第72話 石絵

文字数 3,839文字

 夕食後の自由時間、まだ陽は天空から降りようとせずあたりは明るい。麗射は炊事係が捨てようとしていた欠けた木の椀に水を入れ、そっとイラムからもらった筆を下ろした。そして木の葉の上に解いた白い顔料を筆先に付けて、黒っぽい扁平な石の上を走らせた。美術工芸学院では苦しんだ人物画だが、頭に浮かぶ顔を思いのままに描くのは楽しい。
 くりくりした青い目、そしてあふれ出す金色の髪。つややかな唇。
 今度あったら、イラムに渡そう。
 残念ながら石の上に現れたのはイラムとは似ても似つかぬ顔であったが、さすがに学院で基礎を学んだだけあってかすかな玄人感は漂っている。
「お、お前さんのいい人かい」
 のぞき込んできたのは、永芳(えいほう)だった。
「い、いや」肯定は彼女を冒涜するような気がして、麗射は慌てて首を振る。
「上手いじゃないか。お守りにするから俺にも描いてくれ。里に残してきた娘と息子がいいな」
「お気に召さないかも知れないけど、いい?」
「ああ、目、鼻、口があればいいのさ。依り代(よりしろ)みたいなもんだ」
 麗射はイラムを描いた石を置くと、いくつか拾ってきた平たい面がある石をつかんだ。
「これに二人描こう。まずどっちから描く? 娘か息子か」
 永芳はうれしそうな顔で娘だとつぶやいた。
「どんな顔だ? 丸い、細長い?」
「娘はまだ、3歳なんだよ。頬がふっくらとしてな、桃色でな、生まれて半年ごろから俺やおっかあの言葉がわかって返事をしたんだ」
 周りから空耳だぜとはやし立てられても永芳は全く意に介す様子はない。
「それは利発な子だなあ」
「そう、俺とは違って、顔全体から賢さがにじみ出ているんだよ」
 とろけるような顔つきで、永芳は語り続ける。
 麗射の絵が果たして本人達と似ているかどうかはわからないが、永芳はうれしそうに礼を言うと子供の絵を描いた石を懐にしまった。
「おい、次は俺だ。嫁を描いてくれ」
 二人の様子を見ていた、違う班の男が麗射の横に座った。
 その男の石絵を描き終えた頃には、後ろに長い列ができていた。小石を手にした男達はみな口々に家族の自慢を始め、賑やかな話の花がそこかしこに咲いた。
 列が途切れたのは深夜だった。途中見回りに来た上級兵だが、麗射の絵を見ると自分にも一つ所望しただけで、皆に就寝を強要せず去って行った。この軍にはそういった上下の情や自由な雰囲気があった。この押しつけられたものでは無い、目的を一つとして集まった柔軟な絆が、かえって戦場では強い結束力として働くことが予想された。
「なあ、麗射。俺はどこか皆が見てくれるところに自分の絵を描いて欲しいんだ。俺には家族は無いが、いつか俺が死んだ時、生きていた証が欲しいんだ」
 列には加わらなかった若い兵士が嘆いた。
「どこか、って。どこに?」
「そうだ、麗射。お前は壁画を描いて捕まったんだろう。壁に描いたらどうだ」
「えっ」絶句する麗射。壁画の苦い思い出が脳裏によぎり、さすがの麗射も躊躇(ちゅうちょ)している。
「この兵舎は俺たちが木を切って作ったもんだ。壁に何を描こうが自由だ」
 人々は、今度は口々に自分を描けと麗射を取り囲んだ。
「わかった、わかったよ」
 翌日から麗射はせっせと教練の間を縫って仲間達を描き始めた。数をこなすうちに、素描講師の経是(けいぜ)に砂漠らっきょうと揶揄(やゆ)された以前の人物画よりはまともになり、さしたる不満もなく絵はその面積を広げていった。
 噂を聞きつけた上級兵もやってくるようになり、麗射はその姿を描きながら会話の隅に宮殿の様子を探る質問を忍ばせた。得られた断片的な情報を元に、おぼろげながら宮殿の構造と久光山の警備が麗射の脳内で形を作っていった。
「この絵のおかげで士気が上がっているぞ。しかしお前は教練も真面目にやるのに、その後で絵を描くなんて体力があるな、たいしたもんだ」
 麗射が絵を描くのを後ろで見ながら、一人の上級兵が麗射に話しかけた。
「ありがとうございます、俺は波州で船に乗って仕事していたんで、体だけは鍛えられました」
「志願したのはいいけど、すぐ嫌になって逃げ出してしまうやつもいるんだ。中には宮殿の救世軍の財をくすねて逃げようというひどいやつも居てな、捕まって暗闇の獄に入れられたんだが次に出てきたときには正気では無かったらしい」
「暗闇の獄?」
「ああ、ひどい刑を犯した奴や、斬常様に逆らった人間が入れられる場所だ。作りは普通の獄屋だが、くねくねと曲がった細い洞窟の奥に作られた光が全く入らない真っ暗な場所にあるんだ。人間ってのは暗闇の中に長く居るとおかしくなっちまうらしいな」
 麗射の頭にイラムの言葉がよみえがる。
『しばらくはきれいな部屋や使用人を与えられて、食事も十分に出ていたようだけど、今はその部屋に帰ってこないって噂を聞いたの。かといって牢獄で顔を見た使用人もいないようだし、だけど厨房では彼用の食事を作り続けていると聞いたわ』
 見かけと違い妙に気の強いところのある清那だ。斬常に逆らって逆鱗(げきりん)に触れた可能性はある。もしかして、闇の中に閉じ込められているのかも。麗射は思わず全身を震わせる。隠してはいるが精神的にか弱いところもある清那がはたして暗闇に耐えられるのかーー。
 今、麗射の心の中で怒りが溶岩のように燃えたぎっている。
「おい、どうかしたのか?」
 筆を止めてしまった麗射をいぶかしげに見て上級兵が声をかける。
「い、いや何でもありません。思わず俺がその洞窟に入ったところを想像してしまったんで」
 ああ、恐ろしい。麗射はわざと身震いして見せた。
「洞窟は宮殿の裏のそそり立った崖にくりぬかれている。教練が辛くなって逃げたくなったら岩場を見るがいい。常に警備兵が立っているからわかるぜ」
 上級兵は笑って去って行った。
 壁にはずらりと描かれた兵達の顔が並んでいる。姿の多さは費やしてしまった時間を意味していた。もう一刻の猶予も無い、なんとかしなければ。
 しかし、失敗は許されない。綿密に考えたはずの牢獄からの脱獄でさえあの体たらくであった。今、衝動に任せた行動をしたら、つかまってさらに悪い状況に陥るだろう。勝算の無い行動は慎まなければ。
 どうすれば、牢屋の鍵を盗み、清那とともに脱出できるのか。
 脱出、すなわちそれはイラムとの別れの時でもある。胸がちくりと痛み、麗射は天を仰いだ。



