第122話 血飛沫(1)

文字数 5,983文字

 ノズエとコウブの二人は、麗射に清那からの伝言を話すと、いつの間にか姿を消した。
 夕陽さんが生きている。
 その情報は麗射をしばらくの間、放心状態にした。
 確実な情報では無いようだが、あの筆致で描ける人間が夕陽以外にいるとは思えない。
 麗射にとって、それはこの極限状態にもたらされた一条の光のように思えた。
「麗射様、奇併様からの伝書鳩です」兵士が駆けてくる。
 彼なら鳩など飛ばさずとも、走って帰ってもさほど時間は変わらないだろうに。
 受け取った伝書を開いた麗射の顔から血の気が引く。
「どうした、麗射」
 麗射の異変に気づいた美蓮が、顔を寄せて伝書をのぞき込む。
「水音の道の出口が、塞がれており、そこから血が垂れている……か。まずいな」
 平静を装う美蓮の顔も今までに見たことがないくらいに青くなる。
「もしや、殺害されたのは順正達だろうか?」
「おそらく。情報をとられた後に命を奪われたんだろう。血が固まっていないところを見れば、見せしめのために蓋の上で殺されてからさほど時間が経っていない」
 敵はここから麗射達が逃げることを知って、道を塞いだのか。
 戦闘に当たる人員以外、約300人の人々はすでに皆食堂に集まっている。ここを塞がれたら、逃げ道が無い。
「せ、戦闘が始まった」
 壁の向こうで軍勢の足音と叫びが聞こえる。
「絶対に食堂に入れるな」麗射の言葉に、腕に覚えのある兵士達が食堂の入り口に向かう。そこはすでに幾重にも障壁が作られ、簡単には突き崩せないようになっていた。食堂にいたる通路には隠し部屋に面しているところもある。そこで幻風がうまく防いでくれることを祈るのみだ。
 食堂の窓ガラスは厚くて堅牢、おそらく破城鎚でも突き崩すことは難しいだろう。すでに内側から布で覆っているので、外から内部の状態は見えないようになっている。さすが(いにしえ)の時代から砦の逃げ道として設計されていた場所である。入り口を塞げば、外から食堂に侵入するのは難しい造りになっている。
 しかし、これから仲間達が隠し部屋を伝って、ぞくぞくとここに集まってくるだろう。水音の道から避難が始まらないことに疑念を持つ人々が騒ぎ始めるのも時間の問題だ。
 今は少人数ずつしか突入できず、攻撃に不利な水音の道からの突入は考えていないようだが、このままオアシス軍が食堂に立てこもって集まって防戦した場合、しびれを切らした敵が今度は水音の道の蓋を開けて侵入してくるだろう。そうなれば2方向からの攻撃となり――。
 血みどろの予感に、立ちすくむ麗射。
 人々の不安そうな目が一斉に麗射に向けられていた。



 オアシスを囲む背の高い壁を壊してなだれ込んできた煉州軍。彼らがまず向かったのは銀嶺の雫であった。
「犬に飲ませてみても、死にません。兵士に飲ませてやっても良いでしょうか」
 将からの報告に、剴斗は眉をつり上げる。
「意外だな、毒でも入れているかと思ったが」
 彼は美術工芸院を見上げた。
 玲斗、そして彼の館にやってきた叡州の公子、策士の走耳、そして麗射とやらいう若者。彼らがオアシス軍の中心になっていると聞いた。
「お人好しどもめ。泉無き砂漠の旅人の将来を案じたという訳か」
 しかし毒を入れない、という馬鹿げた選択。これは一体誰が決めたのか――。
「奴か?」
 剴斗は客人としてやってきた公子一行の中でも影の薄い黒髪の青年を思い出した。
 第一印象とは裏腹だが、牙蘭から言わせれば、公子一行の中でもっとも警戒しないといけないのは他でもないあの黒髪の若者、麗射とのことであった。
