第116話 平穏
文字数 4,047文字
獄舎の中には煙が漂い始めた。皆、煙を逃れるために姿勢を低くしている。
走耳は顔だけ横を向けてべたりと身体を床に付けていた。皆が泣き言を並べる中、床につけた彼の耳は何か助かる手がかりがないか必死で探している。
オアシスを囲む壁や、食堂の隠し扉、失われた古代の技術はかなり進んでいた。だから、ここもただの牢獄ではないはずだ。きっと打開策につながる何かが――。
ふと、彼の耳にかすかな反響音が飛び込んだ。そこに集中して意識を合わせる。
「おい、勇儀」走耳は横に寝転がっている勇儀に話しかけた。
「なんだ、私に遺言を伝えても仕方ないぞ」
「牢獄を囲む壁も記録に残らない昔からあったって聞いた。それこそ、ユーシェルの神話にも出てくるぐらい。獄舎はどうなんだ」
「ああ、昔はこの獄舎の位置に別荘用の小さな城があったらしい。崩れた後、何度か作り直されて、今建っているのがこの獄舎だ」
「いつも思っていたんだが、この獄舎の位置がどうにも中途半端なんだ。城なら攻められにくい中央に作っても良さそうなものなのに。端っこのこの位置に作ったのは、水脈か何かが関係しているんだろうか。言い伝えではこの古代都市の地下には、道を併設した水路が走っているようなんだが」
「ここは銀嶺 の雫 から流れてくる水脈の上に作ったって聞いたことがあるぞ。そうだ、君たちは知らなかっただろうが、我々獄吏の使う水は新鮮で――」
勇儀の目が大きく開かれた。
「何か思い出したのか? さっきから俺の耳に水の流れるかすかな反響音が聞こえるんだ」
「囚人用の便所は単に大きな穴を掘って使っていただけだったが、俺たちの便所には常に水が流れるようになっていた。もしかして、君の言う水路を排水に利用していたのかも」
勇儀が四つん這いになる。
「力の強いもの、来てくれ。便所の床を剥がすぞ」
獄屋の空気がはっきりと温かくなり、煙の匂いが立ちこめてきた。
「幻風、清那の具合はどうだった?」
麗射は真っ青な顔で、部屋から出てきた幻風に近寄った。唇は震え、真っ赤な目をしている。
「胸骨にまで到達しているが、幸い心の臓には至っていない。命には別状ないじゃろう。矢の衝撃で一瞬息が止ったらしいが、泉の囲いを爆破した美蓮が近くに居たおかげで、なんとか息を吹き返すことができた。まだ彼の命運は尽きてないようじゃな」
美蓮も麗射と同じ波州出身である。海とともに暮らしてきた彼らは、海に溺れた時の応急処置に精通しており、今回も美蓮が呼吸補助などの手当を施したらしい。
「それにしても、お互いに弓を撃ち合うなんて自殺行為だ。あんな薄い服だけで……差し違えるつもりだったのか」
麗射の両眼から涙があふれる。
「俺を置いていくつもりだったのか。出がけの誓いの言葉は嘘かっ」
麗射は握った拳を壁にたたきつける。
「これを」
幻風が取り出したのは牙蘭の矢であった。先端が砕かれて潰れ、そして矢本体も削られてかなり細くなっている。
「清那の弓は相手の矢の先端を撃ち抜いておる。彼の矢尻は美蓮と火翔が作ったあの鉄より堅い青い陶 でできている。牙蘭の矢の勢いがわずかに勝ったため清那の胸の真ん中の骨にまで刺さったが、貫きはしなかった。清那の矢の衝撃でいくつかに割れ、角度も変わりその威力がほとんど無くなっていたのだろうな」
「清那の弓術は達人の域というのは知っていたが、矢の先端は振れながら飛んでくるって聞いた事がある。射抜くなんて、そんなことができるのか……」
「清那は叡州北辺の民である瑛攻 族の血筋。彼らは人並み外れた動体視力と騎射術を誇っているが、その中でも特に異能を持つ一族がいてな、極度に集中すると動く標的がまるで止って見えるようになるらしい。そして、彼らの凄いのはその的がこの後どう動いていくかの予測も見えるところだ。それに合わせて彼らの身体は自然と動き、的を射貫くのじゃ」
