第37話 約束
文字数 3,229文字
盛夏の展示が終わると同時に実践画法2の講義が終了となった。暦の上で盛夏は3ヶ月ほど続くがその後半は夏季休暇と決まっている。あと数日で夏の休暇となるこの時期は、学内になにかほっととした空気が漂っている。徐々に院内での麗射の評価も元に戻っており、やっと麗射はひところよりは落ち着いた生活が送れるようになっていた。
心の平安とともに、麗射は久しぶりに部屋の掃除をする気になった。同室のレドウィンがほとんど帰ってこないことをいいことに、麗射のベッドの一角は積んだままの荷物で荒れ放題である。牢獄から持ってきた荷物さえ、ずだ袋に入ったままそのままで放置していていた。そのずだ袋を開けた麗射は思わず小さな叫び声をあげた。
袋に入っていたのは銀のコップだった。
「どう? 真珠の都の採りたてミント水の味は」
流れ出すはちみつ色の豪奢な髪の少女を思い出して麗射は息を飲んだ。
天女の声と少女の声が重なったのだ。
オアシスでミント水を恵んでくれた美しい少女。
麗射は知らず知らずのうちに彼女を天女になぞらえていたのだ。
学院に来てから何度もオアシスに足を運んだが少女の姿を見つけることができない。
まさか、本当に天女だったのでは。それでは二度と会えないではないか、麗射はため息をついた。
「何を物思いにふけっているんだ、麗射」
画材を取りに来たらしいレドウィンが口元に意味ありげな笑みを浮かべて、いつの間にか麗射の後ろに立っていた。部屋にかけられた鏡のせいで、麗射の表情は丸見えだったようだ。
「い、いえ。ちょっと掃除を」
「お、なんだその高級そうな銀器は」
目ざとく麗射の手の中の銀のコップに気が付いたレドウィンは見せろとばかりに手を出した。
「オアシスに来た初日にもらったんです」
「この細かな意匠はただもんじゃない――」
麗射から銀のコップを受け取ったレドウィンは矯めつ眇めつ見分すると大きな声をあげた。
「やっ、お前、ここに煉州王家の隠し紋様が入っているぞ。これは一般人が持てる様なしろものじゃない」
レドウィンは隊商出身だけあって、品物の目利きは確かであった。
それを聞いて麗射も目を丸くする。
「王家ですって、オアシスで会った少女にもらったものですが」
「きっと王家にゆかりのある者だな、どんな関係だ」
レドウィンはにやにや笑いながら麗射にコップを返した。
「ど、どんなって、湖で隣に座っただけの娘で」
麗射は慌てて少女からコップをもらった顛末や、時々少女の声が聞こえる気がすることを説明した。
「だから本当に何の関係もない――」
「まあ、そういうことにしておこう。しかしお互いの魂が呼び合う時、離れていても相手の声が聞こえることがあるらしい。お前、いつか玉の輿に乗るのかもしれんぞ」
そのときはよろしくな、と付け加えてレドウィンは笑いながら画材を抱えて部屋を出て行った。
このコップがそんな高貴なものだったとは
あの時、少女は姿を隠すようにマントを目深にかぶっていた。
いつも麗射の窮地に聞こえる、透き通った凛とした声。
イラムと名乗った、あの少女。またいつか会えるのだろうか。
麗射は窓からの陽ざしにでつやつやと輝く銀のコップをじっと見つめた。
夏の休暇には一部の例外をのぞき慣例としてほとんど課題は出ない。この期間、熱砂の砂漠を横断するのは危険なため、砂漠を縦断して里帰りをする学生たちはほとんどおらず、彼らはのんびりと学院での休暇を満喫していた。オアシスでの彼らの45日間の休みの過ごし方は千差万別で、もちろん自主創作に専念する者もいれば、小遣い稼ぎに精を出すもの、ここぞとばかり好きな女性の家に通うものもいる。変わったところでは、視野を広げるために民家に泊まり込みで商業や農業を習うなど普段できないことを学ぶものもいた。
