第50話 濁流
文字数 2,327文字
「神の怒りだ」星見達が駱駝の上に身を伏せる。
瞬く間にうす暗くなった空の上に、太い絵筆を走らせたような一筋の雷光が浮かび上がった。人の顔が見えなくなるほど、あたりが真っ白に輝く
ほぼ同時に砂漠をつんざく大音響が響き渡り、空気がびりびりと震えた。
「神の雷刃 だ。刃 が刺さった場所は近い、気を付けろ」
レドウィンが叫んだ。
肩にはらはらと糸の様な雨があたったかと思うと、いきなり大地を鞭でたたくように大粒の雨が降り出した。
「来た、雨だっ」
レドウィンが叫ぶ。
「枯れ河を避けて少しでも高いところに急げ、全速力だ」
泥と化した表土に足を取られつつ、全員我に返って無我夢中で駱駝を走らせる。鉄砲水が来れば押し流されて命を失う危険がある、切羽詰まった状況に夕陽の予言が当たったと快哉を叫ぶものは誰もいなかった。
地形を暗記している星見達は雨の帳 をものともせずに突き進んだ。
気が付くと砂漠の尾根を走る一団の左側方がそぎ落とされたように深くえぐれている場所に出た。急峻な崖の底は平たく、彼方まで広がっている。
「枯れ河か」
麗射のつぶやきとほぼ同時だった。轟音とともに左手の方から白波を吹き上げて濁流が押し寄せてきた。熱波によって干上がっている細かな砂の大地の表面は固く、水を吸収しない。そのため少量の雨でも地表を滑り、濁流となる。おまけにここいらはとりわけ低いのだろう、周りの水が一気に流れ込んできた。
見る見るうちに枯れ河を流れる水はかさが増し、渦を巻き始める。まるで何匹もの大蛇が絡み合っているように、水流が重なり合いながらしぶきを上げて襲ってきた。
雨で足場が悪い上に、砂が吹きだまって高くなっている場所はけっして広くはない。それも刻一刻削り取られて、濁流に流されて行く。
視界の悪い中を一団は駱駝を駆り疾走した。
突然尾根の一部が崩れ、足を取られた清那の駱駝が転倒した。騎乗巧者の清那だが、強行軍で体力が消耗していたのだろう、駱駝から放り出されてもんどりうって砂の崖を転げ落ちる。何かを掴もうと手を伸ばすが、広げた指は勢いに負けてむなしく空を掴むのみ。一瞬のうちに少年は流れにのみ込まれた。
なんとか水の流れに抗おうと手足を動かすも、銀色の髪がなすすべもなく流されていく。
「陸者 は持ってろ」
麗射の叫びと共に、飛び込もうとした牙蘭の手に束ねた縄が飛んできた。駱駝から落ちても遭難しないように縄束の片方を身体に結び付けていたらしい。麗射が飛び込んだ後を追うようにしゅるしゅると縄が水の中に引きずり込まれていく。
牙蘭は唇を震わせながら、見開いた目を血走らせて縄の端を自らの身体に結んだ。
すでに彼らの視界の中から二人の姿は消え去っている。
短いが、永劫にも感じられる時間。
急に、がくんという衝撃が牙蘭を襲い、屈強なその体が前のめりになった。引きずられまいと死に物狂いで仲間たちが支える。
びくん、びくん。
何かを合図するように縄が引っ張られた。
「ひ、引くぞ」
濁流との力比べは、天帝のご加護か、最終的には人間に勝利がもたらされた。
川面にずぶ濡れの黒髪が浮かび上がった。蒼白な顔をした公子をがっちりと脇にかかえている。砂の上に横たえられた公子はぐったりと砂の上に横たわった。
「息をして無いぞ」レドウィンが叫ぶ。「脈が触れない」
ふらつきながら麗射が人垣をかきわけ清那の横に膝をついた。清那の鼻をつまむと顎を軽く上げ、大きく息を吸い込んだ後、青くなった唇に吹き込んだ。
波州育ちの男たちは自然と身についているのであろう。すぐさま美蓮もひざまずくと公子の胸を重ねた掌で押し始めた。
