第30話 地獄絵

文字数 3,293文字

 それから何回か画面構成術の講義があったが、気のせいか真ん前に陣取る麗射に銀の公子は目を合わそうとしなかった。あれから仲間の数人が、授業の後に質問に行ったがみな一様に感激して戻ってくる。
「ちょっと、銀の公子って話しにくくないか?」
 麗射の言葉に皆頭を振る。
「あんなに丁寧に説明してくれる講師はいないよ。腰も低いし、俺たちより年下だけど、講師の中で一番知識があるのじゃないかと思うね」
 その言葉になにか釈然としないものを感じる麗射であった。
 ひと月たち、麗射にとってすべてが新鮮であった日常がいつの間にか当たり前の風景になってきたころ、やっと実践画法1、絵を描く講義の基礎、が始まった。
 まずは短時間で人や彫像を墨一色で紙に写生する簡単な絵から始まった。もともと作り出すことが好きな者たちの集まりである、筆の動かし方、簡単な静物などの地味な基礎はやってきたものの久しぶりの創作とあって皆飢えたように絵筆を握り、目の色を変えて描き始めた。
 が、麗射は独り浮かない顔である。
 皆が対象をそっくりそのまま、いやそれ以上の雰囲気を纏わせて紙の上に描きとめるのに対し、麗射は似ても似つかないものを描いてしまうのだ。今まで抽象画ばかり書いてきた麗射にとってこの訓練は拷問に等しかった。
 おまけに講師の経是(けいぜ)が嫌味な奴ときている。毎回、書きあがった絵を並べて目に付いた作品に寸評をつけるのだが、トカゲのような陰鬱な目をして麗射の絵だけを情け容赦なく罵倒するのだった。
「なんですか、この未熟なくせに妙に自信過剰の線は。絵は己を現しますが、身のほど知らずを露呈していますね。誰ですか、この卑しい絵を描いたのは」
 皆との技量の差を見れば誰の絵かは一目瞭然なのに、講師はこれ見よがしに絵を掲げて皆を見回す。
「はい、自分がかきました」麗射は仕方なく手を挙げて答える。
「ああ、焼刻の英雄、麗射君かね。幸運で学院に入れても、実力のないものはすぐ淘汰されていくよ。それにしてもこの砂漠ラッキョウのような女性は一体なんなのだ?」
 砂漠ラッキョウで、皆こらえられずに大笑いを始めた。麗射も、自分が下手くそなのは千も承知だからなおさらこたえる。せめて自分のだけは寸評もなしで放っておいてほしいと思うのだが、講師は目ざとく麗射の作品を見つけると延々とけなし続けるのであった。
 そんなことが続くと今まで皆の憧れであった麗射が徐々にあざけりの対象となってきた。最初の持ち上げ方が激しかっただけに、その反動はすさまじい。麗射の周りに集まっていた人々も一人去り、二人去り、徐々に減っていった。
 おまけに麗射が廊下を歩くと、皆、掌を返したように遠巻きにしてひそひそ話をし始める。
「あいつが焼刻奴だぜ」
「実力じゃ入れないって思ったのか、派手に事件を起こしてここに滑り込んだ奴だ。絵を描かせると話にならないくらい下手らしい。だんだん化けの皮がはがれてきたな」
 最初は陰口程度だったが、それが大勢を占めるとわかってからは、院生たちは露骨に彼を罵倒し始めた。唾を吐くもの、麗射そっくりの下手くそな写生をしてこれ見よがしに麗射の背後で掲げる者。
 しかし、その風向きに逆らうかの如く麗射の傍らから去ろうとしない者もいた。最初麗射に銀の公子が清那だという事を教えてくれた青年美蓮もその一人だった。
 麗射と同じ波州の出身の彼は工芸科の一回生であった。やせた体躯にはやや不釣り合いな大きな丸い目の以外特に目立つところのない男だったが、皆が去っても平然と麗射の横に座り、工芸科と絵画科の共通講義を受けていた。
「どうして君は俺のそばから離れないんだ。俺は焼刻奴の不正入学者だぞ」
 ある日食堂で麗射は美蓮に尋ねてみた。
「お前が気に入っているからさ。お前は不器用だけど、裏表がないから」
 あたりに酸っぱいにおいをまき散らしながら、お気に入りの太い酸冷麺をかきこんで美蓮が答える。漁師の多い波州では、男気のあるおおらかな人格の者が多かったが、美蓮はその典型だった。
 しかし二人が食堂から帰ってきた時。美蓮が叫び声をあげた。
