第54話 アイゲル

文字数 3,023文字

 星見の案内で低地を避け、人々が青砂漠を避けて安全な場所に来たのは一刻ほどの後だった。水瓶がひっくり返ったかと思わせるくらいの大雨もそのころにはほぼ上がり、空にはうっすらと陽が射してきた。
「休息が必要だ。今日はここでテントを張る」
 レドウィンが宣言した。清那の威光のためか、玲斗達は逆らう様子もなくテントの設営を手伝った。陽はすでに低く、雲間から茜色の光がさしている。道すがら、逃げ去った数頭の駱駝を保護したため、何とか全員が駱駝に乗ることができた。しかし、手持ちの食糧をかき集めても後5日分しかなく、一行は疲れ切っている。ここから波間の真珠に戻るのは至難の業と思われた。
「このまま砂漠を突っ切って、煉州に行くぞ」
 赤い目をしているが、いつもの不遜な顔つきに戻った玲斗が麗射達に命令した。
「簡単に言うが、ここから煉州まで何日かかると思っているんだ、この食糧で行ける行程ではない」
 レドウィンが眉を吊り上げて反論する。
「いや、煉州に行くぞ、安理のご家族にお詫びをしないといけない」
 学院では院生を束ねるレドウィンに対して玲斗は一定の気遣いはしているが、学院を離れた今、社会的地位の低い彼のいう事など聞く気はさらさらないようであった。
 その時。
「あ、あれは?」
 星見が指し示す方向に、彼方から土煙を上げてこちらに向かってくる数頭の駱駝が見えた。徐々にその姿は大きくなり、鞍上の人が大きく手を振っている。
 夕陽に染まったマントに大きく緑の目が描かれている。これはジェズムの隊商の目印だった。
「麗射殿はおられるか」
 先頭の駱駝に乗っていたがっしりとした体躯の男が、麗射達の目の前でひらりと地面に降り立った。反動でフードが落ち、背中で束ねた肩までの薄紫の髪とジェズムそっくりの緑の瞳があらわになった。
「私はジェズムの甥御のアイゲルです。雨の予知を伝えてくださったおかげで我が隊は全員無事でした、心から感謝します」
 いかにも武人といった外見とは裏腹に、彼は物柔らかな物腰で右手を左胸に当て、濡れた砂地の上に両膝をついて首を垂れた。それはこの一帯の最上級の礼とされるものであった。
「あ、お立ちになってください」
 この礼は相手が許すまでひざまずき続けないといけないという決まりがある。麗射は慌ててアイゲルの肩を持って立たせた。
「私たちは砂漠の高いところに居て難を逃れました。叔父からあなたたちのことも聞いていたので探していましたが、御無事でなにより」
「いえ、実は一人――」
 麗射が首を垂れる。
 麗射の背後に暗い目をしてたたずむ4人の青年たちを見て察したのか、アイゲルは無言でうなずいた。
「皆さんはどちらに向かわれているのですか、私たちは御覧の通り食料も少なくこのままでは行き倒れてしまいます。援助をお願いしたいのですが」
 いつの間にか麗射の横に立っていたレドウィンがアイゲルに話しかけた。
「もとよりそのつもりです。叔父からの知らせが無ければ井戸の多いこの低地を旅していたことでしょう、言うなればあなた方は命の恩人です。私たちは煉州に向かっていますが、真珠の都に帰られるなら飲み物、食べ物をお分けすることもできます」
「煉州に行くのか?」
 玲斗が目を輝かせた。
「是非同行させてくれ」
「馬鹿な、これ以上周りに迷惑をかけてどうする。食料を分けてもらってさっさと学院に戻るんだ」
 レドウィンが声を荒げた。一段落ついた今、彼も自分の卒業制作を思い出したのだろう。
「アイゲル、ここから煉州まで何日かかる?」
 不意に麗射が尋ねた。
「普通に行けば15日、だが我が隊の俊足駱駝を使って急げば5日程度だろう」
「公子が熱発している」
 麗射の言葉に皆が振り向く。牙蘭に抱き上げられた公子は、先ほどの玲斗への一喝ですべての力を出し切ったのか、ぐったりと目を閉じている。頬は紅潮し、息も荒くなっていた。
