらい思いすら芸術においては糧とすることができるのだ。あの天女の瞳が麗射の背中を後押ししてくれていた。
鐘の音がなり、教場には院生たちがざらりと一杯になった。皆、ちらちらと麗射の方を見ては、今日は上級生からどんないたぶられ方をするのかとばかり、意地の悪い笑みを浮かべる。
「麗射、経是講師が呼んでたぜ」
安理がまた声をかける。しかし麗射は席を立とうとしなかった。
「どうしたんだよ、聞こえないのか」
「昨日のは間違いだったので、今日は行きません」
次の瞬間、顔を赤くした安理が麗射のほうにつかつかとやってきた。
「新入生がなに生意気な口きいているんだよ」
そういうと、麗射の胸倉を捕まえて無防備な麗射をいきなり床に叩きつけた。薄笑いを浮かべた玲斗が椅子から立ち上がったのを見て、教場にざわめきが起こる。
「焼き印入りの罪人のくせして、大きな顔しやがって」
玲斗が目で合図すると安理たち数人が麗射を床に押さえつけた。もがく麗射の髪の毛を掴んで、顔だけ引き上げる。教場は騒然とした。
ニヤリと笑った玲斗が、麗射のかばんから顔料の入った陶器の小瓶をつまみ上げた。
「や、やめろ」
特にお気に入りの真紅。財布を空にして購入した大切な画材。
小瓶をつまんでいた白い指が広げられた。
麗射の視界の前でそれはゆっくりと宙に舞い、床に当たる。
陶器の砕ける音が響き、中身がふわりと飛び散っていった。
「次は、お前にはもったいないこの黄金色だな」
それはとっておきの金色だった。朝一番に窓から飛び込む荘厳な光を、闇夜に光るフクロウの鋭い目を、その顔料であれば雄弁に表現してくれるはずだった。
麗射の絶叫とともに金色の粉が舞う。
まるで処刑されるかのように、次々に瓶が割れていった。
麗射には、役目を全うすることなく四散する顔料たちの悲鳴が聞こえる。
「やめろっ」
麗射がもがいて叫ぶたびに教室には甲高い笑い声が響き渡った。
「これは下手くそにはもったいない筆だな」
北の国からはるばる送ってこられたイタチ毛で作られた、最高級の筆を手に取った玲斗は自らの掌で筆先の感触を試した。
「なめらかで最高の描き心地だ、身の程知らずめ」
次の瞬間、彼は激しい憎悪を顔に浮かべ、穂先をむしるといきなりその筆をへし折った。
麗射は息を飲んだ。
絵描きにとって気に入りの筆は、美の海に乗り出す冒険のかけがえのない相棒である。
しかし彼の相棒は無残にも、二つに分かれ床に転がった。
あまりの仕打ちに教場の中はしんと静まり返り、誰も笑うものはいなくなった。
「勘にさわるんだよ。才能もない貧乏人が祭り上げられるのは。せっかく腕を磨いてここに入学したのに、お情けで試験免除になった罪人のお前なんかと一緒にされてはたまったもんじゃない、とっととこの学院から出ていけ」
玲斗はそういうと、再び情け容赦なく画材を壊し始めた。
顔料で床が七色に染まったころ、今日のモデルとなる若い男を連れて経是が部屋に入ってきた。
「何事だ」
床に飛び散った瓶のかけらと顔料をちらりと見て講師は顔をしかめた。
「画材を大切にしないものに絵を描く資格はないぞ」
教授が部屋に入る前に安理たちは自分の席に退散していた。誰も糾弾の声を上げようとするものはおらず、床にうずくまって肩を震わせた麗射の嗚咽だけが低く響いていた。
それ以上何も言及せず、経是は男性を椅子に座らせて皆に写生を開始するように告げた。
絵筆を走らせる音だけが教場に響く。
麗射には何もなかった。筆は無残に折られ筆先も潰されている。顔料は床に飛び散ったまま。水を入れる壷も砕けていた。
麗射はくしゃくしゃにされて床に落ちた紙をゆっくりと拾った。
怒りが頭をあぶっていた。
今、玲斗は油断している。仲間たちも絵筆を握り注意は対象物に向けられている。
今ならやれる。麗射は大きく息を吸い込んだ。
このまま、玲斗を殴りつけここから走り去って行きたい衝動が彼を支配していた。何百となく殴って二目と見られないほどの顔にしてやる。あの高慢ちきな顔が恐怖にゆがむのを見るのはどれほど快感だろう。しかしそれはお情けで入学した凶状持ちの麗射にとって即退学を意味し、手にした希望を一気に失くしてしまう危険な誘惑であった。
涙で視界がゆがむ。
もう我慢できない、俺にも矜持というものがある。麗射はこぶしを握り締めた。
――だめ。
耳の奥から声が響いた。
――自分の心に負けないで。どんな地獄にもきっと救いの手は差し伸べられるから。
それは夕陽の絵を見た初日に聞いた天女の声だった。
声が、麗射を鼓舞した。
暴力だけが闘いではない。美の砦に生きる者として、別な抗い方があるはずだ。
かれは拳を緩めて涙をぬぐうと顔を上げる。血走った目はまっすぐ椅子に座る男性に向けられていた。
彼はゆっくりとぬれた手を顔料の散った床に滑らせる。そしてそのままの指をべったりと紙に置いた。
指先が紙に乗り、滑るように走り始める。涙はいつしか枯れたが、ほとばしる汗が彼の顔料を潤わせた。時には叩きつけるように、時には念じるように。
一刻後。
美しく仕上げられた絵の中にあって、麗射の絵は異彩を放っていた。
それはかろうじて男を描いたとわかる代物ではあったが、絵からは激しい怒りと絶望に屈しないという強い意思があざやかに立ち上っていた。
散らばった顔料をそのまま指につけて塗った線は太く、岩場に叩きつけられた波のような勢いがある。そして十分に混ぜられないで塗られた色は、原色が重なり合いまるで画面が咆哮を上げているようであった。心のままに描かれた線は、激しい感情をそのまま写し取っている。
絵は目の前の男であって男ではなかった。それはその男の姿を借りた麗射であった。
稚拙な線が、かえって心の奥から吹き上がる怒りの原始的な鼓動を増幅している。
その絵を目の当たりにした学生たちは皆、言葉を失った。
経是も息を飲んで立ちすくんでいる。しかし今日の彼は麗射の絵を罵倒しようとはしなかった。どの絵の寸評もせずに経是は口をへの字に曲げると被写体の男を連れてそそくさと教室を出て行った。誰も動こうとはしなかった。
一刻も早く立ち去りたかった麗射は前に並べられた絵からさっさと自分の絵を取り上げた。
その瞬間。
周りから静かな拍手が沸き上がった。
玲斗は戸惑うように振り向いて拍手をする院生たちを見ている。静かな拍手は徐々に大きくなり、教場を満たしていった。
誰からともなく麗射の傍らに歩み寄って、床に飛び散った顔料を片付け始めた。
「ごめんね、麗射」
「君は不正入学者じゃない。天才だよ、やっぱり」
口々に謝りながら。
麗射は思いがけない展開に、呆然としていた。学院生たちは、誰言うともなく持ち寄った筆や顔料を麗射の画材箱に補充した。
玲斗と仲間たちはいまいましそうにこの展開を眺めていたが、旗色が悪いのは一目瞭然と悟ったのか、彼らもまた経是と同じように急いで荷物をまとめて教場を出て行った。