第74話 救出
文字数 3,148文字
暗闇の中では時間の感覚がなくなる。ずいぶん寝ていたようにも思うし、ずっと起きていたようにも思える。闇の中に絵を描き尽くした清那は、斬常との天地争の符を一つ一つ思い返し、自身の手の検討を行っていた。こうした毎日で唯一時間の感覚が戻るのは、かすかな明かりを持って日に一度食事を届けに来る兵士の足音だった。闇の中にわずかな灯火が揺れると、清那は一日が経ったことを知るのであった。
声をかけてももちろん人影は返事をせず、食事を置いて去って行く。
食事を差し入れると言うことはまだ、殺す気は無いようだ。清那は心の中でつぶやく。
斬常は僕の心が折れて、許しを請うのを待っているのか。それとも絶望のうちに正気を手放し命を絶つのを待っているのか。
そうはいかない。
僕の命は僕のものだ。いつか命を捧げなければならない時が来たとしても、それは自分の意思で決めることであって、他人の意思で天命を決められてたまるものか。
清那は堅いパンをかじりながら水で喉に押し流す。
自分だって無為無策でここに来たわけではない。いつか局面が動く。
そこまで考えて清那の頬がピクリと動いた。
麗射。自分が宮殿にいたときには噂は聞かなかったが、果たして麗射は無事に都に帰れたのであろうか。不用意にこちらに来て、暴行を受けたりしていないだろうか。あの人はなんだか面倒事に引き寄せられていくような、いや自ら近寄っていくような間の悪い性格をしているから……。
清那の冷静な心は麗射が反乱軍から逃げていてくれることを願っている。しかし、闇に投影された彼の心の奥底は、麗射がいつか自分を救いに来てくれるといった淡い幻影となって現れ、清那を動揺させた。
そのとき、清那は息をのんだ。
空気が揺れている。
暗闇で研ぎ澄まされた清那の五感は、洞窟をこちらに向かってくるかすかな気配を感じ取っていた。牢番であれば、足音でわかる。しかし、侵入者はまるで洞窟の地面に吸い付くようなかすかな足音でこちらに近づいてきた。
洞窟の角を曲がると、揺れる光に人影が照らし出された。
「麗射?」
まさか。
清那の胸は高鳴り、彼は牢獄の格子に駆け寄る。
「麗射、来てくれたのか?」
いきなり瞳に差し込む光のまばゆさに顔をしかめながら、清那は明かりを持つのが誰をか見ようと無理矢理目をこじ開けた。しかし、期待とは裏腹に光に照らし出されたのは兵士の格好をした痩せた男だった。
「誰だ、君は」
思わず息を飲んで扉から離れる清那。
「麗射じゃなくて残念だったな、坊ちゃん。だけど味方だ、安心しろ」
低い声で男はつぶやいた。目の前に居るのに、揺れるろうそくが映し出す実体のない影を見ているような、まるで幽鬼のような男。
「おれは走耳。以前、麗射に助けられた者だ。借りを返しに来たぜ」
男は無造作に鍵を突っ込む、しかし無造作な手つきとは裏腹に鍵は全く音を立てず、滑るように扉が開いた。清那は牢を出ながら、待ちきれないとばかりに尋ねる。
「麗射は無事なのか?」
走耳は軽くうなずいた。
こわばっていた清那の顔が緩む。
「よかった。痛めつけられたりしてないんだな?」
「心配ない。反乱軍の中に溶け込んでなにやら楽しそうに絵を描いていたぜ。おまけにいい仲の娘もできたみたいでよ」
「はあ?」
清那は眉間にしわを寄せる。
「さ、ぼやぼやしてる暇はない。逃げるぜ、坊ちゃん」
「坊ちゃんではない。私には清那という名前がある」
優美な外見とは違う攻撃的な物言いに、青年は意外そうに片眉を上げた。
「じゃ、清那逃げるぞ」
「待て、これからの行動計画を教えてくれ。まず今は朝なのか夜なのか?」
半ば体を洞窟の出口に向けていた走耳は、めんどうくさそうに清那に向き直った。