麗射の記憶の中、砂漠で駱駝を駆りながら遠くの砂漠トカゲを射貫いた清那、そして風の吹きすさぶ中、牙蘭が引き絞る弓の角度を微調整して自分の居る州 に縄を届けてくれた清那の姿が蘇る。
「しかし、命に関わる状態にならなかったのは、技術と集中というよりも、ひとえに彼の執念によるものじゃな。ある程度勝算があったとしても、動揺せずに至近距離から高速で近づく矢の先端を撃ち抜くとは、さすがの精神力じゃ」
身を守る術を持たずに矢1本で勝負したのは自信ゆえか、それとも矢で生きてきた戦士の一族が持つ矜持というものか――。
「俺には理解できないよ」
麗射は壁に頭をもたせかけてうめく。「あの二人は親子よりも親密な間柄だったじゃないか」
「お互い、戦に生きる者として覚醒したのじゃろう」
幻風は矢に目を落とす。
「戦士は時に命をかけてお互いを試したくなることがある、からな」
「わからないよ、俺にはわからない。わかりたくもない……」
麗射は、壁に寄りかかりながら頭を振り続けるのみだった。
勇儀達の安否がわからないことが、オアシスの作戦会議室に暗い影を落としていた。
物見から、獄舎から炎が上がっているとの報告を受け、麗射達も真珠の塔に上がる。
「彼らはもしかしてあそこに逃げ込んだのか」
美蓮がぽつりと漏らす。
獄舎は油をかけられているのか、黒いけむりと赤い炎に包まれて激しく燃えさかっている。人々は息を飲んでその光景を見つめた。
と、突然獄舎から天に向かって太い火柱が噴き上がった。土煙を上げながら砕かれた獄舎が宙を舞う。それは地上に落ち、瓦礫と化して火の中に積み上がった。
「火翔が持っていた、火薬だ……」
人々は言葉を失った。
勇儀、走耳、雷蛇、火翔。オアシス軍の中核をしめる重要人物たちのあっけない最期に、誰とも無く嗚咽が漏れる。
「俺の、俺のせいだ……、あそこで彼らを助けに戻らなかった」
奇併が崩れ落ちる。
「あの場面では無理です。戻れば自分たちも死んでます」縁筆が助け起こす。「私が今ここに生きているのはあなたが戻らなかったおかげです」
「気落ちしている暇は無い。俺たちも敵側の兵士をかなり殺している。これからはさらに激しい攻撃を受けるだろう」
麗射の言葉に、誰もがうつむきながらうなずく。
「そうだな。奴ら、お目当ての用水路には毒が入れられ、菜園も焼き払われた。銀老草の煙が漂う壁の中は、未だ薬に弱い者はもうろうとなるような状況だ。莫大な兵の損失に反し、得たものは爆破されて瓦礫となった獄舎だけ。今、煉州軍の中では怨嗟 が渦巻いていることだろう」
「瓦礫となった獄舎だけ、だと? 煉州軍にとってはそうでも、俺たちにとって彼らを失うことは莫大な損失――」
麗射の声がピタリと止る。
皆、どうしたのかと顔を上げた。瞬間。
「わあああああっ」
全員が慌てて飛び退く。皆が玉突きのようにぶつかって、全員勢いよく尻餅をついた。
死人は冥府の河を渡るので水が滴るという。そこいらはびしょ濡れだった。
「うわあああ、出たっ」奇併が手に付いた水を見て、縁筆に飛びつく。
「亡霊、出た、出た、出たっ」
「だから?」
「だからって、お前……」
「居るものは、しょうがないでしょう」
きょとんとしている縁筆の豪胆さに目を丸くしながら、我に返った奇併はまじまじと真珠の塔に現れた亡霊に目をやる。
そこにはずぶ濡れの走耳が、足元に水を滴らせながらたたずんでいた。
「は、はやく天界に行け。俺は理解できないものが、怖いんだっ。死んだらおとなしくしとけーっ」
「失礼だな、俺たち誰も死んでいないぞ」
