第69話 天女と天龍

文字数 3,303文字

「お前、氷炎様と知り合いだったのか」
 氷炎の居室から、兵舎に戻ると兵士たちが麗射を取り囲んだ。
「波州に行く途中で捕まった氷炎は波間の真珠の獄に入れられてね、そのとき一緒だったんだよ」
「て、ことはお前さん罪人だったのか」
 兵士たちはまた別の意味で麗射に関心をもったようだった。壁画の顛末を離すと、皆大笑いして『落書きで捕まった男』のうわさは一気に広がっていった。
 日々の教練は麗射達20人に一人くらいに上官がつくが、5日に一度くらい上官を束ねる将が見回りにやってきた。霧亜(キリア)と呼ばれるその将はすらりとした長身で、痩身ながらもちょっとした身のこなしからバネのような筋肉がその服の下に隠されていることが見て取れた。特筆すべきは右目にかけられた黒い眼帯で、金髪の髪がふわりと覆っている。しかしその横からチラリと覗く刀傷が、青緑に輝く左目の迫力をいや増していた。
「お前が噂に聞く落書き男か――」
 その日霧亜は二人一組で棒術の訓練をしていた麗射の横で立ち止まった。金髪かこげ茶系の頭髪が多い兵士のなかにあって、麗射を特定するのは難しいことではない。
「下手くそだな。俺が稽古をつけてやる」
 深い青緑の目が麗射を見据える。彼は麗射の相手をしていた男の棒を受け取ると、霧亜は片手で棒を握った。
「かかってこい」
 麗射が打ちかかったその瞬間、霧亜の棒が軽く動いた。
 打ち下ろす間もなく、麗射の首元には霧亜の棒が付きつけられていた。
「ふん、戦力にはならんな」
 吐き捨てるように言うと、霧亜は棒を兵士に投げると踵を返した。彼の言う稽古はそれで終了したようだった。
「あの霧亜様が我々と手合わせするなんて、こんなことってないぞ。お前、そんなに有名人なのか」
 弓の名手である尖羽(せんぱ)が言う
「さあな、何かの気まぐれだろう」
 麗射も自分を見た霧亜の探るような目を思い出しながら首をかしげる。
「おい、炭が無くなりそうだ。だれか炭小屋から持ってこい」
「あ、俺行きます」
 麗射が手を挙げる。反乱軍の砦の構造を知るために麗射は許される限りいろいろな場所を歩き回ることにしていた。幸いなことに氷炎との関係を知られているため、彼は早々に一人での行動を黙認されている。
 炭小屋は教練の場所とは少し離れており、山の中腹にあった。小高い山道を歩きながら見下ろすと、砦はぐるりと厚みのある木の塀で覆われているのがわかる。残念ながら高くてよじ登れそうも無いし、簡単に破れるようなしろものではなかった。
 炭小屋でかごいっぱいに炭を入れる。重い荷を背中に負ったままの帰途は下りとはいえ、腰と足にずっしりとした疲労を蓄積した。
「ここで一休みだ」
 山道の途中には清水の流れ落ちる場所があり、その鮮烈な水でのどを潤すことは重い荷を担いで帰る前の唯一の役得であった。
 崖に頬を吸いつけるようにして山肌から流れる水を飲む。炎天下の教練で疲れたせいか、今日の水はいつにもまして甘露に思えた。
ふと麗射は背後にかすかな笑い声が聞こえたような気がして振り向いた。
しかし背後の木立はいつも通り、静まりかえっている。
「幻聴か?」
 再び水を飲み始めた麗射だったが、その時。
「この龍は銀嶺の雫だけではなく、霊峰の湧水まで飲み干すつもりかしら」
麗射はそっと振り向いた。
鈴を転がすような笑い声とともに木々が揺れる。
 そして木立に溶け込むような頭巾付きの緑のマントに全身を包んだ小柄な影が茂みから出てきた。
「き、君は――」
 白い指が頭巾を肩に下ろすと黄金の瀑布のような髪が流れ落ちた。
「お久しぶりです」
 少女は半年前とは明らかに違う大人びた挨拶をすると、マントをつまむと腰をかがめて優美に煉州風のお辞儀をした。でもその悪戯っぽい青い目はあのときのまま、変わっていない。



