第119話 朗報

文字数 4,743文字

 厨房で花燭(かしょく)達と話していた麗射は、地下の保管室から上がってきた美蓮とばったり会った。
 彼は今、工芸科の連中を率いて紙に火薬を入れ巻き込んで作る導火線の作成に余念が無い。このところ、日の当たる場所ではほとんど美蓮の顔を見なかった、久しぶりの邂逅だ。
「よかったじゃないか、皆、落ち着いた様子になったと聞いたぞ」
 美蓮は目の下の肉がごっそりとなくなり、さながら幽鬼のような顔になんとか笑みを浮かべている。
「不穏だった者達も少しずつ銀老草から離脱して戻れているらしいな。でも動揺は広がってないって聞いてる。さすが麗射だ、演説はうまくいったようだな」
「いや、落ち着いた理由は、別なところにあるんだ」
 麗射も骨の陰影の際立つ顔に苦笑いを浮かべながら首を振った。
「もしかして、例の飴か?」
 それには応えず、麗射は(いざな)うように廊下を曲がる。行き止まりの暗い一角に着いた時、美蓮は息をのんだ。
 そこはぎっしりと人で埋まり、みな目の前の絵に(ひざまず)き低い声で何かを祈っていた。宗派を超えて、彼らはひたすら思い思いの言葉で絵に描かれた天女に語り続ける。
「これは、夕陽さんの――」
 麗射はそっとうなずいた。
 夕陽の描いた絵は、彼が初めて見た時と全く変わらず、天窓からの柔らかい陽を受けて暗闇の中に浮き上がっていた。足元に横たわる撲殺された女性。その凄惨な姿を見て恐怖に包まれた心は、一筋の光に導かれて、救いをもたらす天女の懐に抱きとられる。
「誰が言い始めたのか、この絵の前で祈ると救われるって噂されるようになって、いつの間にかみんなここに来て祈るようになったらしい。この前の演説会で皆が集まったことによって一気に噂が広がった。ま、俺の付け焼き刃の演説には人を救える力なんて無かったって事さ」
 どこかほっとした表情で麗射が肩をすくめた。
「この絵、祭壇にくっついていて、持ち出せなかったんだ。悔しかったが、最後まで人を救い続けるのが、この絵の宿命だったんだろうな」
 麗射は自分を助けてくれた絵をまぶしそうに眺めた。いつだってこの絵はここに居て、人々を救ってきたのだ。
「なあ、美蓮。美ってなんだろう。不思議だな、きれいなものだけが人の心を揺さぶるわけでは無い。なぜだろうこの膿と血の垂れる悲しい地獄絵に、どうしようもなく心を掴まれるなんて」
「人の心を揺さぶるものが、すなわち美なんだよ」
「揺さぶるものなんて沢山あるじゃないか、賭け事や、恋愛や、恐怖や空きっ腹にかき込む飯や子供の声、これすべて美なのか?」
「いや、なんだろう……そうだな、人間の折り重なる業の網で漉されながら、たどり着く境地」
 美蓮がつぶやく。ずいぶん昔に、人が集まると常にこんな会話をしていた気がするが、二人にとってそれは遠い思い出になりつつある。
「積み重なる思いの果てに、絞り出された一滴の精油、みたいな」
 二人はじっと絵を見上げた。
「残念だが、この絵は美術工芸院と運命を共にすることになるだろう……」
「大丈夫だ。夕陽さんはきっと生きている。どこかでもっと素晴らしい絵を描いているに違いないよ」
 物思いに沈んだ麗射の肩に、美蓮がそっと手を置く。
 麗射も、美蓮も、そこに(ひざまず)いて祈り始めた。


