第103話 侵攻
文字数 3,582文字
公家の別邸は、珠林のものと負けず劣らず大きい壮麗な建物で、凜とした雰囲気の本邸とは違い、贅を尽くした装飾で埋め尽くされている。叡州公はこの美しい別邸がいたくお気に入りで、公子の頃は年の半分をここで過ごし、美男、美女と浮名を流していた。
主亡き後、そこは煉州軍に接収され、作戦本部として使われている。
叡州公の御座所、宗主の間に置かれている
そして斬常の左右には、牙蘭を始めとした主だった武人が壁に沿ってずらりと並んでいた。彼らは、この贅を尽くした美しい居室に血で汚れたマント、泥だらけの靴という出で立ちそのままで上がり込んでいた。輝いていた床は泥が作る足跡で埋め尽くされ、壁も服が擦れるたびにその照りを失っていく。しかし、その姿を斬常はとがめること無く、むしろ満足そうに眺めていた。
各地から呼び寄せられた将が一同に会して並んでいるその中で、斬常の前で片膝をついて背を丸めて控えているのは、前線から斬常に呼び出された
彼は、派遣された
「武奏。麦幻の戦いでは十分な手柄を得られなかったお主に、今一度挽回の機会を与えよう」
普通であれば、怒り心頭の斬常に切り捨てられてもおかしくない場面であったが、山賊時代からの部下である武奏には斬常も思い入れがあるらしい。斬常は冷酷な男だが、ときに妙な情を見せることがあった。
「ははっ、ありがたき幸せ」
「今、叡州の民は、身の程知らずにも我が軍に反旗を翻している。叡州はその輪郭を西の銀嶺山脈、そして南の海岸に面する絶壁、そして我が国境と接す北の森林、そして東の砂漠に囲まれている。東の砂漠から側面攻撃するためには、オアシス『波間の真珠』が邪魔だ。もしあそこから背後を突かれれば我が軍とて総崩れになるやもしれん。あのオアシスさえ我が物とすれば、東からの恒常的な攻めが可能となり、叡州
「斬常様、是非、是非とも私にその任を」
食いつかんばかりに叫ぶ武奏に斬常は、にやりと笑いかける。
「なあに、警備兵と言っても長年あのぬるま湯のような環境で安穏としていた奴らだ。いざ戦いとなってどのくらいの戦力になるかは甚だ疑問だ。後は、そうだな、こまっしゃくれた銀髪の軍師が一人居るくらいだろう」
ちらりと牙蘭の方を見た斬常。だが、筋骨隆々とした武人は無表情のまま、賊の侵入を警戒するように入り口を睨んでいるのみであった。
「兵力は、そうだな500人も居ないであろう。武奏、お前なら何日で攻略できる?」
「はっ」顔の下半分に針金のようなひげを蓄えた男は、少しあごをひねって答える。「3日もあれば」
「よし」
斬常が満足そうにうなずく。
「武奏、お前に『真珠の都』攻略を任せる。見事、あの
挨拶もそこそこに、大柄な武将は足音も荒く出て行った。
「さてと」
斬常はさらに周囲を見回す。
立ち並ぶ武将の末席に居た、細い男を見ると彼は叫んだ。「氷炎殿」
「ははっ」呼ばれて前に進み出た氷炎は左膝をついて、腰を落とす。
「オアシスで狙うべきものはもう一つあります。あそこは、開学以来買い集めた何千もの美術品が保管されています。氷炎殿にはその財を手に入れ、我が煉州に戦利品として持ち帰っていただきたい。これから煉州が三州に冠たる芸術の集積地になるために」
煉州は山がちで、貧しい州であり、文化的にも叡州に大きな差をつけられていた。煉州の人間は、どことなく叡州人に対して学問的な劣等感を持っている。
それは、斬常とて例外では無い。
叡州を併呑し、文化的知識のある者達を移住させ、いつかは煉州の人民が叡州を見下せるような文化圏を作り上げるのも彼の野望の一つであった。
「あやつらは、きっとめぼしい美術品を持って逃げるつもりでしょう。いきおい、行軍も遅くなります。氷炎殿は、彼らの行列を襲い、美術品を奪っていただきたい」