「天女――」
 そう呟いたまま、麗射は言葉を失う。
 なぜここに。
 な、名前は確か――。
「イラム」
「イラムよ」
 二人の言葉が重なった。少女は唖然としている麗射がおかしいのか、相好を崩して笑った。
 ああ、忘れもしないあの鈴を転がすような声。
 これは幻か。動くと幻が消えてしまいそうで、麗射は固まったまま立ちすくむ。
「覚えていてくれてうれしいわ」
 目の前の少女は、はにかみながらもはっきりとした声で言うと、微笑んだ。
 これは、幻ではない。確信と同時に麗射の口から堰を切ったように言葉があふれ出た。
「忘れるわけない。なんといえばいいのか、いつも、いつも君が助けてくれた。ああ、君は知らないと思うけど。俺の窮地に、いつも君の声が聞こえるんだ」
 しどろもどろの麗射を見つめる少女の目が何度か瞬いた。
「不思議ね。私が悲しい時にはあなたの声が聞こえたわ。そして何度も慰めてくれた。あなたは知らないかもしれないけど」
 二人は吸い寄せられるように、お互いの手を取り合った。
「私たちはあの銀嶺の泉でお互いに心を交換したのかもしれないわ。知らず知らずに、心の一部を相手に預けたのよ。あなたの中には私がいて、そして私の中にはあなたがいた」
 少女の言葉に麗射は頷く。
「き、君はまるで天女のように俺を――」
「あなたは天龍のように私を――」
 守ってくれていた。語尾は見つめあう二人の目の中に消えて行った。
 ただ一度だけ、それも二言三言言葉を交わしただけなのに。これが「運命」というものなのか。手をとりあった時間はわずかであったが、なぜか二人は時の流れを止めて永劫につなぎ続けている感覚に陥っていた。
 どちらからともなく手を離した二人は恥ずかしそうに微笑み合う。
 麗射は頭をかいて、困ったように口を開いた。
「お、俺はきっと君を慰めた天龍ほど立派な人間じゃない。君が想像していてくれた俺とは全然違う人間だ。本当の俺を知ったら、きっと君は失望すると思う」
「もちろん、私も天女ではないわ」イラムが麗射を見つめる。
「でもこれから、知り合っていけばいいわ。きっと私は現実のあなたとも通じ合える気がするの。あるじゃない、初めて会った時からお互いにすうっと溶け込める人って。なにか不思議な力が、おまえと仲良くできる人だぞって教えてくれているような」
 イラムのように気持ちをうまく表現できずに麗射はただ、夢中でうなずくのみ。
「絵は描いているの?」
「俺が絵描きってことをなぜ?」
「見ていたわ、あなたが皆を扇動して壁画を作るのを。皆の気持ちが絵の周りに渦巻いていて楽しかった。本当は、参加したかったけど」
 少女は目を伏せる。しかし、はっとしたように顔を上げ、麗射に詰問した。
「麗射、あなたは絵をやめて、救世軍に入ったの?」
 イラムの一言は急に麗射を現実に引き戻した。反乱軍は主に王室側の人間が使う言葉で、軍内部の人間は自分たちを救世軍と呼んでいる。
「ま、まさか。絵はやめないよ。ここには行きがかり上ーー」
 麗射の言葉を聞いてイラムはほっとしたように微笑んだ。
「よかった」
「君はここの人なの?」
 イラムの表情に影がよぎる。一瞬の躊躇の後、彼女は目を伏せてそっとうなずいた。
 あのオアシスの泉で彼女がミント水を入れてくれた銀のコップ。そこには煉州(れんしゅう)王家の隠し文様が入っていた。てっきり王室に関係があると思っていたのに、反乱軍で暮らしているとは――。
 背後になにか複雑な事情があることを感じ取った麗射は、オアシスで少女が全身を黒いマントで覆って身を隠していたことを思い出した。
「俺は、ここに戦いに来たのではない、美術工芸院の仲間を連れ戻しに来たんだ。仲間は銀の髪の少年で反乱、いや救世軍の一部に連れ去られたらしいんだけど」
 イラムははっ、と顔を上げた。
「知ってるーー」
 そのとき。
「イラム様」
 遠くでかすかに名前を呼ぶ声が聞こえ、イラムの顔に明らかな動揺が走った。
「また、お会いできるかしら麗射。銀の髪のお友達のことは調べておくわ」
「生きているのか、彼は」
「ええ、大切に扱われているわ。では、明日もここで、今頃」
 少女はそれだけ言うと身を翻して茂みの中に戻っていった。
 別れ際の彼女の目は追ってこないでと言っている、麗射はまだ信じられないような心持ちで、彼女の姿が消えた木立をしばらく呆然と眺めていた。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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