 前の時間に彼が心血を注ぎ描いた絵が二つに破かれていたのである。その一枚に「腐友恥ずべきかな」と大書されているのを見ると麗射は息を飲んだ。美蓮は悔しそうに周りを見まわすも、皆かかわりになるのを避けるように知らぬふりを決め込んでいる。
 その日を皮切りに麗射の友人たちに攻撃が加わるようになっていった。
「もう、近づかないでくれ。気持ちはありがたいが、俺自身が辛い」
 自分を取り巻く残り少ない友人達に、ある日麗射は絶縁を宣言した。異を唱える者も多かったが、麗射は彼らを巻き込みたくない一心で心とは裏腹の態度を示し個人での行動を貫いた。仲間たちが横に座ってきたら、麗射は黙って席を変えた。仲間たちも麗射の心を察してか、麗射と距離を置くようになった。
 その日も授業が終わるなり麗射は教場を飛び出した。早くたった一人の部屋に逃げ込みたかった。最近、卒業制作に取り掛かったレドヴィンはほとんどを制作室で過ごし、寮の部屋に帰ってこない。いろいろと相談に乗ってくれていた彼がいないのは寂しかったが、反面彼に心配をかけなくて済むのは気が楽だった。
 寮に向かう通路には何か楽し気なことを話しているのであろうか、いつもより人だかりがしていた。麗射は一団を避けるように迂回してひと気のない細い廊下に飛び込んだ。初めての通路だが、方向からいえばここからでも寮に出られるはずである。
 しかし、麗射のあては外れた。そこは小さい天窓が一つあるだけの行き止まりだった。
 その廊下のどん詰まりに、かすかに祭壇のようなものが見えた。ほとんど闇に沈んだその空間には絵が掲げられている。何かに導かれるように麗射は絵に近づいていった。
 小さな窓から漏れる光に照らし出された絵を見た瞬間、麗射は凍り付いた。
 足元から震えが登ってくる、根が生えたように立ちすくみながら麗射は息をするのも忘れていた。
 それは地獄絵だった。画面の中央に血みどろになった女性が倒れており、周りには凶器を持つ修羅の形相をした人々が描かれている。薄暗い画面だがよく見ると微に入り細に入り細かい描写がされており、絶望と恐怖が刻み込まれていた。
 思わず目を背けようとしたが、絵の中の打撲と切り傷に覆われた苦しみに顔をゆがめた半裸の女性と視線があってしまった。くぎ付けになったまま麗射の心が捕まる。彼女は麗射に何かを訴えるように、視線を掴んだまま離してくれない。麗射の頭の芯はぐわんぐわんと揺れ始め、このまま絵に魂を吸い取られそうな恐怖が彼を包んだ。
 ああ、だから絵の下に祭壇がしつらえてあるのか。麗射は早くなる呼吸を抑えられず、胸をかきむしった。徐々に手がしびれ始め、意識が遠のく。
 その時、血走った女性の目から画面の上方に向かう光沢のあるかすかな筋に気が付いた。固定されていた視線がふっと外れる。光沢のある筋にすがるように目を滑らせると、右上に虹色の雲、その雲間から招くように女性に手を差し伸べる天女が描かれているのに気が付いた。
 亜麻色の髪の天女は、地上の凄惨な光景を静かに見つめていた。
 なんと厳かな。
 胸を締め付けていた黒い気が晴れて、麗射の息が静まってゆく。そして彼はずいぶん長いこと天女を見つめていた。そして天女もまた麗射を見つめかえした。
 ふと気が付くと、画面を越えて天女は横たわる女性だけではなく麗射の心にも手を差し伸べていた。人の無情に苛まれていた麗射であったが、今の麗射は自分もあの天女の手に抱かれているような安心感に包まれていた。
 両の目から涙が流れる。
 麗射はここ最近彼を捕えていた様々な苦悩が絵の中に吸い取られたような感覚に陥っていた。
 その時。
――私たちはもう出会っている
 麗射の脳裏に不思議な声が響いた。彼は慌てて周囲を見まわしたがそこには祭壇と彼をじっと見つめる天女の絵があるだけであった。
 獄中で熱にうなされたときにも、彼に手を差し伸べた少女の幻。
 彼の鼻腔にかすかなミントの香りが蘇った。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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