 玲斗は美術工芸院の中のそこそこ広い創作室を一つ自由に使えるように与えられていた。彼は煉州から連れて来た一団を指揮する立場である。仲間と常駐する場所もないまま放ってはおけないという、麗射の配慮であった。
 そこには日々玲斗に付いてきた煉州の青年がたむろし、敵が攻めてきた時の実際的な立ち回りの方法などを話し合ったり、公にはできない不満を漏らしたりしていた。
「玲斗様、なぜ、オアシス軍にこだわるのですか。私にとって斬常は敵ですが、剴斗様には忠誠を尽くしたい。他でもない、あなたはお館様の子ではないですか、なぜ敵対するのですか」
 突然の順正の言葉に、創作室に居る若者達はざわめいた。彼らは一斉に真ん中に据えられた椅子に座る玲斗を見る。その目には少なからず不満の色が浮かんでいる。鶏肉の干物は尽き、砂糖水とわずかなナツメヤシの実しか配られなくなってから久しい、空腹は兵士達の苛立ちに拍車をかけていた。
 若く忠誠心も高い順正は、安理亡き後の玲斗を支え続けていた。自他共に認める腹心として、他の青年が言いにくいこともはっきり玲斗に伝えるのが常である。
 順正の言葉に、玲斗は眉間に皺を寄せて応える。
「剴斗は兄の敵だ」
「お館様が理由も無いままに勇斗様を殺すことなどありえません。何か、何か理由があったに違いありません」
「理由はどうあれ、敵になったのだ、父と私は」
 玲斗は自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「私の敵は斬常。例え父でも斬常に(くみ)するものは敵なのだ」
「情けないっ」順正は玲斗につかみかかった。「お館様は、配下の兵の命を考えて投降するという苦渋の決断をされたのです。我らは煉州の人間です。我らがこれ以上煉州の民を殺してどうするのです。それも、あの波州の野人の命令で……。寝返りましょう、私たちなら剴斗様も殺さないはずです」
「すまない」もうこの話は終わりだと閉じた目が告げていた。
「わかりました」
 順正は手を離して、くるりと玲斗に背を向ける。
「もう同胞を手にかけることはできません。これでお別れです、玲斗様」
「どこに行く?」
「それは私の勝手で――」
 戸に手をかけようとした順正は、左右から向かってきた同郷の者に挟まれて動きを止めた。



 麗射の演説から5日後。
 その朝、清那を起こしたのは鳥のかすかなさえずりだった。
 ツンツンと針のように細いくちばしが彼の頬をつつく。
 目を開けて、慌てて身体を起こす清那。周囲を見回した彼の目に飛び込んできたのは羽をボロボロにした小さな青いサボテン鳥だった。
「キュリル」
 清那は、掌に乗ってきた鳥の背中を指でそっとさする。キュリルは掌に身を沈ませると、目を閉じて身を預けるようにもたれかかった。外からそっと触るだけでわかる痩せようであった。
 清那はキュリルをベッドの上にそっと置き、机の上に置かれた小さな箱を開けた。中に入っていたのは黒砂糖飴が一つ。昔、麗射に荷運びのお礼としてもらって以来、黒砂糖飴は清那のお気に入りになっていた。この黒砂糖飴は露天商がオアシスを撤退する前に買っておいたものである。洗って干しておいた画材用の乳鉢で飴を砕くと、少量の水で溶かしてキュリルのくちばしに持って行く。
「美味しいかい? それは僕の最後の晩餐のつもりだったんだけど、先のあるキュリルに飲んでもらった方が僕としても嬉しいよ」
 清那は優しいまなざしで、夢中で砂糖水を飲むサボテン鳥を見た。
 ひとしきり砂糖水を飲んだ彼女は、ゆっくり立ち上がる。足には小さな管が取り付けられており、そこには通信文が入れられていた。その薄青い紙の色は波州の瑠貝からの通信であることを示していた。
 今までも何度か通信は来たが、波州皇帝を動かすのは難しいという内容ばかりで、通信を受け取る清那も、正直読むのが気鬱になっている。
 だが今回は、通信文を見た清那の頬に一気に赤みが差した。
「や、やったぞ、瑠貝」
 思わず清那の口から叫びがあがる。
 その時、一人の兵士が戸を叩くと同時に飛び込んできた。
「清那様、すぐに会議室においでください。攻撃が始まりました」



