第16話 天罰

文字数 3,826文字

「おい、爺さん。もうそいつは手遅れだろう」
 騒ぎを聞きつけてやってきた爬剛(はごう)が、幻風の背後から声をかける。
「下道、何をいうか」顔を赤くして幻風が怒鳴った。
 爬剛は片膝をついて、わきの下にある走耳の刺し傷を無遠慮に覗き込む。
「こりゃ毒虫だな、発見が遅ければ遅いほどくたばる可能性が高い。十日過ぎてちゃあ助かるのはまず無理だろう。せいぜい口が利けるうちに最後の言葉くらいは聞いておけよ」
 まるで鼻歌を歌うような調子で言う。
「う、るさい」
 そう呟くと、目を開けた走耳が覆いかぶさって傷を覗き込んでいる爬剛を押しのける。しかしその手は爬剛の衣服を撫でるだけで力なく地に落ちた。
「あ、言うのを忘れてたが世話になったな。俺は今日釈放されることになったから」
 爬剛はそう言い捨てると意気揚々と立ち去って行った。爬剛に関わっている暇はない、麗射と幻風は全身の力が抜けた走耳を日陰に運んだ。
「大丈夫か、気をしっかり持て」
「幻風――」
 走耳が何かをつぶやく。あまりにも小さい声のため、幻風は走耳の口元に耳をやったが、すぐその声も消え失せてしまった。
「何とか助けてやる、待っとけ」
 幻風が獄吏に交渉に行っている間、麗射はナツメヤシの葉で風を送った。先ほどまでは呼びかけに答えていたのに、めっきり走耳の反応が乏しくなっている。
「しっかりしろ、走耳」
 走耳の事を獄吏から聞いたのか、次々と囚人たちが様子を見に訪れる。
 雷蛇も持ち場の畑から足かせの鎖を鳴らし息せききってやってきた。
「おめえとはまだ決着がついてねえ、俺より先に逝くんじゃねえ」
 ぐったりと青ざめた走耳を見て、雷蛇はザクロ石の目に涙を浮かべて、膝をついた。
「天界に行くのはまだ早い、目を覚ませ、戻ってこい」
 天界への階段から転げ落ちろ、と叫びながら、雷蛇はひたすら走耳の身体を揺さぶる。あまりの揺さぶりように慌てて麗射が引き離し、雷蛇はしぶしぶ自分の持ち場に戻って行った。
 幻風と獄吏達が話し合った結果、すぐさま走耳を獄で休ませることになり、看病人として麗射と幻風も付き添うことになった。しばらく前にはこのような特例はまず認められることはなかったが、麗射をはじめとした囚人たちが獄吏と良好な関係を構築したこともあり、特にもめることもなくすんなりと事が運んだ。
「何かあったのか?」
 獄で横たわっていた氷炎が半身を起こす。氷炎はいったん病状が上向きになってからは回復も早く、幻風は床上げの日も近いと喜んでいた。しかし、まだ炎天下の作業ができるほどの傷の状態ではない、皆が作業している間、彼は牢獄で休むことを許可されていた。
「走耳が毒虫にやられた。危険な状態だ」
 幻風の言葉に氷炎は自分の床から起き上がって、走耳をそこに横たえるように整えた。
「身体を冷やせ、これから言う薬草を煎じて持ってこい」
 幻風は獄吏達に口早に指図を出した。幻風に借りのある煉州(れんしゅう)の獄吏達が中心になって迅速に動いたおかげで、ほどなく指示された薬草がほとんど揃った。中には市場でしか購入できないものもあったが、獄吏の1人が馬を走らせて買いに行ってくれたようだった。
 朦朧とする走耳を叱咤して薬湯を飲ませながら幻風と麗射は休みもせずに看病をする。
「おっと、具合はどうなんだ」
 突然牢獄に入ってきたのは、なんと爬剛だった。
「お主、労務中だろう。何をしに来た」幻風が睨む。
「ご挨拶だな。お忘れかい、出獄祝いの昼の膳だよ。食える物は食って出ないとな」
 この獄では、出所祝いとして特別に赤飯粥(せきはんがゆ)が出されることになっている。赤飯粥と言っても、ただの粥に赤い米が入るだけの粥なのだが、獄の畑に植えてある砂糖黍(さとうきび)から作った黒砂糖で薄い甘みが付けてあるため、慢性的に餓えている囚人たちにとっては天上の美味であった。
 爬剛は幻風たちの慌ただしい動きを横目に、獄吏から渡された赤飯粥をかきこんだ。
「おかわり、おかわりだ」
 出所の際には3杯までのおかわりが許されている。口の卑しいこの男は瞬く間に2杯平らげると3杯目を所望した。
「ほらよ」
 獄吏が最後の粥を大盛にしてやってきた。
 早速碗を抱えて大きな音で吸い込むように食べる爬剛。
「ほお、美味そうじゃのう」指示の終わった幻風が背後に立って覗き込んでいる。
「わしにも少し分けてもらえんか」
「やなこった」一言の元にはね付けながらも、その顔には満面の笑みが浮かんでいる。「まあ、いつか会うことがあったらおごってやってもいいぜ」
「えらく機嫌がいいな、大仕事でもやり終えて今から金をもらうような顔だ」
「当り前だ。やっとこの汚ねえ牢獄ともおさらばだぜ、うれしくない奴がいるかってんだ」
 碗から顔を離しもしないで爬剛は答えた。
「それにしても、虫刺されが十日以上前というのが良く分かったな。症状が出るまでの期間は人それぞれで、虫刺されからの日数はわかりにくいもんじゃが」
 碗から顔を上げて怪訝な顔で幻風の方をふりむく爬剛。
 幻風は何食わぬ顔で、天窓を見上げた。
「おや、珍しく雲が出てきたようじゃ。薄曇りならば、道々暑さもしのぎやすかろう」
 ガラスの入った天窓からはいつもの強い光ではなくて、柔らかい光が漏れていた。
「そうだな、薄曇りのいい日ざしだ」爬剛も天窓の方を見てうなずく。
「おい、そろそろ釈放だ。獄長にあいさつに行け」
 獄吏が爬剛を呼びに来た。爬剛は慌てて残りの粥を口いっぱいに掻きこむ。
「まあ、短い付き合いじゃったが、達者で暮らせ」
 その言葉に送られて爬剛は獄吏とともに獄を出て行った。