『御館様、彼は武芸のたしなみもなく、正式な教育も満足に受けていません。しかし、彼には突き抜けた善性があるのです。人々は彼の(まと)うまばゆい光に引き寄せられ、いつしかその光に向かって結束してしまうのです』
 その人の心を虜にする善性とやらが、この戦でどのように変化していっているのか。
 そして、玲斗。
「待っておれ、すぐ行くぞ」
 剴斗の青い目が鋭く光った。
 休養を取った煉州軍の兵士達が美術工芸院を取り巻き始めた。


 正午すぎ。
 美術工芸院を取り囲んだ兵士達が、3階のベランダに向かって一斉に矢を射始めた。滝のように降る矢に、3階に潜ませた元警備兵を中心としたオアシス軍の兵士達は、為す術もなく部屋の中に姿を隠している。
 同時に、煉州軍は正面玄関から美術工芸院に突入した。
 突入した煉州軍の面々が見たものは、誰もいない吹き抜けの玄関だった。彼らの得ている情報によると、内部に入るには3つの方法があった。すなわち、中央の玄関、そして階段左横の扉、右の壁に作られた扉。
「気をつけろ、何か罠が仕掛けられているはずだ」
 突入を指揮した将のかけ声で、煉州軍は三手に別れて進んでいった。
 右の壁に進んだ軍勢は、そこでまた廊下が真っ直ぐと左方の2方向に分かれているのに気がついた。
 手前右側の講義室の戸を蹴破った者達は、薄暗い部屋の中をランプを掲げて見渡す。
 がらんとした何も無い講義室。ふと奥の壁に揺れる人影を見た兵士達は足を止めて一斉に剣を抜く。
 しかし、人影は左右に同じように揺れているだけである。
「こ、これは……だまし絵か」
 おそるおそる前進した彼らは、ぜんまい仕掛けなのか、左右に動く黒い縞の格子柄の板に顔を近づける。黒い縞が残るように板から均一な細隙がくりぬいてあり、このくりぬかれた格子柄が左右に規則正しく動きながら後ろの絵に重なることによってあたかも人影が動いている様に見えているのであった。
「けっ、美術学生らしい子供だましだ」
 部屋を出ようとした人々は二方向から駆け戻ってくる人波に押されて、部屋の奥に戻される。戻ってきた兵士達は皆青い顔で、苦しい息をしていた。通路への入り口が狭いため、一度に出ることができずに、安全そうな最初の講義室に入り込んで来たらしい。
「他の部屋は、毒の煙に満たされてる」
「吸うと胸が焼けて、息ができん」
 人々は咳き込みながら苦しげにつぶやく。中には立ち上がれずに膝を突く者もいた。
「とりあえずこの部屋で休め。ここは単なるこけおどしだ」
「ちぇっ、おまえら幸運だったな」ほっとした表情の兵士達が煙から避難してくる
 しかし、部屋が満員になった瞬間。
 いきなり部屋の床がバラバラに崩れ、煉州軍の兵士達は叫ぶ間も無く地下室に吸い込まれていった。
「おおいっ」
 間一髪、部屋の入り口で踏みとどまった者が声をかけるが、返事が無い。
 ランプで照らしてみても、すでに穴の奥の兵士達の中で動く者は居なかった。
 綱を垂らして降りてみた者は、すべて途中で、綱からほろりと外れるように落ちて動かなくなった。
「救出は止めろ。蓋を閉めたまま、穴の奥で大量の練炭を焚いて煙毒(えんどく)を充満させていたのかも知れない。おい、下を向いて息するんじゃ無い、煙毒が上がってくる。練炭の煙毒は、気がつかないうちに突然命が取られるんだ。気をつけろ」
 のぞき込む若い兵士の首を筋肉質の腕が掴んで引き剥がした。長い槍を持った階級が上らしい銀茶色の短い髪の男が首を振って、降りようとする者を制する。
「可愛そうだが、落ちたものは絶望的だ。この部屋は入れないように釘付けしておけ。お前ら、美術工芸院のガキどもと思って油断するな、情けもかけるな。返り討ちにあうぞ」
 穴の奥を埋め尽くす兵士に黙礼して、男は部屋を後にした。