皆無言で立ちすくむ。
数回呼吸を入れたところで清那は身じろぎをすると、せき込んだ。
「真秀――」
長いまつげが震えて、瞼が開き青みがかった紫の瞳が現れた。清那は何が起こったのか理解できないといった顔で、血相を変えて覗き込む人々を見返した。
「助かった」
うめくように牙蘭がつぶやく。皆が安堵の言葉を漏らす中、星見が大声で叫んだ。
「すすめ、すすめ。砂の崖が崩れかけているまだここは危ない。もっと高いところに進め」
牙蘭は朦朧とした清那を抱きかかえ、駱駝に乗る。皆それぞれの駱駝に散って先導する星見を追った。
星見と並走したレドウィンが叫ぶ。
「奴らはこの枯れ河を行ったのか?」
「枯れ河にそって小さな井戸があるので、ここを通って行っているだろう」
「ちくしょう、間に合わなかったか」
その時、風に乗ってかすかに声が聞こえてきた。
「助けて、って言ってる」
麗射の顔がこわばった。
「旦那様たち、あれです、あれ」
星見達が指をさす方向に激しい流れの河に取り残された洲があり、そこにうごめく小さな人影がこちらを向いて手を振っているのが見えた。
「玲斗たちだ」
洲は少しずつ水に削られて小さくなりつつあった。
雨が降って足止めをされたところにいきなり水が来て、慌てて少し高い洲に避難したのだろうか、玲斗達の周りに荷物が散らばっている。駱駝たちは逃げ去ったのか、姿は見えない。
「まずい、ここは龍の爪痕のあたりだ」
「龍の爪痕?」
レドウィンの言葉を麗射が聞き返す。
「青い龍が天から墜落した場所だ。まるで爪痕のように蛇行した二筋の深いえぐれがある。日中は谷底のように陰になってしのぎやすい場所だが、ひとたび河になると渦を伴う濁流が走る場所だ」
レドウィンが険しい表情で言った。洲までの距離は長く、この流れを小舟で横断するのは自殺行為と思われた。
瞬く間にうす暗くなった空の上に、太い絵筆を走らせたような一筋の雷光が浮かび上がった。人の顔が見えなくなるほど、あたりが真っ白に輝く
ほぼ同時に砂漠をつんざく大音響が響き渡り、空気がびりびりと震えた。
「神の
レドウィンが叫んだ。
肩にはらはらと糸の様な雨があたったかと思うと、いきなり大地を鞭でたたくように大粒の雨が降り出した。
「来た、雨だっ」
レドウィンが叫ぶ。
「枯れ河を避けて少しでも高いところに急げ、全速力だ」
泥と化した表土に足を取られつつ、全員我に返って無我夢中で駱駝を走らせる。鉄砲水が来れば押し流されて命を失う危険がある、切羽詰まった状況に夕陽の予言が当たったと快哉を叫ぶものは誰もいなかった。
地形を暗記している星見達は雨の
気が付くと砂漠の尾根を走る一団の左側方がそぎ落とされたように深くえぐれている場所に出た。急峻な崖の底は平たく、彼方まで広がっている。
「枯れ河か」
麗射のつぶやきとほぼ同時だった。轟音とともに左手の方から白波を吹き上げて濁流が押し寄せてきた。熱波によって干上がっている細かな砂の大地の表面は固く、水を吸収しない。そのため少量の雨でも地表を滑り、濁流となる。おまけにここいらはとりわけ低いのだろう、周りの水が一気に流れ込んできた。
見る見るうちに枯れ河を流れる水はかさが増し、渦を巻き始める。まるで何匹もの大蛇が絡み合っているように、水流が重なり合いながらしぶきを上げて襲ってきた。
雨で足場が悪い上に、砂が吹きだまって高くなっている場所はけっして広くはない。それも刻一刻削り取られて、濁流に流されて行く。
視界の悪い中を一団は駱駝を駆り疾走した。