走耳の後ろには死んだはずの者達がずらりと水浸しで立っている。
「うわーっ、増えてるうう」取り乱した奇併は、走耳の言葉も耳に入らず、泡を吹いて倒れた。
「そうなのですか、最期まで希望を失わなかった走耳と、勇儀の冷静な指揮が針の穴を通すような脱出作戦を成功させたのですね」
「ああ、ご丁寧に獄舎を爆破して、積み重なった瓦礫で水音の道も隠してきてくれた」
「さすが、火翔」
布団の上に横たわりながら清那が微笑む。熱で朦朧 としていた清那だが、一昼夜過ぎた今、やっと意識もはっきりして、昼にはナツメヤシのスープを口にすることができている。
勇儀達が獄吏用の便所の穴の周りの床を剥がしたところ、そこにくるぶしまでの高さの水が流れるこじんまりとした用水路が現れたらしい。所々に漏れる細い光を頼りに、彼らは身体をかがめて獄舎を脱出した。幸いにも道は銀嶺の雫の近くの茂みまで続いており、行き止まりの所の天井に作られた出口を、強力の者達が持ち上げて地上に戻ってきたとのことだった。
学院に帰る前に汚れた身体を銀嶺の雫の水で洗い流してきたため、水を滴らせながらの登場となった訳だ。
「このオアシスの下には想像より多くの水音の道が走っているようだな」
傍らに座った麗射が、そっと清那の白い額に手を触れる。
昨夜よりも熱は下がったが、まだ微熱が続いている。彼は水に浸した布を絞って額に置いた。
「あなたはここに居てはいけません。作戦会議室に詰めておかないと」
「明日まで休戦だ。昨日矢文が来て、こちらも承諾した。彼らは牢獄域の遺体回収と弔いをするようだ。我々も兵士達を休ませたい」
「そうですね。斬常であれば、油断させて攻め込むところでしょうが、剴斗殿と牙蘭ならそんな卑劣な手段はとらないでしょう」
返事が無い。
傍らの麗射は椅子の背もたれに身体を預けて、寝息を立てていた。目の下の隈が痛々しいが、しばし緊張から解き放たれて、幼い子供のように安らかな寝顔をしている。
明るい光が窓から漏れ、白亜の天井に当たってキラキラと光る。清那は小さなため息をついた。何でもない平穏がこんなに幸せであることを、ずいぶん長いこと忘れていた気がする。
過ぎ去った幸せな日々に思いを馳せて、清那はそっと目を閉じた。明るい光が瞼の裏まで黄色に照らす。それは遠い昔、草むらで何憂うことなく戯れた春の記憶を思い出させた。
オアシスの人々は皆、嵐の前のささやかな幸せをかみしめていた。
走耳は顔だけ横を向けてべたりと身体を床に付けていた。皆が泣き言を並べる中、床につけた彼の耳は何か助かる手がかりがないか必死で探している。
オアシスを囲む壁や、食堂の隠し扉、失われた古代の技術はかなり進んでいた。だから、ここもただの牢獄ではないはずだ。きっと打開策につながる何かが――。
ふと、彼の耳にかすかな反響音が飛び込んだ。そこに集中して意識を合わせる。
「おい、勇儀」走耳は横に寝転がっている勇儀に話しかけた。
「なんだ、私に遺言を伝えても仕方ないぞ」
「牢獄を囲む壁も記録に残らない昔からあったって聞いた。それこそ、ユーシェルの神話にも出てくるぐらい。獄舎はどうなんだ」
「ああ、昔はこの獄舎の位置に別荘用の小さな城があったらしい。崩れた後、何度か作り直されて、今建っているのがこの獄舎だ」
「いつも思っていたんだが、この獄舎の位置がどうにも中途半端なんだ。城なら攻められにくい中央に作っても良さそうなものなのに。端っこのこの位置に作ったのは、水脈か何かが関係しているんだろうか。言い伝えではこの古代都市の地下には、道を併設した水路が走っているようなんだが」
「ここは
勇儀の目が大きく開かれた。
「何か思い出したのか? さっきから俺の耳に水の流れるかすかな反響音が聞こえるんだ」