 男は剴斗の臣下の証である「斗」の字が抜かれた紋章をその胴着に刺繍していた。それはすなわち総司令官の剴斗直属の位の高い将であることを意味する。兵達は男の指示に素早く従った。
 彼は右の通路に行った兵達を一旦玄関に戻した。ほとんどの兵士達は各部屋から出る毒の煙を吸って、苦しげにのたうち回っている。衛生兵によって、彼らは次々と玄関から運び出されて行った。
「美術工芸院の卒業者によれば、1階の奥に通じているのはこの通路しか無いようだ。待っていれば火が消えるだろう、そうすれば煙も治まる。口を覆って一気に右の道から突入するぞ。一人たりとも残すなと斬常様からのご命令だ」
 右からの突入を指示された兵達にそう告げると、彼は正面の道を向く、そこも攻めあぐねている様子で、血飛沫があがり、狂乱の叫びが上がっている。階段の上から血だらけの兵士が一人、また一人と落ちてきて、中には首から上が無く、血飛沫を上げて転げ落ちてくる者もいた。男は、どうやら生きて逃げ戻ってきた一人の兵士の襟首を掴んで聞きただす。
「おい、指揮をとっているお前達の上官はどこに行った?」
真剴(まがい)様は玄関の外で陣を敷き突入の指揮をしておられます」
 真剴は外から前進命令を出しているようだが、兵達は襲われるとわかっている階段に足を踏み出せず手前でひとかたまりになっている。
「腹を空かせた寄せ集めの素人軍団のくせして、奴らなかなかやりおるようだ。わしはまず正面からの突破を試みようか。なあに奴らは袋の鼠だ。時間はたっぷりある」
 男は、準備体操とばかりに槍をぶん回す。
 空気を切り裂く音が響き、うつむいて床にへたり込む煉州軍の兵士達の顔が上がった。彼らの輝いた目はまっすぐ銀茶色の髪をした武人に向けられていた。
「さて、剴斗殿の露払いに行こうか。その前にお前らの上官を呼んでこい。話があるとな」
 彼が正面玄関の階段の前に出て来ると、足踏みしていた兵達の顔が明るくなった。
「き、騎剛(きごう)殿」
 「斗」入りの胴着、すなわち剴斗の幕僚の一人が来たと知った将があわてて、玄関に入ってくる。
「真剴殿、後ろの安全な所からかけ声をかけても、誰も行くわけがなかろう。わしが先に行く」
 短い口ひげを右手ではねると、騎剛は階段の下で血を流している兵士を押しのけて階段を上り始めた。足元には救出し損ねている部下の骸が何体も転がっている。
 案の定、上から岩や尖ったガラスの破片が降りかかり、マントで振り払った瞬間、十文字槍が勢いよく首元に向かってきた。
 騎剛はその槍の刃の付け根、口金の部分を伸ばした左手で造作無く掴むと思い切り引く。階段の上にいた若い男が前につんのめり、次の瞬間首の根元を騎剛の槍が貫いた。鋭い叫びを上げて、まだ若い青年が階下に落ちていく。
 すばやく騎剛は青年から奪った十文字槍を左手で勢いよく投げる。誰かの身体を串刺しにして、壁に突き刺さったのか、どん、という音と共に階上から血が噴水のようにまき散らされた。
 つんざくような悲鳴が上がり、階段の上から身を乗り出すように取り囲んでいたオアシス軍の兵士達が階段の周りを囲む柵から一歩引く。
「今だ、わしに続けっ」
 騎剛の声と共に、勢いづいた兵士達が階段を駆け上がる。
 我に返ったオアシス軍の兵士達も上から応戦するが、騎剛の長い槍が一閃するたびに頭や身体の一部が、階段に転がっていく。
 騎剛が踊り場に足をかけた時。
「おっと、ここから通さないぜ」
 長い半月刀を持った雷蛇が2階の通路から階段に一歩を踏みだし、騎剛を見下ろした。
「なで切りの雷蛇だ」兵士達がざわめく。「狂笑(きょうしょう)の半月刀だ」
「待て」
 階段を降りようとした雷蛇を呼び止めたのは勇儀だった。
「私が行く」
「へっ、なんだい。美味しいところを持って行こうっていうのか」
