第80話 火花
文字数 2,952文字
「に、逃げるぞ、麗射」
玲斗が馬から飛び降りて、麗射を引きずって自分の馬に乗せる。高揚により無理矢理押し込めていた恐怖が戻ってきたのか、玲斗の手は小刻みに震えていた。
「俺の背中に掴まれ」
「助かった、ありがとう」
麗射の言葉に返事もせず、玲斗は手綱を絞り手を大きく前後に動かした。
馬は飛び出すようにその場を離れる。
「牙蘭……」
首から下のかなりの部分を鎧で覆った霧亜とは対照的に、馬の速度を上げるためであろうか、牙蘭は胴のみに申し訳程度の薄い鎧を着けただけで、筋骨隆々としたむき出しの肩から腕をさらけ出していた。
麗射にできることは、彼の無事をひたすら祈るのみであった。
牙蘭の剣と霧亜の十文字槍。強い力が均衡して、二つの武器は空中で交差したまま止まっていた。しかし、ほどなく双方とも小刻みに震えだし、いきなり跳ね上がるように離れる。
そして再び突き出される槍と円弧を描いて打ちかかる剣、二つの武器は耳に刺さるような高い音を立てて火花を散らした。
動きがあまりにも速すぎて、近くに居る麗射でさえも飛び散る火花しか目に入らない。
一つでも見切り損ねたら、その場で命を失う。
その緊張感が霧亜と牙蘭から、表情を奪っていた。
時折、お互いの腹の底から吐き出される、はっ、という荒い息が聞こえるのみ。
全軍は時を止めたように静まりかえり、両人の一騎打ちを固唾を飲んで見守っていた。
馬も主人と一体になったかのように動きながら、主人の攻防を助ける。互角に見えたが、鎧の重さ分、牙蘭の馬の動きにほんの少し余裕があった。
打ち合うこと十数打、牙蘭の激しい打撃の衝撃を受けた霧亜の馬がわずかにひるんで動きを止めた。その隙を逃さず牙蘭は霧亜の槍の下に潜り込むようにして間合いを詰める。距離がある場合には槍が有利だが、距離が詰まると牙蘭の太い長剣の威力が物を言う。むき出しの牙蘭の肩の肉が盛り上がり、腰のひねりとともに剣に凄まじい力を与えた。
ガツッ。
霧亜の槍が真二つに割れて弾け飛ぶ。
すかさず打ち込む牙蘭。しかし左手で肩の剣を引き抜いた霧亜はすんでの所で牙蘭の剣をたたきのめした。牙蘭の体が大きく揺れるが、霧亜の次の打ち込みをすかさず剣で跳ね返した。
息をのんだ全軍からほう、という大きなため息が上がる。
間髪入れず、再び霧亜が鋭く牙蘭に切り込む。
しかし、両手で振りぬいた牙蘭の剣は霧亜の剣の柄元を捉えるとそのままへし折った。
霧亜の目が大きく見開かれる。彼の手には剣の柄しか残されていなかった。
牙蘭の青光りする剣が、霧亜の首に向かって振り下ろされる。
噴き出す血しぶきに砂漠が染まる。
誰の頭にもその光景が浮かんだが、青い剣は霧亜の首の手前でピタリと止まっていた。
霧亜の動きが止まったのを確認して、牙蘭は剣を引くと挨拶するように自分の額に縦に当てると、そのまま剣を鞘に収めた。
全軍からため息とも悲嘆ともとれる怒号が湧き上がる。
そして、それはいつの間にか拍手に変わり、さざ波のように両軍に広がっていった。
「霧亜を負かすとは、敵ながらなかなか腕のある武人だな。我が配下に欲しいものだ」
斬常は蛇のような目でじっと牙蘭を眺めると、ニヤリと口角を上げた。
「イラムは戻った。まだ戦いの火蓋を切る時では無い。さあ砦に戻るぞ、霧亜に知らせろ」
斬常の命で角笛が高らかに吹き鳴らされる。
ほぼ同時に退却を命じる銅鑼が王室軍から響いた。