展覧会が終了後、意を決した麗射はあの革表紙の本のことを尋ねるために何度か清那の講師室を訪ねたが、盛夏の展覧会前に自分の講義が終わった清那は忽然と学内から姿を消していた。彼の居宅は麗射が壁画を作った市場の近くだろうと思われる、訪ねて行こうかとも思ったが、なぜか麗射は自分が訪ねてくることを見越した清那が面会を避けるために学内からいなくなったように感じていた。何の根拠もないが、間違いないと麗射の直感が告げている。
なぜここまで避けられるのか。最初の出会いの時の粗相が尾を引いているのだろうか。清那は根に持つような性格には見えなかったが、鈍感な自分にはわからない何かわけがあるのだろうと麗射は自問自答した。誤解があれば解きたいが、これ以上深入りしては相手にさらなる迷惑がかかる。本の件は心の中で感謝をささげることとして、それ以上送り手の詮索をするのはやめることにした。
そんなある日、制作室に泊りきりであったレドウィンが久しぶりに部屋に戻ってきた。
「夕陽が絵筆をとり始めた」
どうやら夕陽は制作棟の上級生に交じって創作を始めたらしい。制作棟は基本的に誰が使ってもよいのだが、画材も豊富で広いため、卒業間際の最上級生が最優先で使用していた。ただ、留年を繰り返しているだけあって、制作室にはレドウィンをはじめとした夕陽の元同級生がたくさんいる。夕陽の実力は周知の事実であるし、知り合いの多い制作室は彼にとって創作に没頭しやすい環境なのだろう。
夕陽が描き始めると、皆がその周りにあつまり見学の厚い人垣ができる。その中には講師はおろか教授が混じっていることさえあるとレドウィンが嬉しそうに語った。
「呼び捨ては今の内だ。来年の今頃には奴を講師様って呼ばないといけないかもしれないぜ。まあ、そのころ俺はここにはいないけどな」
来春レドウィンは卒業となる。卒業制作も順調で、留年する可能性は極めて低い。
「卒業後はどうするんです?」
「さあ、どうしようかなあ」
レドウィンはくびを傾げた。
「最初は叡州に行って、貴族相手に室内装飾の仕事をしようかと思っていたんだが、昔から芸術が盛んで洗練された叡州は競争率も激しそうだし、波州は田舎であんまり芸術が金になる環境じゃないし、かといって煉州は今政情不安だしなあ」
煉州と聞いて麗射の顔色が変わる。
「反乱軍の勢力が増したらしい。隊商の知人から聞くところによれば、なんでも氷炎というリーダーが戻ったようでな」
「氷炎――」
その名を聞いたとたん、麗射の両の目に熱いものがこみ上げる。
「それだけではない。氷炎を凌駕する、なんか戦上手のすごい将がいるらしい、ええと斬常 とか言ったかな」
――私は戦が得意ではない。
寂し気な表情で語っていた氷炎の姿が目に浮かんだ。
良い片腕ができたのだろうか、崇高な氷炎の精神に共鳴する良き同志ならよいのだが。麗射は遠くで戦う友に思いをはせた。
「それにしても、煉州が早く落ち着いてくれればいいのにな。戦のもたらす死や血の中では、芸術は衰弱してしまう」
そこで、はたと何かに思い至ったのかレドウィンは麗射に真顔で向き直った。
「頼む、麗射。俺はまた卒業制作が忙しくなって制作棟に寝泊まりする。今度はお前が夕陽を守ってやってくれ、あいつに人の血を見せるな、決して」
「え、なぜ――」
答えはなかった。麗射の肩を一つ叩くと、レドウィンはじっと麗射の目を見る。
麗射は引きずられるようにうなずいた。
そのままレドウィンは無言で当座の着替えを入れた布包みを抱えて部屋を出て行った。
「血を見せるな」
麗射は反芻するようにレドウィンとの約束をつぶやく。