「この狭い踊り場ではお前の長い半月刀の威力が消されてしまう。」
「あっちだって長い槍じゃないかよ」
「槍は持ち方によって長短自在。いざとなれば折ることもできる」
 有無を言わさず、勇儀は雷蛇の首根っこを掴んで自分の背後に追いやった。
「お前はけが人を助けて先に向かえ」
 そう言うと勇儀は剣を抜いてゆっくりと階段を降りていき、踊り場に立った。
「ふん、すこしは骨のある奴が出てきたようだな」
 騎剛は後ろの兵士に下がれと手で合図する。両軍戦いの手を止めて、血の飛び散った壁画の前で対峙する二人を見つめた。
 踊り場で勇儀の剣と、騎剛の槍が向かい合った。
 騎剛はじりじりと下がり、階段の近くに位置を変える。後ろの空間が空いた事で、槍を動かす自由度が増した。
「お主、見たところ煉州人だな、名は?」
「私は、勇儀。あなたは?」
「わしは騎剛。総大将剴斗殿の食客だ」
 言葉が終わるやいなや、槍が勇儀の足元をすくう。飛び上がって事なきをえた勇儀だが、うなりを上げて反転する槍先が頭部を払う。
 しかし、勇儀も負けてはいない。それを察知して、剣でたたき落とす。
 相手の槍先が下に沈んだその隙を突いて、身体を回旋させて相手の胸元に踏み込んで下から切り上げる。しかし半回転した槍の石突きが鳩尾に入る方が早かった。吹き飛ばされて壁に背中からぶつかる勇儀。
 ここぞとばかり、相手の槍が追い詰められた勇儀の首を右からなぎ払う。
 だが。
 閃光を放ち、砕け散ったのは騎剛の刃であった。
「なにっ」
 騎剛は無くなった口金から先を信じられないといった面持ちで見る。
 勇儀は肩で息をしながら、思わず閉じた左目をおそるおそる開けた。刃を受け止めたのは彼の左手首。そこには青い腕輪が嵌められていた。螺星と美蓮が開発した青い陶土で焼いた堅い腕輪。ぽろぽろと砕かれた細かい鉄の破片が腕輪から落ちる。
 武器を失い、後ろに下がる騎剛。しかし、将に負けじと今度は兵達が階段を埋め尽くして上ってくる。勇儀を守るために残った青年達が階段の上から槍や鈍器で攻撃しても、煉州軍の兵士達は仲間の屍を乗り越え、叫び声を上げながら、まるで個を失った動物の集団のように踊り場に向かって上って来た。騎剛の奮戦が兵士の心に火を付けたらしい。
 勇儀はいきなり強い衝撃を感じて、左肩に目を向ける。肩に矢が刺さり血が吹き出ていた。だが、不思議と痛みは感じない。階下から弓を構えた兵士達が彼を狙っていた。
 騎剛の参戦によって、味方にかなりの損害が出た。亡くなった者も少なくない。
 これが限界だ。
「全員ここから撤退だ」
 勇儀は身を翻すと三段飛ばしに階段を駆け上がると叫ぶ。
 階段を上りきった2階の突き当たりは狭い通路と壁であり、勇儀は軽やかな身のこなしでそこを直角に折れて右側に向かう。彼の金髪を幾本かの矢がすり抜けた。
 階段を登り切って右に曲がるとそこは院長室である。勇儀が走り抜けるやいなや、院長室の厚いドアが大きく開き、天井まで通路を塞いだ。
 ガキッ。
 金属製の鍵が閉まる音がした。院長室の扉は通行止めができる仕様になっている。単なる飾りと思われていたこの細工、最後に本来の使い方をされてから、実に数千年の時が経っていた。
穿(うが)てっ」
 斧で叩く音がする。
 彼らは寮の前の扉も同じようにして閉じる。
「いいか、ここから奥に敵兵は一歩も入れないぞ。合図があるまで死守だ、わかったな」
 左肩に矢を立てた勇儀の目が血走る。
 おおっ。返り血で身体を赤く染めた兵達の声があがる。
 ひときわ大きいのはもちろん雷蛇の声であった。







ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み