第76話 玉座の間
文字数 2,604文字
牢獄に通じる洞窟を出て、清那と走耳は看守達が使う崖に沿った道を走り降りる。
先頭を走っていた走耳が木の陰に隠れた岩場で足を止めた。
「ここが抜け道だ、台所の貯蔵庫に通じている。あとは勝手にしろ」
走耳の指さしたのはかろうじて上半身が通るくらいの、足元にある岩のわずかな割れ目であった。清那が試しに足を突っ込んでみると下には存外に大きな空間があり、彼はそのままそっと体を滑り込ませた。
「似合うぜ、女官服が。それじゃあな」
岩の割れ目に滑り込んだ清那にそう言うと、走耳はさっさと闇の中に走り去っていった。
抜け穴は走耳の言うとおり、貯蔵庫に通じていた。おそらく彼はここから侵入して食べ物をちょろまかしていたのであろう。清那は積み上げられた食べ物の中にそっと身を隠す。小さな窓が一つしか無いため、あたりは暗く様々な食材の香りが入り交じった空気がよどんでいた。
その日は女官の出入りが激しかった。しばらくすると、勢いよく戸が開けられ、どやどやと女官たちがなだれ込んできた。指図する女性の声が響き渡り、女官達は食材を抱えて出て行く。清那はその一群に紛れてこっそり台所に入り込んだ。
調理場は昼餐の支度でごった返している。相当な人数を招くと見え、机の上に山のように皿と食材が積み上げられていた。
「ちょっと、何ぼやぼやしてるんだい」
いきなり清那の襟首がつかまれた。清那は、慌てて頭を包むように巻いた頭巾がずり落ちないように、手で押さえる。
「これを玉座の間に運んどくれ。落とすんじゃないよ」
大柄な女官から手渡されたのは、大きな皿であった。結構な重みに清那の体が揺らぐ。皿が揺れて甘い匂いが立ち上った。皿の上には清那でもめったに見ないような見事な出来映えの果物がまるごと大盛りになっていた。
玉座の間というと、清那が斬常と天地争を行っていたおなじみの場所である。
人の流れに乗って果物を運んで行くと、そこには今までなかった白い布が敷かれた大きな食卓がしつらえてあった。天然の洞窟を利用して作った宮殿だけあって、部屋数はそれほど多くはない。天井を高くくりぬいた広い玉座の間はそのまま迎賓室としても使われているようだった。
調味料や燭台を持ち、何往復かするうちに清那も宴の概要が掴めてきた。
近隣の村や町の有力者を極秘に招いており、特に豪奢な玉座の間に招待される客人は重要人物達なのか、食卓には贅を尽くした食器がならべられている。
テーブルの上には、パンやジャム、バターやオリーブ油、塩、砂糖など、ここらでは珍しい調味料が並んでいる。食事でまず来賓を圧倒するつもりか。料理の付け合わせだけ見ても斬常の今日にかけるなみなみならぬ意気込みがうかがわれた。
調味料を運びながら清那はあたりを見渡す。
ガラスのランプに照らされて並べられた大小様々な玉の装飾がキラキラと光り、目が痛いほどのまばゆさを演出している。ここまでの富は、単に反抗する市井の人々の寄付ぐらいで集まるものではない。おそらく王室を見限った裕福な商人や豪農たちが貢いでいるのであろう。そればかりではない、斬常自らが迎えに出向くとなると王室内部の者の密通も考えられる。
案外、革命は短期間で成功するかもしれない。そして――。
斬常の野望を知っている清那の背中に冷たいものが走った。
岩肌をくりぬいて作られたいくつもの窓からのぞく闇が、わずかにだが薄くなっている。
急がないと、麗射が厩 に来てしまう。
清那は壁際に近づいた。そこには彼の目指す絵があった。
ランプの光につややかに照らし出される等身大の女性が描かれた絵。豊かな茶色の髪をたたえた細い優美な体の線をした美女。あの斬常が愛してやまなかった妻。
天地争をしながら、斬常は時折その絵に目をやり、かすかな笑みを浮かべていた。しかし、彼の笑みとは裏腹に絵の中の美女は憂いを帯びた瞳でどこか遠くを見つめていた。
「ちょっとあんた何をしてるんだい。おや、見慣れない顔だね」
呼びかけに清那の呼吸が止まる。大柄な女官が清那に近づいてきた。
「誰か、この子を知っているかい?」
女官たちは皆首をかしげる。
幾人かの兵士が足を止め、こちらを振り向いた。