荒野に対峙する二人の武人は、無言のままお互いの馬首を自陣に向けた。
「見事であった、牙蘭」
剴斗は大きく両腕を広げ、満面の笑みを浮かべ自ら馬を進めて牙蘭を迎えた。
「仕留められず、無様なところをお見せいたしました」
「なんの。あそこで貴殿が相手を屠 っていれば今ここで戦いが始まってしまったであろう。ここは奴らの本所地に近すぎる、それにまだ我らも奴らとの全面戦争に入る準備ができておらぬ。今日の奴らの動きで、反乱軍はかなり鍛えられ上げていることがわかった。不用意に戦えば、思わぬ逆襲を受けるかも知れん。まずは反逆者の奴らの戦力と、どのくらい水面下に勢力を広げているのかじっくり検討して対応をするのが得策だ」
剴斗はチラリと麗射と清那を振り返った。
「公子達がその情報を持って帰って来てくれたであろう。王に進言せねば、決して侮れる相手ではないという事をな」
剴斗の視線は少し離れたところで手当を受ける我が息子に向けられる。
「煉州は程なく戦乱の地となろう」
玲斗は傷口に酒を吹き付けられ、臆面も無く泣き叫んでいる。
「実力もないくせに、見栄っ張りな奴め」
止めるのも聞かず、単騎で霧亜に向かったその後ろ姿を剴斗は苦々しく思い浮かべる。濁流で仲間を無くしたその恥辱の埋め合わせであろうか。勝算もないくせに死地に飛び込むその姿は滑稽を通り越して痛々しくすらあった。
あの瞬間、剴斗は息子にはもう会うことは無いと思った。止めなかったのは、命をかけた叫びを感じたからだ。きっと玲斗は自らがそのような声を上げたとは思っていないだろう、それは親のみに聞こえる無言の叫び。剴斗に認めて欲しいという渇望の叫びだった。
そんなにわしに褒めて欲しいか。
「敵は、剣の達人でした。私が勝てたのは、相手の剣より我が古剣が堅牢だったことと、剣の束近くに細い部分があったからで――」
剴斗は牙蘭の言葉を手で遮ると、口元に諦めたような笑みを浮かべて首を振った。
「見ての通り、あいつは武人の器ではない。この州をさっさと出て行かせねば」
玲斗にやれる賞賛は無い。しかし、それはけっして親子の情が無いということではなかった。
いや、むしろ引導を渡すことこそが親としての自分がなすべき事だと剴斗は思っている。
「この家に生まれたのが、あいつの不幸だ」
そうつぶやくと、剴斗は天を仰いだ。
玉座の間の黒く焼けただれた壁面を、口をゆがめ額に青筋を立てて斬常は見ていた。
朝陽が差し込むと焦点を結ばせるよう、絶妙に大きな玉の位置が変えられており、その先には激しく燃えた黒い布、そして枠の一部を残して焼失した油絵が続いていた。
壁面を飾っていた憂いを帯びた美女はすでにない。
「あの小僧を侮りすぎたわ」
まだあどけなさを残す少年の美しい顔を思い浮かべて斬常は歯ぎしりした。
天地争を戦った最初の頃は、決まりきった定石しか使わなかった少年が、徐々に選択肢の幅を広げ斬常を翻弄しだした。あまりの飲み込みの良さに危険を感じ、獄に閉じ込めたが遅かったようだ。
使用人達の話では、最初清那を助けたのはイラムの方だったらしい。しかし、途中から奴は味方である彼女に刃を向け、まんまと脱走した。
まるで手合わせした初日に斬常が打った、味方の駒を屠りその力を利用した導師駒のようなやり口。奴は品の良いお坊ちゃまには思いも付かないようなずるさや、冷酷さ。勝つためには手段を選ばないという覚悟まで学んで行ったようだ。
斬常は血走った目で無残に焼けただれた壁面を見る。