「今は夜明け前だ。今日は斬常達が近隣の反乱軍の協力者を集めて会議を開くらしい。有力者を迎えに行くため、斬常は闇に乗じて出立した。宮殿の中は、昼餐の準備で大騒ぎさ」
「そのすきに乗じるって訳か。よくそんな情報が手に入ったな」
「情報をくれたのはさっき言ったイラムって言う娘だ」
「麗射と仲が良いという娘か?」明らかに不機嫌な調子で清那が繰り返す。
「ああ、麗射とはオアシスで知りあったらしくてな。その娘が脱出にも力を貸してくれている」
「ふうん」清那が小鼻を膨らませた。
「居心地がいいなら、ずっとここに居ればいいのに」
「馬鹿言ってんじゃない、麗射はお前を助けるためにわざわざこんな物騒なところに潜り込んで、あいつなりにいろいろ情報を集めていたんだ。イラムにうつつを抜かしていた訳ではない」
走耳はちらりと清那をにらむ。
「ここから出て、すぐ厩 に行く。そうしたら麗射が来るから馬を盗んでーー」
「待ってくれ、厩まで遠いのか? 麗射は今どこに居るんだ? 見つからずに麗射が無事に厩に行けるって保証はあるのか」
「麗射は今、反乱軍に入っている。反乱軍の兵舎から厩までは離れているが、それはあいつがなんとかするだろう」
清那は唇に親指を当てて、考え込んだ。
「離れた場所で騒動を起こす必要があるな、そして一刻も早く援軍を呼ぶ必要がある」
清那はふと走耳の腰に目をとめた。
「それは?」
彼の腰には小さくまとめた女官の服がくくりつけてあった。
「これか、結局使わなかったが、何かの役に立つかと持ってきたんだ」
清那は目を閉じて一瞬考えたのち、口を開いた。
「走耳はどうやってここに来たんだ?」
「闇の中、手探りで崖をよじ登ってきたんだ。まさか崖から来るとは牢番も思ってなかったらしい、入り口に4人いたが昏倒させて兵士の服と鍵を奪ったって寸法さ」
「ここをか……」
ほぼ垂直に切り立った崖を思い出してさすがの清那も絶句する。
しかし、すぐに公子はにやりと口角をあげた。
「走耳、君は先に脱出しろ。君の身体能力をもってすれば見つからずにこっそり一人だけ逃げるのは簡単なことだろう。ここに来るときに早馬用の馬が門の外にもつないであるのが見えた。それを盗んで援軍を呼んできて欲しい。いいか、私達のことはいいから一刻も早く出立しろ」
この小僧何を言っているんだ。有無を言わさぬ命令口調に、走耳はぽかんと口を開けた。
「何をぼやぼやしている。盗むのはお手の物だろう?」
清那の物言いに、走耳の目が鋭くなる。
「鍵の扱いを見ていれば、素人じゃないってことくらいわかる。麗射とは牢仲間だろう」
走耳は何か言おうとして口を開きかけた。が、この状況で言い争うのも得策ではないと思ったのか、大きく胸に息を吸い込み口をつぐんだ。
「さあ走耳、行ってくれ」
「ちょっと待て。もう麗射と計画を立てているんだ。今更変えられない」
「そんなずさんな計画で上手くいくはずがない。いいから私の言うことを聞くんだ。君は知らないだろうが、麗射は馬術が苦手なんだ。城内を混乱させないと、このまま三人で逃げても、麗射に合わせていたらすぐに追いつかれて矢雨を浴びて終わりだ」
清那が走耳に詰め寄る。
確かに清那の言い分にも一理ある。走耳は正解を探すように虚空に目をやった。
「しかし、お前を助けに来たんだぞ。肝心なお前を麗射の元に連れて帰らないことにはーー」
「大丈夫だ、私に考えがある。その女官の服をくれ、騒ぎの元を仕込んでから厩に向かう」
「また捕まってしまうぞ」走耳はあきれ顔で清那をまじまじと見つめる。
清那は受け取った女官の服を、そのまま着ている服の上から被った。大きめの女官服はそれでも余裕があった。