万事休す。
清那は思わず後ずさる。背中に壁がぶつかり、周りを人垣が取り囲んだ。
「ちょっとその布をとって顔をお見せ」
女官が手を伸ばして頭と顔の一部を覆った布に手を伸ばす。
ずれた布から銀の髪がこぼれる――。
その時。
「探していたのよ。配膳なんかいいから、早く私の髪をきれいに結ってちょうだい」
人垣の後ろから鈴を転がすような声が響いた。
「イラム様」
声の方向に、清那の視線が釘付けになる。
人垣が二つに割れて、きらめく金髪を肩まで垂らした少女が現れた。
この娘がイラム。
邪気のない大きな青い瞳がまっすぐに清那を見つめている。
清那は思わず息を飲んだ。
「探していたのよ、さあ」
慌てて頭の布を直し持っていた調味料を傍らに置くと、清那はうながされるままに少女の手を取る。
しっかりとその手を握り、少女は出口に向かった。
人々は二人をぽかんと眺めたまま。しかし進路を妨げることなくすんなり彼らを通した。
人気のない廊下に行き着くと、イラムは少女たちが内緒話をするように清那の肩に手を回し、耳に口を寄せてささやいた。
「初めまして、清那。私はイラム、麗射の友達よ」
あらためて見た少女は、清那より少し年上だろうか。まるで絵画で描かれる天女がそのまま抜け出したかのようなキラキラした微笑み。
ああ、これは麗射が夢中になるのも無理はない。
その圧倒的な美しさを目の当たりにして清那は自分の不機嫌がいやおうなしに蹴散らされていくのを感じた。
「なにか騒動の気配がないか、宮殿の中を歩き回っていたの。見慣れない女官の子だと思って見ていたら、頭の布から一瞬銀の髪がのぞいたのに気がついて――」
「助けに来てくれてありがとう」
清那は頭を下げた。
しかし、すぐに鋭い目でまっすぐにイラムを見つめる。
「一緒に来るよね、イラム」
え。少女は言葉を失った。
「わ、私――」
「来てくれないか、麗射を助けるために」
清那の目を見返すイラムの目には逡巡の色が浮かんでいる。
「頼む。君が居れば、矢雨が降らない」
少女ははっとしたように息を飲む。
「知っていたのね」
一瞬の沈黙の後、少女はこくりとうなずいた。
「行くわ、私も」
先頭を走っていた走耳が木の陰に隠れた岩場で足を止めた。
「ここが抜け道だ、台所の貯蔵庫に通じている。あとは勝手にしろ」
走耳の指さしたのはかろうじて上半身が通るくらいの、足元にある岩のわずかな割れ目であった。清那が試しに足を突っ込んでみると下には存外に大きな空間があり、彼はそのままそっと体を滑り込ませた。
「似合うぜ、女官服が。それじゃあな」
岩の割れ目に滑り込んだ清那にそう言うと、走耳はさっさと闇の中に走り去っていった。
抜け穴は走耳の言うとおり、貯蔵庫に通じていた。おそらく彼はここから侵入して食べ物をちょろまかしていたのであろう。清那は積み上げられた食べ物の中にそっと身を隠す。小さな窓が一つしか無いため、あたりは暗く様々な食材の香りが入り交じった空気がよどんでいた。
その日は女官の出入りが激しかった。しばらくすると、勢いよく戸が開けられ、どやどやと女官たちがなだれ込んできた。指図する女性の声が響き渡り、女官達は食材を抱えて出て行く。清那はその一群に紛れてこっそり台所に入り込んだ。
調理場は昼餐の支度でごった返している。相当な人数を招くと見え、机の上に山のように皿と食材が積み上げられていた。
「ちょっと、何ぼやぼやしてるんだい」
いきなり清那の襟首がつかまれた。清那は、慌てて頭を包むように巻いた頭巾がずり落ちないように、手で押さえる。
「これを玉座の間に運んどくれ。落とすんじゃないよ」
大柄な女官から手渡されたのは、大きな皿であった。結構な重みに清那の体が揺らぐ。皿が揺れて甘い匂いが立ち上った。皿の上には清那でもめったに見ないような見事な出来映えの果物がまるごと大盛りになっていた。
玉座の間というと、清那が斬常と天地争を行っていたおなじみの場所である。
人の流れに乗って果物を運んで行くと、そこには今までなかった白い布が敷かれた大きな食卓がしつらえてあった。天然の洞窟を利用して作った宮殿だけあって、部屋数はそれほど多くはない。天井を高くくりぬいた広い玉座の間はそのまま迎賓室としても使われているようだった。