「水を飲んだ後だ、無理もない」美蓮が心配そうにのぞき込む。「溺れて命が助かった後で、同じように熱が出て、呼吸がままならなくなって無くなった人を沢山見たことがある」
「応急の薬はあるが、これは一刻も早く大きな街で医者に見せないと」
 アイゲルは腕を組んで目を閉じる。
「真珠の都に戻ってから薬を取り寄せていたら間に合わないかもしれないな」
「俺の家の侍医に見せよう。そこらの町医者ではない、煉州一の名医だ」玲斗が叫んだ。
「これは早駆けの必要があるな。あなた方全員を連れて行くわけにはいかないが――」
 アイゲルが顎に手を合ってて首をかしげた。
「美蓮、レドウィン、星見達は戻れ」
 麗射が言った。
「お前は真珠に戻らないのか?」美蓮が目を大きくする。
「ああ、公子の事については連れてきてしまった責任が俺にはある。このまま牙蘭と二人だけで煉州に行かせられない」
「早駆けだぞ、お前の操駝術でついていけるのか?」
 レドウィンが心配そうに尋ねる。
「細かい操駝は無理だが、まっすぐ走るのなら大丈夫だ」
 麗射の言葉が終わるや否や、アイゲルは仲間に水と食料を持ってこさせた。
「これだけあればオアシスへの帰還には足りるだろう。私の隊と来るのは病人を含めて4人でいいな」
「麗射、僕は足手まといになりそうだ。身体も限界だしレドウィンと帰るよ。あの守銭奴に金が無駄にならなかったことを伝えないと」
 美蓮は少し残念そうにつぶやいた。
「それなら真珠に帰るのは俺と美蓮、星見達でいいな」
 レドウィンが皆を見回した。
「お願いだ、夕陽さんのことを頼む」
 麗射の言葉にレドウィンがうなづいた。
「何か急ぐ伝え事があれば、伝鳥を使うぞ」
 アイゲルがくちばしの細長い小さな青い鳥を腕に乗せてきた。
 この一帯に生息するサボテン鳥は開花の匂いを捕えて蜜を吸いに来る。その抜群の嗅覚を生かし、飼いならして相手の匂いを覚えさせたサボテン鳥を危急の通信手段として使うことが多かった
「それでは、この状況を書いて美術工芸院に送らせてくれ」レドウィンは手慣れた様子で渡された手すき紙に概要をしたためるとサボテン鳥の足に手紙を結んだ。
「もう一羽いるか?」ずけずけと玲斗が割り込んできた。「俺も煉州の家に安否を伝えたい」
「いますがそれが最後の一羽なので、できれば手元に置いておきたいと」アイゲルが額に皺を寄せる
「煉州につけば金は出す。お前の通商の便宜も図ろう」
 玲斗の言葉にアイゲルは深々と頭を下げて礼を言うとさっそくもう一羽を連れてこさせた。
「この子は特別に賢い子でして。キュリルといいます」
 キュリルという小さいサボテン鳥はアイゲルの人差し指で背中を撫でられると丸い目をキョロキョロさせながら嬉しそうに首を伸ばした。
「匂いを覚えさせている煉州の私の仲間の家に飛びます、そこからあなた様のご邸宅に仲間がお手紙を届けます。仲間への駄賃も含めて半塩板ほどいただきたくございますが」
「わかった、その値段でいい」
 すました顔で鳥を渡すアイゲル。
「とんでもない暴利だ。あいつ、外見は武人だが中身は生粋の商売人だな」
 レドウィンが小声でつぶやくと鼻を鳴らした。
「あまり猶予はない。さあ、出立だ」
 アイゲルが促し、麗射達は支度を整えた。
 牙蘭の大きな背中に括りつけられた清那はぐったりと目を閉じている。アイゲルが手持ちの薬湯を飲ましてくれたが、相変わらず熱は下がらず意識も朦朧としていた。
 今日はここで野営するレドウィン達と別れて、アイゲル隊に同行してもらい麗射達は煉州に急いだ。

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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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