「駱駝厩舎の横の出入り口に攻撃だ」
 清那が会議室に入るなり、麗射が叫ぶ。すでに皆が集まっており、ひっきりなしに真珠の塔からの物見が行き来している。
「あそこは外から見てもわからないはずなのに、どうして……」
 駱駝厩舎の横の通用門は、わざわざ警備の厳しい正門を通らずに駱駝の出し入れができるようにするためのものだった。簡易の出入り口のため、間口は狭く外から見てもわからないように偽装されている。この門の存在は、オアシスの住人でも知らない者が多い。今回、北の正門と南の門、牢獄門を重点的に見張りの兵士を配置していたため、通用門の番人は少なめであった。
「密通者が居たのだろう」
 ドアから入ってきたのは玲斗だった。彼は麗射との不仲が知られているため通常この作戦会議室には呼ばれない限りは出てこない。だが彼の配下である煉州から来た若者達は皆武術の心得があり、現場での大きな戦力となっているのは確かであった。玲斗は彼らを束ねる将として、自由にこの作戦会議室に入ることを許されている。
「順正が居ない」
 青い顔をして玲斗が椅子にすがりつくようにして座る。
「あいつ、寝返ろうとしていたので、俺が部屋に閉じ込めていた……」
 皆が一斉に玲斗の方を向く。彼の膝の上で握りしめられた拳が小刻みに震えていた。
「昨日見に行ったら居なくなっていたんだ、ずっと探していたのだが、居ない」
 彼の脳裏に3日前の彼との言い合いが蘇る。
 順正を捕縛し、交代で見張りに立ってた2人も同時に消えている。思えば、暴れる順正を取り押さえたのは、玲斗を欺す芝居だったのかも知れない。
「オアシスの外に出たかもしれない」
「まさか、この高い壁をよじ登ることは不可能。要所は兵で固めているし、一体どこから逃げたっていうんだ」
 勇儀が叫ぶ。
 玲斗は上目遣いで麗射を睨んだ。
「それは、そこの総司令官様のほうがよく知っているんじゃないのか」
 麗射は息をのむ。
「まさか……」
「伝承古語が読めるのは、お前達だけでは無いって事だ。煉州でも一定以上の教育を受けた貴族は伝承古語を読むための講義を受けている」
「そういえば、あの本は(ほこり)が余り付いていなかった」清那がつぶやく。「順正が読んでいたのか」
「そうさ、俺たちもあの記載を元に水音の道を探したが、結局わからなかった。お前達が、食堂でなにかごそごそしているのは知っていたが、まさかあんな所に道があるとはね」
「いつ、水音の道を知った?」
「お前たちが装備を持ってぞろぞろと深夜の食堂に来た時だよ」
「どこに出口があるか探検したときか――」美蓮が唇を噛みしめる。「見張られていたとは」
「まずい、あそこが今見つかっては」清那の顔が蒼白となる。
「今となってはそれほど朗報とも言えませんが、先ほどキュリルが戻ってきて、やっと波州軍がこちらに派遣されることが決まりました。敵の侵入を防ぎながら、水音の道を通って砂漠に脱出しましょう。うまくやれば追撃を受ける前に、波州軍と合流できるかもしれません」
 会話に割って入ったのは、元警備隊長の炎絶(えんぜつ)であった。
「おい、ちょっと待て。何を言っているんだ。俺は知らないぞ、水音の道なんて」
 彼は麗射達をにらみつける。
「実はこの美術工芸院の地下には、人の通れる水路が通っている」と、麗射。「それは砂漠に通じているんだ」
「なんだと、そんな大切なことを今まで黙っていたのか――」
「大切だから、黙っていたのです」
 清那が炎絶の言葉を遮った。
「私も知らされていなかったのだ。極秘事項は限られた者だけの共有でいいじゃないか、炎絶」勇儀が割って入った。「私たちを置いて逃げた訳では無いのだから」
(いさか)いをしている暇はありません。全員ここから脱出の用意をしましょう。そして、皆が逃げるまで我々は決死隊とともにここを守り通します。麗射――」
 清那の紫色の瞳が司令官を見る。
「最初の打ち合わせ通り、あなたは美蓮、奇併とともに先頭にたって、皆を水音の道から逃がしてください」
「いやだ。こうなった今、俺は最後までここにいる」
「順正の事もありますから、水音の道も同じくらい危険です。もしも我々が捕まった時に、命を引き換えにしてもらえる可能性があるのはあなたしかいません」
 清那の透き通った目が冷たく光る。
「一体どれくらい生き残れるかはわかりません。もう、手はず通りやるだけです」
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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