「この宮殿の構造は熟知している。それにーー」
布で髪を覆うと、清那は暗闇をにらみつけた。脳裏にあわや正気を失いかけた時の恐怖がよみがえる。
「あんな目にあったんだ、このまま帰ってたまるものか」
有無を言わせない少年の迫力に、走耳は返す言葉がなかった。
声をかけてももちろん人影は返事をせず、食事を置いて去って行く。
食事を差し入れると言うことはまだ、殺す気は無いようだ。清那は心の中でつぶやく。
斬常は僕の心が折れて、許しを請うのを待っているのか。それとも絶望のうちに正気を手放し命を絶つのを待っているのか。
そうはいかない。
僕の命は僕のものだ。いつか命を捧げなければならない時が来たとしても、それは自分の意思で決めることであって、他人の意思で天命を決められてたまるものか。
清那は堅いパンをかじりながら水で喉に押し流す。
自分だって無為無策でここに来たわけではない。いつか局面が動く。
そこまで考えて清那の頬がピクリと動いた。
麗射。自分が宮殿にいたときには噂は聞かなかったが、果たして麗射は無事に都に帰れたのであろうか。不用意にこちらに来て、暴行を受けたりしていないだろうか。あの人はなんだか面倒事に引き寄せられていくような、いや自ら近寄っていくような間の悪い性格をしているから……。
清那の冷静な心は麗射が反乱軍から逃げていてくれることを願っている。しかし、闇に投影された彼の心の奥底は、麗射がいつか自分を救いに来てくれるといった淡い幻影となって現れ、清那を動揺させた。
そのとき、清那は息をのんだ。
空気が揺れている。
暗闇で研ぎ澄まされた清那の五感は、洞窟をこちらに向かってくるかすかな気配を感じ取っていた。牢番であれば、足音でわかる。しかし、侵入者はまるで洞窟の地面に吸い付くようなかすかな足音でこちらに近づいてきた。
洞窟の角を曲がると、揺れる光に人影が照らし出された。
「麗射?」
まさか。
清那の胸は高鳴り、彼は牢獄の格子に駆け寄る。
「麗射、来てくれたのか?」
いきなり瞳に差し込む光のまばゆさに顔をしかめながら、清那は明かりを持つのが誰をか見ようと無理矢理目をこじ開けた。しかし、期待とは裏腹に光に照らし出されたのは兵士の格好をした痩せた男だった。
「誰だ、君は」
思わず息を飲んで扉から離れる清那。
「麗射じゃなくて残念だったな、坊ちゃん。だけど味方だ、安心しろ」
低い声で男はつぶやいた。目の前に居るのに、揺れるろうそくが映し出す実体のない影を見ているような、まるで幽鬼のような男。
「おれは走耳。以前、麗射に助けられた者だ。借りを返しに来たぜ」
男は無造作に鍵を突っ込む、しかし無造作な手つきとは裏腹に鍵は全く音を立てず、滑るように扉が開いた。清那は牢を出ながら、待ちきれないとばかりに尋ねる。
「麗射は無事なのか?」
走耳は軽くうなずいた。
こわばっていた清那の顔が緩む。
「よかった。痛めつけられたりしてないんだな?」
「心配ない。反乱軍の中に溶け込んでなにやら楽しそうに絵を描いていたぜ。おまけにいい仲の娘もできたみたいでよ」
「はあ?」
清那は眉間にしわを寄せる。
「さ、ぼやぼやしてる暇はない。逃げるぜ、坊ちゃん」
「坊ちゃんではない。私には清那という名前がある」
優美な外見とは違う攻撃的な物言いに、青年は意外そうに片眉を上げた。
「じゃ、清那逃げるぞ」
「待て、これからの行動計画を教えてくれ。まず今は朝なのか夜なのか?」
半ば体を洞窟の出口に向けていた走耳は、めんどうくさそうに清那に向き直った。
「今は夜明け前だ。今日は斬常達が近隣の反乱軍の協力者を集めて会議を開くらしい。有力者を迎えに行くため、斬常は闇に乗じて出立した。宮殿の中は、昼餐の準備で大騒ぎさ」