姿勢を低くしてひざまずく氷炎の頭の上から、斬常の言葉が降る。
「どうせ、荷運びは住人達。刀をぎらつかせれば、抵抗もせずにとっとと逃げるでしょう。追う必要はありません、高価なお宝だけ持って帰ってくださればよいのです。学のある氷炎殿なら、どの品が高くてどの品が安いかもおわかりだろう」
そこで斬常は薄い笑い声を上げた。
「いくら戦が苦手な氷炎殿でも、これぐらいはおできになるだろう。我々は戦に忙しいのです。お任せしましたよ」
慇懃無礼な斬常の言葉ととも、居並ぶ諸将からも失笑が漏れる。
氷炎の後頭部が熱くなった。
斬常の命を帯びて、武奏が軍を上げたのはそれから2日後であった。
江南からオアシスにかかる旅程は、直線距離で20日。
砂漠に入ってからは15日が必要であった。武奏軍は総勢1000人、選りすぐりの弓術隊200人と、槍と刀に分かれた屈強な歩兵800人の編成である。途中、武奏は少量の塩分が含まれているため「砂漠の涙」と呼ばれる井戸のある場所で陣を休め、ここで斥候を出しオアシスの様子を探らせた。
「住民約2000人は10日前にオアシスを立った様です。さすれば、オアシスに残るのは素人に毛の生えたような500人足らず、攻略は赤子の手をひねるよりも簡単かと」
探索を終えた斥候は、武奏に告げる。
「住民どもの中には老人や子供も居るだろう。行軍速度も遅いに違いない。こちらは骨の折れる仕事では無い、役立たずの氷炎殿でも足止めできるであろう」
武奏は高らかに笑った。
「武奏殿、オアシスからは我々に向けて迎撃隊が出発しています。しかし、笑止千万。なんと数は300人足らず。彼らもこの青砂漠に陣を構えたようです」
「どのあたりだ。地図を見せろ」
斬常の話では銀色の髪の軍師がいるという。まだほんの若造らしいが、斬常が敵について注意を促すのは珍しく、油断はならないと武奏は眉をひそめた。
斥候は、青砂漠の南、窪地になった低い場所を指さした。その辺りは窪地が多く、それぞれの高低差が激しい。青い龍が天から落ちたときにその爪痕が残ったという伝説がある二本の大きなえぐれが南北に縦走している地形の端っこであった。
だが、そこよりも南、オアシス側に寄ったところには、砂の高く積もった平坦な場所がある。この辺りは青い巨岩が多く、岩の群れに風が止められ、小高い丘になっている場所がいくつかあった。軍を敷くにも良いし、何より高所から見下ろすと相手の動向が一目瞭然である。
夜陰に紛れて、敵を出し抜きこの小高い丘を占拠すれば良い。
そうすれば、相手は太陽に向かっての攻撃になる。
武奏は口を大きく開けて、腹の底から笑い声を上げた。
「わしがここに最終的な陣をはるのはいくら素人でも解るだろうに。いにしえの軍学書にも『
楽しげに声を上げた後、武奏ははた、と手を打った。
「斬常殿に文を送ろう。我、勝ちたり。とな」
再び武奏は大きな笑い声を上げた。
「斬常殿、武奏殿から伝書鳩が文を持って参りました」
霧亜が、斬常に小さく折りたたまれた文を渡す。
「ふん、気の早い奴め。どうせ戦う前から勝った気でいるのだろう。『画家ふぜいの用兵は笑止千万』と書いてある。敵軍は陽向の陣の不利を知らず。我、勝ちたり……」
斬常の顔が曇る。
「清那が陽向の陣の不利を知らないわけがない。あえてその布陣を選んだとしたら……霧亜っ」
「はっ」
「すぐに武奏に援軍を送れ。……もう手遅れかもしれんが」
斬常はつぶやいて天を見上げる。
彼には、研ぎ澄まされた勝負感がある。
その天性の才能が、彼に不吉を告げていた。
5日後。
援軍よりも早く、不眠不休で青砂漠に着いた煉州軍の斥候は信じられない光景を見た。
散乱する弓矢の残骸、そして、累々と砂漠を覆う遺体。
それはすべて自軍の兵士達だった。