「囚人用の便所は単に大きな穴を掘って使っていただけだったが、俺たちの便所には常に水が流れるようになっていた。もしかして、君の言う水路を排水に利用していたのかも」
勇儀が四つん這いになる。
「力の強いもの、来てくれ。便所の床を剥がすぞ」
獄屋の空気がはっきりと温かくなり、煙の匂いが立ちこめてきた。
「幻風、清那の具合はどうだった?」
麗射は真っ青な顔で、部屋から出てきた幻風に近寄った。唇は震え、真っ赤な目をしている。
「胸骨にまで到達しているが、幸い心の臓には至っていない。命には別状ないじゃろう。矢の衝撃で一瞬息が止ったらしいが、泉の囲いを爆破した美蓮が近くに居たおかげで、なんとか息を吹き返すことができた。まだ彼の命運は尽きてないようじゃな」
美蓮も麗射と同じ波州出身である。海とともに暮らしてきた彼らは、海に溺れた時の応急処置に精通しており、今回も美蓮が呼吸補助などの手当を施したらしい。
「それにしても、お互いに弓を撃ち合うなんて自殺行為だ。あんな薄い服だけで……差し違えるつもりだったのか」
麗射の両眼から涙があふれる。
「俺を置いていくつもりだったのか。出がけの誓いの言葉は嘘かっ」
麗射は握った拳を壁にたたきつける。
「これを」
幻風が取り出したのは牙蘭の矢であった。先端が砕かれて潰れ、そして矢本体も削られてかなり細くなっている。
「清那の弓は相手の矢の先端を撃ち抜いておる。彼の矢尻は美蓮と火翔が作ったあの鉄より堅い青い
「清那の弓術は達人の域というのは知っていたが、矢の先端は振れながら飛んでくるって聞いた事がある。射抜くなんて、そんなことができるのか……」
「清那は叡州北辺の民である
麗射の記憶の中、砂漠で駱駝を駆りながら遠くの砂漠トカゲを射貫いた清那、そして風の吹きすさぶ中、牙蘭が引き絞る弓の角度を微調整して自分の居る
「しかし、命に関わる状態にならなかったのは、技術と集中というよりも、ひとえに彼の執念によるものじゃな。ある程度勝算があったとしても、動揺せずに至近距離から高速で近づく矢の先端を撃ち抜くとは、さすがの精神力じゃ」
身を守る術を持たずに矢1本で勝負したのは自信ゆえか、それとも矢で生きてきた戦士の一族が持つ矜持というものか――。
「俺には理解できないよ」
麗射は壁に頭をもたせかけてうめく。「あの二人は親子よりも親密な間柄だったじゃないか」
「お互い、戦に生きる者として覚醒したのじゃろう」
幻風は矢に目を落とす。
「戦士は時に命をかけてお互いを試したくなることがある、からな」
「わからないよ、俺にはわからない。わかりたくもない……」
麗射は、壁に寄りかかりながら頭を振り続けるのみだった。
勇儀達の安否がわからないことが、オアシスの作戦会議室に暗い影を落としていた。
物見から、獄舎から炎が上がっているとの報告を受け、麗射達も真珠の塔に上がる。
「彼らはもしかしてあそこに逃げ込んだのか」
美蓮がぽつりと漏らす。
獄舎は油をかけられているのか、黒いけむりと赤い炎に包まれて激しく燃えさかっている。人々は息を飲んでその光景を見つめた。
と、突然獄舎から天に向かって太い火柱が噴き上がった。土煙を上げながら砕かれた獄舎が宙を舞う。それは地上に落ち、瓦礫と化して火の中に積み上がった。
「火翔が持っていた、火薬だ……」
人々は言葉を失った。
勇儀、走耳、雷蛇、火翔。オアシス軍の中核をしめる重要人物たちのあっけない最期に、誰とも無く嗚咽が漏れる。
「俺の、俺のせいだ……、あそこで彼らを助けに戻らなかった」
奇併が崩れ落ちる。
「あの場面では無理です。戻れば自分たちも死んでます」縁筆が助け起こす。「私が今ここに生きているのはあなたが戻らなかったおかげです」