「そのすきに乗じるって訳か。よくそんな情報が手に入ったな」
「情報をくれたのはさっき言ったイラムって言う娘だ」
「麗射と仲が良いという娘か?」明らかに不機嫌な調子で清那が繰り返す。
「ああ、麗射とはオアシスで知りあったらしくてな。その娘が脱出にも力を貸してくれている」
「ふうん」清那が小鼻を膨らませた。
「居心地がいいなら、ずっとここに居ればいいのに」
「馬鹿言ってんじゃない、麗射はお前を助けるためにわざわざこんな物騒なところに潜り込んで、あいつなりにいろいろ情報を集めていたんだ。イラムにうつつを抜かしていた訳ではない」
走耳はちらりと清那をにらむ。
「ここから出て、すぐ
「待ってくれ、厩まで遠いのか? 麗射は今どこに居るんだ? 見つからずに麗射が無事に厩に行けるって保証はあるのか」
「麗射は今、反乱軍に入っている。反乱軍の兵舎から厩までは離れているが、それはあいつがなんとかするだろう」
清那は唇に親指を当てて、考え込んだ。
「離れた場所で騒動を起こす必要があるな、そして一刻も早く援軍を呼ぶ必要がある」
清那はふと走耳の腰に目をとめた。
「それは?」
彼の腰には小さくまとめた女官の服がくくりつけてあった。
「これか、結局使わなかったが、何かの役に立つかと持ってきたんだ」
清那は目を閉じて一瞬考えたのち、口を開いた。
「走耳はどうやってここに来たんだ?」
「闇の中、手探りで崖をよじ登ってきたんだ。まさか崖から来るとは牢番も思ってなかったらしい、入り口に4人いたが昏倒させて兵士の服と鍵を奪ったって寸法さ」
「ここをか……」
ほぼ垂直に切り立った崖を思い出してさすがの清那も絶句する。
しかし、すぐに公子はにやりと口角をあげた。
「走耳、君は先に脱出しろ。君の身体能力をもってすれば見つからずにこっそり一人だけ逃げるのは簡単なことだろう。ここに来るときに早馬用の馬が門の外にもつないであるのが見えた。それを盗んで援軍を呼んできて欲しい。いいか、私達のことはいいから一刻も早く出立しろ」
この小僧何を言っているんだ。有無を言わさぬ命令口調に、走耳はぽかんと口を開けた。
「何をぼやぼやしている。盗むのはお手の物だろう?」
清那の物言いに、走耳の目が鋭くなる。
「鍵の扱いを見ていれば、素人じゃないってことくらいわかる。麗射とは牢仲間だろう」
走耳は何か言おうとして口を開きかけた。が、この状況で言い争うのも得策ではないと思ったのか、大きく胸に息を吸い込み口をつぐんだ。
「さあ走耳、行ってくれ」
「ちょっと待て。もう麗射と計画を立てているんだ。今更変えられない」
「そんなずさんな計画で上手くいくはずがない。いいから私の言うことを聞くんだ。君は知らないだろうが、麗射は馬術が苦手なんだ。城内を混乱させないと、このまま三人で逃げても、麗射に合わせていたらすぐに追いつかれて矢雨を浴びて終わりだ」
清那が走耳に詰め寄る。
確かに清那の言い分にも一理ある。走耳は正解を探すように虚空に目をやった。
「しかし、お前を助けに来たんだぞ。肝心なお前を麗射の元に連れて帰らないことにはーー」
「大丈夫だ、私に考えがある。その女官の服をくれ、騒ぎの元を仕込んでから厩に向かう」
「また捕まってしまうぞ」走耳はあきれ顔で清那をまじまじと見つめる。
清那は受け取った女官の服を、そのまま着ている服の上から被った。大きめの女官服はそれでも余裕があった。
「この宮殿の構造は熟知している。それにーー」
布で髪を覆うと、清那は暗闇をにらみつけた。脳裏にあわや正気を失いかけた時の恐怖がよみがえる。
「あんな目にあったんだ、このまま帰ってたまるものか」
有無を言わせない少年の迫力に、走耳は返す言葉がなかった。