調味料や燭台を持ち、何往復かするうちに清那も宴の概要が掴めてきた。
近隣の村や町の有力者を極秘に招いており、特に豪奢な玉座の間に招待される客人は重要人物達なのか、食卓には贅を尽くした食器がならべられている。
テーブルの上には、パンやジャム、バターやオリーブ油、塩、砂糖など、ここらでは珍しい調味料が並んでいる。食事でまず来賓を圧倒するつもりか。料理の付け合わせだけ見ても斬常の今日にかけるなみなみならぬ意気込みがうかがわれた。
調味料を運びながら清那はあたりを見渡す。
ガラスのランプに照らされて並べられた大小様々な玉の装飾がキラキラと光り、目が痛いほどのまばゆさを演出している。ここまでの富は、単に反抗する市井の人々の寄付ぐらいで集まるものではない。おそらく王室を見限った裕福な商人や豪農たちが貢いでいるのであろう。そればかりではない、斬常自らが迎えに出向くとなると王室内部の者の密通も考えられる。
案外、革命は短期間で成功するかもしれない。そして――。
斬常の野望を知っている清那の背中に冷たいものが走った。
岩肌をくりぬいて作られたいくつもの窓からのぞく闇が、わずかにだが薄くなっている。
急がないと、麗射が
清那は壁際に近づいた。そこには彼の目指す絵があった。
ランプの光につややかに照らし出される等身大の女性が描かれた絵。豊かな茶色の髪をたたえた細い優美な体の線をした美女。あの斬常が愛してやまなかった妻。
天地争をしながら、斬常は時折その絵に目をやり、かすかな笑みを浮かべていた。しかし、彼の笑みとは裏腹に絵の中の美女は憂いを帯びた瞳でどこか遠くを見つめていた。
「ちょっとあんた何をしてるんだい。おや、見慣れない顔だね」
呼びかけに清那の呼吸が止まる。大柄な女官が清那に近づいてきた。
「誰か、この子を知っているかい?」
女官たちは皆首をかしげる。
幾人かの兵士が足を止め、こちらを振り向いた。
万事休す。
清那は思わず後ずさる。背中に壁がぶつかり、周りを人垣が取り囲んだ。
「ちょっとその布をとって顔をお見せ」
女官が手を伸ばして頭と顔の一部を覆った布に手を伸ばす。
ずれた布から銀の髪がこぼれる――。
その時。
「探していたのよ。配膳なんかいいから、早く私の髪をきれいに結ってちょうだい」
人垣の後ろから鈴を転がすような声が響いた。
「イラム様」
声の方向に、清那の視線が釘付けになる。
人垣が二つに割れて、きらめく金髪を肩まで垂らした少女が現れた。
この娘がイラム。
邪気のない大きな青い瞳がまっすぐに清那を見つめている。
清那は思わず息を飲んだ。
「探していたのよ、さあ」
慌てて頭の布を直し持っていた調味料を傍らに置くと、清那はうながされるままに少女の手を取る。
しっかりとその手を握り、少女は出口に向かった。
人々は二人をぽかんと眺めたまま。しかし進路を妨げることなくすんなり彼らを通した。
人気のない廊下に行き着くと、イラムは少女たちが内緒話をするように清那の肩に手を回し、耳に口を寄せてささやいた。
「初めまして、清那。私はイラム、麗射の友達よ」
あらためて見た少女は、清那より少し年上だろうか。まるで絵画で描かれる天女がそのまま抜け出したかのようなキラキラした微笑み。
ああ、これは麗射が夢中になるのも無理はない。
その圧倒的な美しさを目の当たりにして清那は自分の不機嫌がいやおうなしに蹴散らされていくのを感じた。
「なにか騒動の気配がないか、宮殿の中を歩き回っていたの。見慣れない女官の子だと思って見ていたら、頭の布から一瞬銀の髪がのぞいたのに気がついて――」
「助けに来てくれてありがとう」
清那は頭を下げた。
しかし、すぐに鋭い目でまっすぐにイラムを見つめる。
「一緒に来るよね、イラム」
え。少女は言葉を失った。
「わ、私――」
「来てくれないか、麗射を助けるために」
清那の目を見返すイラムの目には逡巡の色が浮かんでいる。
「頼む。君が居れば、矢雨が降らない」
少女ははっとしたように息を飲む。
「知っていたのね」
一瞬の沈黙の後、少女はこくりとうなずいた。
「行くわ、私も」