「気落ちしている暇は無い。俺たちも敵側の兵士をかなり殺している。これからはさらに激しい攻撃を受けるだろう」
麗射の言葉に、誰もがうつむきながらうなずく。
「そうだな。奴ら、お目当ての用水路には毒が入れられ、菜園も焼き払われた。銀老草の煙が漂う壁の中は、未だ薬に弱い者はもうろうとなるような状況だ。莫大な兵の損失に反し、得たものは爆破されて瓦礫となった獄舎だけ。今、煉州軍の中では
「瓦礫となった獄舎だけ、だと? 煉州軍にとってはそうでも、俺たちにとって彼らを失うことは莫大な損失――」
麗射の声がピタリと止る。
皆、どうしたのかと顔を上げた。瞬間。
「わあああああっ」
全員が慌てて飛び退く。皆が玉突きのようにぶつかって、全員勢いよく尻餅をついた。
死人は冥府の河を渡るので水が滴るという。そこいらはびしょ濡れだった。
「うわあああ、出たっ」奇併が手に付いた水を見て、縁筆に飛びつく。
「亡霊、出た、出た、出たっ」
「だから?」
「だからって、お前……」
「居るものは、しょうがないでしょう」
きょとんとしている縁筆の豪胆さに目を丸くしながら、我に返った奇併はまじまじと真珠の塔に現れた亡霊に目をやる。
そこにはずぶ濡れの走耳が、足元に水を滴らせながらたたずんでいた。
「は、はやく天界に行け。俺は理解できないものが、怖いんだっ。死んだらおとなしくしとけーっ」
「失礼だな、俺たち誰も死んでいないぞ」
走耳の後ろには死んだはずの者達がずらりと水浸しで立っている。
「うわーっ、増えてるうう」取り乱した奇併は、走耳の言葉も耳に入らず、泡を吹いて倒れた。
「そうなのですか、最期まで希望を失わなかった走耳と、勇儀の冷静な指揮が針の穴を通すような脱出作戦を成功させたのですね」
「ああ、ご丁寧に獄舎を爆破して、積み重なった瓦礫で水音の道も隠してきてくれた」
「さすが、火翔」
布団の上に横たわりながら清那が微笑む。熱で
勇儀達が獄吏用の便所の穴の周りの床を剥がしたところ、そこにくるぶしまでの高さの水が流れるこじんまりとした用水路が現れたらしい。所々に漏れる細い光を頼りに、彼らは身体をかがめて獄舎を脱出した。幸いにも道は銀嶺の雫の近くの茂みまで続いており、行き止まりの所の天井に作られた出口を、強力の者達が持ち上げて地上に戻ってきたとのことだった。
学院に帰る前に汚れた身体を銀嶺の雫の水で洗い流してきたため、水を滴らせながらの登場となった訳だ。
「このオアシスの下には想像より多くの水音の道が走っているようだな」
傍らに座った麗射が、そっと清那の白い額に手を触れる。
昨夜よりも熱は下がったが、まだ微熱が続いている。彼は水に浸した布を絞って額に置いた。
「あなたはここに居てはいけません。作戦会議室に詰めておかないと」
「明日まで休戦だ。昨日矢文が来て、こちらも承諾した。彼らは牢獄域の遺体回収と弔いをするようだ。我々も兵士達を休ませたい」
「そうですね。斬常であれば、油断させて攻め込むところでしょうが、剴斗殿と牙蘭ならそんな卑劣な手段はとらないでしょう」
返事が無い。
傍らの麗射は椅子の背もたれに身体を預けて、寝息を立てていた。目の下の隈が痛々しいが、しばし緊張から解き放たれて、幼い子供のように安らかな寝顔をしている。
明るい光が窓から漏れ、白亜の天井に当たってキラキラと光る。清那は小さなため息をついた。何でもない平穏がこんなに幸せであることを、ずいぶん長いこと忘れていた気がする。
過ぎ去った幸せな日々に思いを馳せて、清那はそっと目を閉じた。明るい光が瞼の裏まで黄色に照らす。それは遠い昔、草むらで何憂うことなく戯れた春の記憶を思い出させた。
オアシスの人々は皆、嵐の前のささやかな幸せをかみしめていた。