「しかし、このままでは終わらせぬ。あやつ、わしの手の内からまんまと逃げおおしたと思っているだろうが、いつかその身をもってこの償いをさせてやるから覚悟しておけ」
歯が食い込んだ唇が切れ、血が顎に伝わっていった。
玲斗が馬から飛び降りて、麗射を引きずって自分の馬に乗せる。高揚により無理矢理押し込めていた恐怖が戻ってきたのか、玲斗の手は小刻みに震えていた。
「俺の背中に掴まれ」
「助かった、ありがとう」
麗射の言葉に返事もせず、玲斗は手綱を絞り手を大きく前後に動かした。
馬は飛び出すようにその場を離れる。
「牙蘭……」
首から下のかなりの部分を鎧で覆った霧亜とは対照的に、馬の速度を上げるためであろうか、牙蘭は胴のみに申し訳程度の薄い鎧を着けただけで、筋骨隆々としたむき出しの肩から腕をさらけ出していた。
麗射にできることは、彼の無事をひたすら祈るのみであった。
牙蘭の剣と霧亜の十文字槍。強い力が均衡して、二つの武器は空中で交差したまま止まっていた。しかし、ほどなく双方とも小刻みに震えだし、いきなり跳ね上がるように離れる。
そして再び突き出される槍と円弧を描いて打ちかかる剣、二つの武器は耳に刺さるような高い音を立てて火花を散らした。
動きがあまりにも速すぎて、近くに居る麗射でさえも飛び散る火花しか目に入らない。
一つでも見切り損ねたら、その場で命を失う。
その緊張感が霧亜と牙蘭から、表情を奪っていた。
時折、お互いの腹の底から吐き出される、はっ、という荒い息が聞こえるのみ。
全軍は時を止めたように静まりかえり、両人の一騎打ちを固唾を飲んで見守っていた。
馬も主人と一体になったかのように動きながら、主人の攻防を助ける。互角に見えたが、鎧の重さ分、牙蘭の馬の動きにほんの少し余裕があった。
打ち合うこと十数打、牙蘭の激しい打撃の衝撃を受けた霧亜の馬がわずかにひるんで動きを止めた。その隙を逃さず牙蘭は霧亜の槍の下に潜り込むようにして間合いを詰める。距離がある場合には槍が有利だが、距離が詰まると牙蘭の太い長剣の威力が物を言う。むき出しの牙蘭の肩の肉が盛り上がり、腰のひねりとともに剣に凄まじい力を与えた。
ガツッ。
霧亜の槍が真二つに割れて弾け飛ぶ。
すかさず打ち込む牙蘭。しかし左手で肩の剣を引き抜いた霧亜はすんでの所で牙蘭の剣をたたきのめした。牙蘭の体が大きく揺れるが、霧亜の次の打ち込みをすかさず剣で跳ね返した。
息をのんだ全軍からほう、という大きなため息が上がる。
間髪入れず、再び霧亜が鋭く牙蘭に切り込む。
しかし、両手で振りぬいた牙蘭の剣は霧亜の剣の柄元を捉えるとそのままへし折った。
霧亜の目が大きく見開かれる。彼の手には剣の柄しか残されていなかった。
牙蘭の青光りする剣が、霧亜の首に向かって振り下ろされる。
噴き出す血しぶきに砂漠が染まる。
誰の頭にもその光景が浮かんだが、青い剣は霧亜の首の手前でピタリと止まっていた。
霧亜の動きが止まったのを確認して、牙蘭は剣を引くと挨拶するように自分の額に縦に当てると、そのまま剣を鞘に収めた。
全軍からため息とも悲嘆ともとれる怒号が湧き上がる。
そして、それはいつの間にか拍手に変わり、さざ波のように両軍に広がっていった。
「霧亜を負かすとは、敵ながらなかなか腕のある武人だな。我が配下に欲しいものだ」
斬常は蛇のような目でじっと牙蘭を眺めると、ニヤリと口角を上げた。