 爬剛が連れて行かれたのは獄長の部屋だった。
 人払いをすると、獄長はもじゃもじゃの頭をゆすりながらにこやかに爬剛の肩を叩いた。
「いや、世話をかけたな。使者が来る頃には息の根が止まっているだろう。獄吏からの報告を聞いても皆単なる虫刺されとしか思ってなかったようだ、さすが毒虫を使わせれば右に出る者はないと言われる男だけある」
「お安い御用ですぜ」爬剛は腰を曲げて上目遣いで礼をする。「いつでも目障りな奴は始末しますぜ。十分に食えて、いただけるものさえいただいたらね」
「ところであいつを刺したのはどんな虫だ」
「小指の爪くらいの虫で、刺された人間は高熱を出してほぼ助からねえ。ま、これ以上は秘密ってことで」
「お前、虫を扱って大丈夫なのか」
「俺たち血族は代々あの虫に噛まれても平気なんでさあ」
 爬剛は得意げに口角を上げた。
「ところで走耳を刺した虫はもう近くにはいないだろうな」
「奴らは卵からかえった後、一度しか人を噛まねえ。噛んだ後は地中に潜ってしまう。だからあいつを刺したのはもう他を刺すことはない。が、もう一匹この箱に予備が――」
 爬剛が胸元に手を当てて息を飲んだ。
「な、ない」
「どうしたんだ、虫がいないのか?」
「予備の虫を一匹入れていた箱を落としたようだ」
「どこでだ?」
 獄長の言葉に爬剛は首をひねるばかり。
「まあいい、下手に騒ぐと気づかれるかもしれない。どうせ獄内で運の悪い誰かが刺されたとしててもたかだか1人、天帝の天罰だと思ってもらおう」
「それでは獄長殿、さっそく例のものを」
 ずっしりとした袋が隠し扉から出され、爬剛に渡された。
「ああ、それにしてもなんだか疲れましたよ。今から街まで馬車で送っていただけるんでしょうね」
「見つかるなよ」獄長が苦い顔で言った。「なぜおまえだけ特別扱いかと変に思われるとまずい」
「赤飯粥の食い過ぎで動けないからって言っておけばいいじゃないですか。実際、口の動かし過ぎか唇までしびれてるんでね」
 爬剛は意気揚々と馬車に乗り、牢獄を出て行った。
 久しぶりの市街地で、彼は金に物を言わせて豪奢な服と靴、そして吟味の末に大きな空石の指輪を買った。身なりが変わって、見違えるほどお大臣になった爬剛は鼻歌を歌いながら、見せびらかすように市場を闊歩(かっぽ)する。
 しかし、突然彼の足が止まった。
 そのまま、がくりと膝をつく。
 すれ違った道行く人が怪訝そうに振り向いた。
「い、息が。息がで――」大きく目を見開いた爬剛は喉に手を当てて真っ青な顔で喘いだ。が、すぐうめき声すら出なくなり、目を血走らせて地面に倒れ伏した。
 通行人から悲鳴が上がり、のたうち回る爬剛の周りに人垣ができていった。



「今度会うことがあったら、奴におごってやるとしよう」
「何か言ったか、幻風」
 布団から出した顔を幻風の方に向けて走耳が尋ねる。若いという事はなんと強いことだろう、幻風の不眠不休の治療で、走耳の病は快方に向かっていた。
「いいや、(じじい)の独り言だ」
「今度ばかりは爺さんに助けられたな」
「お前さんが虫入れをすり取ってくれていたから、虫の種類がわかって解毒の処方が定まった。自らを助けたのはお前さん自身だよ」
「ま、ふくらみのある懐を見たら無意識に手が動くってのが、すりの業って奴だからな」
「危ない、危ない。金を持っているときにはお前さんに近づかないほうがいいな」
 幻風がにっこりと微笑む。
「それにしても、今頃あ奴はどうしているのやら。冥帝もあまりの食い意地に閉口しているだろうて――」
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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