 反乱軍の陣地は久光山を中心として、その麓に広がっている。久光山の背後には人間が超えるに難しい険しい山脈が連なっているため簡単な柵程度だが、麓に広がる陣地は長い丸太を縦に地面に打ち込んだ柵で、ぐるりと取り囲まれている。丸太はツタで作った縄で強固に結ばれた上、打ち付けられた木切れで固定されていた。
 兵舎からやや離れた丸太の中には、岩盤が表土まで露出して固いため、地面への埋め込みが甘くぐらぐらしているものがあるのに麗射は気がついていた。縄と木切れを外せば丸太を押し倒して外に逃げる通路に使える。だが、ツタを編んだ縄は堅く、小刀でも切れにくい。釘で打ち付けられた木片も小刀で簡単には外れるような代物ではなかった。
 教練が終わり、ほんの少しの自由時間。炭焼き小屋の近くの茂みでのほんのわずかなイラムとの逢瀬を麗射は心待ちにしていた。
 いつになく息を切らせてイラムは茂みの中から飛び出してきた。手には大きな袋を持っている。
 イラムは開口一番麗射に告げた。
「明日、各地の賛同者を迎えて蜂起前の会議をするらしいの。人目に付かない夜明け前から宮殿の主要人物が皆、久光山の麓まで客を迎えに出る。宮殿内は、早朝から晩餐の用意で忙しいし、手薄になるのが目に見えているわ」
 どうしてそんな情報を? 喉まで出かかった情報を麗射は飲み込んだ。
 以前、戦好きの父親の事を話したときの彼女の顔は辛そうだった。父親は極秘情報も知り得る反乱軍のなかでもかなり地位の高い人物なのだろう。
「ありがとう。宮殿に入るいい案はないかな」
「そう言うと思ったわ、女官に化けて入るのは、どうかしら」
 イラムは麗射に裾の広がった女官の服を渡す。
「頭から被る袖の短い服よ。上から下までストンとしていて、腰のひもで長さを調節するから調節はしやすいわ。着てみて」
 細身だが、筋肉質の麗射には胸や腕周りがややきつい。頭を女官が使う四角い布に包むと微妙だが、遠目にはがっしりした女官にみえなくもない。その姿を見てイラムは両手を口に当てて笑いをこらえている。息苦しくて麗射は早々に女装を脱いだ。
「やっぱり男の人には似合わないわね」
「俺たちの点呼は就寝前と朝なんだ。なんとか就寝後に兵舎を抜け出す。その間に、宮殿に忍び込むことはできるかなーー」
 麗射ははたと語尾を詰まらせた。もしばれて捕まった場合、イラムに迷惑がかかるのではないか。
「私のことは心配しないで」
 麗射の杞憂を察したのか、イラムはにこりと微笑んだ。
「私なら大丈夫、私に迷惑はかからないわ。本当は宮殿の中に手引きしてあげられればいいんだけど夜は自由に動くことができないの」
「いや、イラムにそこまではさせられない。もうこの情報で十分だ」
 麗射はイラムに微笑んだ。
 なんとかして獄から清那を救い出し、馬で逃げる。あの村まで行き着ければいいのだが。
「うまくここを出たとしても、追っ手に追いつかれる可能性がある」
 麗射は腕組みをして、天を仰いだ。
「おい、お前はだれだ」
 声とともに背後の茂みが大きく揺れて、兵舎の兵とは違った装いの大きな剣を履いた男が茂みから飛び出してきた。

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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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