夕陽の描いたあの地獄のような光景から麗射は彼の過去に何か重大な事が起こったのではないかという事はうすうす感じていた。が、今のレドウィンの態度からそれは安易に口に出せないほどただならぬことなのだと麗射は思い知らされていた。
心の平安とともに、麗射は久しぶりに部屋の掃除をする気になった。同室のレドウィンがほとんど帰ってこないことをいいことに、麗射のベッドの一角は積んだままの荷物で荒れ放題である。牢獄から持ってきた荷物さえ、ずだ袋に入ったままそのままで放置していていた。そのずだ袋を開けた麗射は思わず小さな叫び声をあげた。
袋に入っていたのは銀のコップだった。
「どう? 真珠の都の採りたてミント水の味は」
流れ出すはちみつ色の豪奢な髪の少女を思い出して麗射は息を飲んだ。
天女の声と少女の声が重なったのだ。
オアシスでミント水を恵んでくれた美しい少女。
麗射は知らず知らずのうちに彼女を天女になぞらえていたのだ。
学院に来てから何度もオアシスに足を運んだが少女の姿を見つけることができない。
まさか、本当に天女だったのでは。それでは二度と会えないではないか、麗射はため息をついた。
「何を物思いにふけっているんだ、麗射」
画材を取りに来たらしいレドウィンが口元に意味ありげな笑みを浮かべて、いつの間にか麗射の後ろに立っていた。部屋にかけられた鏡のせいで、麗射の表情は丸見えだったようだ。
「い、いえ。ちょっと掃除を」
「お、なんだその高級そうな銀器は」
目ざとく麗射の手の中の銀のコップに気が付いたレドウィンは見せろとばかりに手を出した。
「オアシスに来た初日にもらったんです」
「この細かな意匠はただもんじゃない――」
麗射から銀のコップを受け取ったレドウィンは矯めつ眇めつ見分すると大きな声をあげた。
「やっ、お前、ここに煉州王家の隠し紋様が入っているぞ。これは一般人が持てる様なしろものじゃない」
レドウィンは隊商出身だけあって、品物の目利きは確かであった。
それを聞いて麗射も目を丸くする。
「王家ですって、オアシスで会った少女にもらったものですが」
「きっと王家にゆかりのある者だな、どんな関係だ」
レドウィンはにやにや笑いながら麗射にコップを返した。
「ど、どんなって、湖で隣に座っただけの娘で」
麗射は慌てて少女からコップをもらった顛末や、時々少女の声が聞こえる気がすることを説明した。
「だから本当に何の関係もない――」
「まあ、そういうことにしておこう。しかしお互いの魂が呼び合う時、離れていても相手の声が聞こえることがあるらしい。お前、いつか玉の輿に乗るのかもしれんぞ」
そのときはよろしくな、と付け加えてレドウィンは笑いながら画材を抱えて部屋を出て行った。
このコップがそんな高貴なものだったとは
あの時、少女は姿を隠すようにマントを目深にかぶっていた。
いつも麗射の窮地に聞こえる、透き通った凛とした声。
イラムと名乗った、あの少女。またいつか会えるのだろうか。
麗射は窓からの陽ざしにでつやつやと輝く銀のコップをじっと見つめた。
夏の休暇には一部の例外をのぞき慣例としてほとんど課題は出ない。この期間、熱砂の砂漠を横断するのは危険なため、砂漠を縦断して里帰りをする学生たちはほとんどおらず、彼らはのんびりと学院での休暇を満喫していた。オアシスでの彼らの45日間の休みの過ごし方は千差万別で、もちろん自主創作に専念する者もいれば、小遣い稼ぎに精を出すもの、ここぞとばかり好きな女性の家に通うものもいる。変わったところでは、視野を広げるために民家に泊まり込みで商業や農業を習うなど普段できないことを学ぶものもいた。