突然尾根の一部が崩れ、足を取られた清那の駱駝が転倒した。騎乗巧者の清那だが、強行軍で体力が消耗していたのだろう、駱駝から放り出されてもんどりうって砂の崖を転げ落ちる。何かを掴もうと手を伸ばすが、広げた指は勢いに負けてむなしく空を掴むのみ。一瞬のうちに少年は流れにのみ込まれた。
なんとか水の流れに抗おうと手足を動かすも、銀色の髪がなすすべもなく流されていく。
「
麗射の叫びと共に、飛び込もうとした牙蘭の手に束ねた縄が飛んできた。駱駝から落ちても遭難しないように縄束の片方を身体に結び付けていたらしい。麗射が飛び込んだ後を追うようにしゅるしゅると縄が水の中に引きずり込まれていく。
牙蘭は唇を震わせながら、見開いた目を血走らせて縄の端を自らの身体に結んだ。
すでに彼らの視界の中から二人の姿は消え去っている。
短いが、永劫にも感じられる時間。
急に、がくんという衝撃が牙蘭を襲い、屈強なその体が前のめりになった。引きずられまいと死に物狂いで仲間たちが支える。
びくん、びくん。
何かを合図するように縄が引っ張られた。
「ひ、引くぞ」
濁流との力比べは、天帝のご加護か、最終的には人間に勝利がもたらされた。
川面にずぶ濡れの黒髪が浮かび上がった。蒼白な顔をした公子をがっちりと脇にかかえている。砂の上に横たえられた公子はぐったりと砂の上に横たわった。
「息をして無いぞ」レドウィンが叫ぶ。「脈が触れない」
ふらつきながら麗射が人垣をかきわけ清那の横に膝をついた。清那の鼻をつまむと顎を軽く上げ、大きく息を吸い込んだ後、青くなった唇に吹き込んだ。
波州育ちの男たちは自然と身についているのであろう。すぐさま美蓮もひざまずくと公子の胸を重ねた掌で押し始めた。
皆無言で立ちすくむ。
数回呼吸を入れたところで清那は身じろぎをすると、せき込んだ。
「真秀――」
長いまつげが震えて、瞼が開き青みがかった紫の瞳が現れた。清那は何が起こったのか理解できないといった顔で、血相を変えて覗き込む人々を見返した。
「助かった」
うめくように牙蘭がつぶやく。皆が安堵の言葉を漏らす中、星見が大声で叫んだ。
「すすめ、すすめ。砂の崖が崩れかけているまだここは危ない。もっと高いところに進め」
牙蘭は朦朧とした清那を抱きかかえ、駱駝に乗る。皆それぞれの駱駝に散って先導する星見を追った。
星見と並走したレドウィンが叫ぶ。
「奴らはこの枯れ河を行ったのか?」
「枯れ河にそって小さな井戸があるので、ここを通って行っているだろう」
「ちくしょう、間に合わなかったか」
その時、風に乗ってかすかに声が聞こえてきた。
「助けて、って言ってる」
麗射の顔がこわばった。
「旦那様たち、あれです、あれ」
星見達が指をさす方向に激しい流れの河に取り残された洲があり、そこにうごめく小さな人影がこちらを向いて手を振っているのが見えた。
「玲斗たちだ」
洲は少しずつ水に削られて小さくなりつつあった。
雨が降って足止めをされたところにいきなり水が来て、慌てて少し高い洲に避難したのだろうか、玲斗達の周りに荷物が散らばっている。駱駝たちは逃げ去ったのか、姿は見えない。
「まずい、ここは龍の爪痕のあたりだ」
「龍の爪痕?」
レドウィンの言葉を麗射が聞き返す。
「青い龍が天から墜落した場所だ。まるで爪痕のように蛇行した二筋の深いえぐれがある。日中は谷底のように陰になってしのぎやすい場所だが、ひとたび河になると渦を伴う濁流が走る場所だ」
レドウィンが険しい表情で言った。洲までの距離は長く、この流れを小舟で横断するのは自殺行為と思われた。