「イラムは戻った。まだ戦いの火蓋を切る時では無い。さあ砦に戻るぞ、霧亜に知らせろ」
斬常の命で角笛が高らかに吹き鳴らされる。
ほぼ同時に退却を命じる銅鑼が王室軍から響いた。
荒野に対峙する二人の武人は、無言のままお互いの馬首を自陣に向けた。
「見事であった、牙蘭」
剴斗は大きく両腕を広げ、満面の笑みを浮かべ自ら馬を進めて牙蘭を迎えた。
「仕留められず、無様なところをお見せいたしました」
「なんの。あそこで貴殿が相手を
剴斗はチラリと麗射と清那を振り返った。
「公子達がその情報を持って帰って来てくれたであろう。王に進言せねば、決して侮れる相手ではないという事をな」
剴斗の視線は少し離れたところで手当を受ける我が息子に向けられる。
「煉州は程なく戦乱の地となろう」
玲斗は傷口に酒を吹き付けられ、臆面も無く泣き叫んでいる。
「実力もないくせに、見栄っ張りな奴め」
止めるのも聞かず、単騎で霧亜に向かったその後ろ姿を剴斗は苦々しく思い浮かべる。濁流で仲間を無くしたその恥辱の埋め合わせであろうか。勝算もないくせに死地に飛び込むその姿は滑稽を通り越して痛々しくすらあった。
あの瞬間、剴斗は息子にはもう会うことは無いと思った。止めなかったのは、命をかけた叫びを感じたからだ。きっと玲斗は自らがそのような声を上げたとは思っていないだろう、それは親のみに聞こえる無言の叫び。剴斗に認めて欲しいという渇望の叫びだった。
そんなにわしに褒めて欲しいか。
「敵は、剣の達人でした。私が勝てたのは、相手の剣より我が古剣が堅牢だったことと、剣の束近くに細い部分があったからで――」
剴斗は牙蘭の言葉を手で遮ると、口元に諦めたような笑みを浮かべて首を振った。
「見ての通り、あいつは武人の器ではない。この州をさっさと出て行かせねば」
玲斗にやれる賞賛は無い。しかし、それはけっして親子の情が無いということではなかった。
いや、むしろ引導を渡すことこそが親としての自分がなすべき事だと剴斗は思っている。
「この家に生まれたのが、あいつの不幸だ」
そうつぶやくと、剴斗は天を仰いだ。
玉座の間の黒く焼けただれた壁面を、口をゆがめ額に青筋を立てて斬常は見ていた。
朝陽が差し込むと焦点を結ばせるよう、絶妙に大きな玉の位置が変えられており、その先には激しく燃えた黒い布、そして枠の一部を残して焼失した油絵が続いていた。
壁面を飾っていた憂いを帯びた美女はすでにない。
「あの小僧を侮りすぎたわ」
まだあどけなさを残す少年の美しい顔を思い浮かべて斬常は歯ぎしりした。
天地争を戦った最初の頃は、決まりきった定石しか使わなかった少年が、徐々に選択肢の幅を広げ斬常を翻弄しだした。あまりの飲み込みの良さに危険を感じ、獄に閉じ込めたが遅かったようだ。
使用人達の話では、最初清那を助けたのはイラムの方だったらしい。しかし、途中から奴は味方である彼女に刃を向け、まんまと脱走した。
まるで手合わせした初日に斬常が打った、味方の駒を屠りその力を利用した導師駒のようなやり口。奴は品の良いお坊ちゃまには思いも付かないようなずるさや、冷酷さ。勝つためには手段を選ばないという覚悟まで学んで行ったようだ。
斬常は血走った目で無残に焼けただれた壁面を見る。
「しかし、このままでは終わらせぬ。あやつ、わしの手の内からまんまと逃げおおしたと思っているだろうが、いつかその身をもってこの償いをさせてやるから覚悟しておけ」
歯が食い込んだ唇が切れ、血が顎に伝わっていった。