展覧会が終了後、意を決した麗射はあの革表紙の本のことを尋ねるために何度か清那の講師室を訪ねたが、盛夏の展覧会前に自分の講義が終わった清那は忽然と学内から姿を消していた。彼の居宅は麗射が壁画を作った市場の近くだろうと思われる、訪ねて行こうかとも思ったが、なぜか麗射は自分が訪ねてくることを見越した清那が面会を避けるために学内からいなくなったように感じていた。何の根拠もないが、間違いないと麗射の直感が告げている。
なぜここまで避けられるのか。最初の出会いの時の粗相が尾を引いているのだろうか。清那は根に持つような性格には見えなかったが、鈍感な自分にはわからない何かわけがあるのだろうと麗射は自問自答した。誤解があれば解きたいが、これ以上深入りしては相手にさらなる迷惑がかかる。本の件は心の中で感謝をささげることとして、それ以上送り手の詮索をするのはやめることにした。
そんなある日、制作室に泊りきりであったレドウィンが久しぶりに部屋に戻ってきた。
「夕陽が絵筆をとり始めた」
どうやら夕陽は制作棟の上級生に交じって創作を始めたらしい。制作棟は基本的に誰が使ってもよいのだが、画材も豊富で広いため、卒業間際の最上級生が最優先で使用していた。ただ、留年を繰り返しているだけあって、制作室にはレドウィンをはじめとした夕陽の元同級生がたくさんいる。夕陽の実力は周知の事実であるし、知り合いの多い制作室は彼にとって創作に没頭しやすい環境なのだろう。
夕陽が描き始めると、皆がその周りにあつまり見学の厚い人垣ができる。その中には講師はおろか教授が混じっていることさえあるとレドウィンが嬉しそうに語った。
「呼び捨ては今の内だ。来年の今頃には奴を講師様って呼ばないといけないかもしれないぜ。まあ、そのころ俺はここにはいないけどな」
来春レドウィンは卒業となる。卒業制作も順調で、留年する可能性は極めて低い。
「卒業後はどうするんです?」
「さあ、どうしようかなあ」
レドウィンはくびを傾げた。
「最初は叡州に行って、貴族相手に室内装飾の仕事をしようかと思っていたんだが、昔から芸術が盛んで洗練された叡州は競争率も激しそうだし、波州は田舎であんまり芸術が金になる環境じゃないし、かといって煉州は今政情不安だしなあ」
煉州と聞いて麗射の顔色が変わる。
「反乱軍の勢力が増したらしい。隊商の知人から聞くところによれば、なんでも氷炎というリーダーが戻ったようでな」
「氷炎――」
その名を聞いたとたん、麗射の両の目に熱いものがこみ上げる。
「それだけではない。氷炎を凌駕する、なんか戦上手のすごい将がいるらしい、ええと
――私は戦が得意ではない。
寂し気な表情で語っていた氷炎の姿が目に浮かんだ。
良い片腕ができたのだろうか、崇高な氷炎の精神に共鳴する良き同志ならよいのだが。麗射は遠くで戦う友に思いをはせた。
「それにしても、煉州が早く落ち着いてくれればいいのにな。戦のもたらす死や血の中では、芸術は衰弱してしまう」
そこで、はたと何かに思い至ったのかレドウィンは麗射に真顔で向き直った。
「頼む、麗射。俺はまた卒業制作が忙しくなって制作棟に寝泊まりする。今度はお前が夕陽を守ってやってくれ、あいつに人の血を見せるな、決して」
「え、なぜ――」
答えはなかった。麗射の肩を一つ叩くと、レドウィンはじっと麗射の目を見る。
麗射は引きずられるようにうなずいた。
そのままレドウィンは無言で当座の着替えを入れた布包みを抱えて部屋を出て行った。
「血を見せるな」
麗射は反芻するようにレドウィンとの約束をつぶやく。
夕陽の描いたあの地獄のような光景から麗射は彼の過去に何か重大な事が起こったのではないかという事はうすうす感じていた。が、今のレドウィンの態度からそれは安易に口に出せないほどただならぬことなのだと麗射は思い知らされていた。