第20話 刺客
文字数 3,120文字
走耳は壁に同化しながら死体安置所に向かった。勇儀の情報によればそこには氷炎が入れられている大きなずだ袋が置かれているはずである。いつもは遺体が安置されていても警備などつかない場所だが、今回はさすがに遠巻きにして数人が警備を行っていた。いずれも獄長直属の部下で、勇儀たちの計画からは外されている面々である。
「ん?」
安置所の警備をしていた獄吏の一人は、燭台が作る影がかすかに動いたように見えて顔を向けた。その瞬間、その獄吏はみぞおちを殴打され、無言で崩れ落ちた。
仲間の異変に、笛を吹こうとした別の獄吏は笛を口にすることなく仰向けに倒れた。別の獄吏が警棒を振り下ろす。が、走耳はひらりと身をかわすと相手の懐深く入り込んでニヤリと笑ってささやいた。
「舌を噛むぞ、歯を食いしばれ」
軽いが、鋭い打撃が相手の顎に決まり、獄吏はへなへなと崩れ落ちた。男の手から離れた刀は、床に落ちる寸前に走耳に拾い上げられ音を立てないようにそっと床に置かれた。
「先生、大丈夫か」
「ああ、銀老草のおかげでまだフラフラするが、なんとか――」
銀老草を吸い過ぎると呼吸回数や脈拍が減る。それで命を落とすものもいるが、幻風の絶妙なさじ加減で、獄長の目を欺くことができた。大分覚めているようだが、まだ氷炎の動作は鈍かった。
「走るぞ、いいか」
ずだ袋を、幻風が手術に使った小刀で切り開いて助け出すと、走耳は氷炎を支えて唯一の出入り口である大門に駆け出した。懐には勇儀からもらった鍵が入っている。これで大門を開けて半刻もひた走れば、姿を隠せる絶好の場所がいくつかあるのを走耳は知っていた。
大門は松明 の灯りで煌々と照らし出されていた。見たこともないやせこけた獄吏が一人で立っている。安置所の警備に人数が割かれたのか、見る限り門の前にはその獄吏だけであった。これはもう脱獄したも同然だ。走耳は胸の中で快哉を上げた。
しかも、その男はこちらを背にしてぼんやりと門の方を向いており、彼らに気が付いた様子はない。
「先生、ここで待っててくれ、始末してくる」
よろめく氷炎を座らせると、走耳は影から影に滑るように移動して、獄吏の背後に立った。
走耳の気配を感じても不思議ではない距離だが、なぜか獄吏は振り向かない。
走耳は背後から頸部めがけて手刀を振り上げた。
獄吏一人ぐらい、百戦錬磨の走耳にとっては赤子の手をひねるようなものだ。できるだけ目覚めた後に後遺症が残らぬ、しかし一瞬にして戦闘力を奪う場所。走耳の手が疾風のように振り下ろされた。
しかし、その手は目にもとまらぬ早業で捕まれる。ひねりを加えられて走耳の身体は宙を一転した。着地寸前の走耳の胴は、鋭い相手の蹴りを食らい砂の上に吹っ飛んだ。しかし走耳も負けてはいない、転がる反動で立ち上がり素早く戦闘態勢に入る。
だが。
暗闇の中、松明に照らし出された獄吏の顔を見て走耳は息を飲んだ。
「さすがの身のこなしだ、武勇の誉 高かった元煉州 公の曽孫 だけある」
浮かび上がったのは見覚えのある皺の入った顔だった。走耳の攻撃を片手のみで防いだその者の顔は、いつもと違い鋭い殺気を帯びている。
「な、なぜここにいる――、幻風」
常に冷静な走耳の声がかすかに震えている。
幻風はゆっくりと片手を懐に入れる。懐から出された手には鈍く光る小刀が握られていた。
その刃はまっすぐに走耳の方に向けられる。走耳も相手の視線から目を離さずにゆっくりと立ち上がった。お互い手に小刀をもったまま向かい合う。
二人とも、微動だにしない。
走耳の頭の中は激流に飲み込まれたかのように混乱し、身体は固まったままであった。
注意を怠らなかったはずなのに。まさか自分の真横に暗殺者がいたとは。
「思いがけない敵がいるから、油断するなと言っただろう」
好々爺の仮面を脱ぎ捨てた老人は、鋭い視線で走耳を射抜いた。
「抗 っても、抗ってもお前の血筋はもう変えることができないのだ。政権が変わればその前の権力者の血縁は粛清 される、これが権力のならいだ」
「私が誰なのか、知っていたのか――」
「ああ、お前さんの知らないことまでな」
幻風は意味ありげに笑った。
「ははは、罠にかかったな。その男は刺客だよ、当代一のな」
走耳の背後から聞き覚えのある大声が聞こえた。
「私にかまうな走耳、独りで脱出しろ」
氷炎の声。走耳は飛び下がって幻風との間合いを広げ、後ろを振り向く。
獄長の太い左腕が氷炎の首を背後から締め上げ、浮き出た首筋の血管には銀色に光る太い大刀が付きつけられていた。
「まんまと騙されるところだったよ。地塩からこいつの目が白いという報告を受けるまではな」
「お前ら、仲間だったのか」
低い声でつぶやくと、走耳は幻風を睨みつけた。
「正確に言えば、雇い主と雇われ刺客の関係だな。政権の危うい煉州は、反体制勢力の旗印になるような偶像を恐れている。前政権の遺児たちを探し出し、偶像化しないように闇から闇に抹殺しろという指令が出ているのさ」
「俺なんぞ獄中でいくらでも抹殺の機会はあっただろうに、なぜ殺らなかった」
「牢獄は案外暗殺のしにくい場所でな。偶像化を防ぐためには殺すところを人目に触れてはならない、殺されたとわかってはいけないという難しい仕事だった。しかもお前さんは用心してナツメヤシばかり食っていたから毒殺もできない。虫の奴に手柄を奪われるのはわしの自尊心が許さなかったから救ってやったが、偶然氷炎のおかげで一石二鳥の暗殺の機会を得たという訳さ」
もう袋のネズミだと思っているのか、余裕たっぷりに幻風が語る。そのゆったりした口調とは裏腹に殺気はますます研ぎ澄まされていく。
「時々呼び出されていたのは占いではなくて、獄長と密談するためだったんだな」
好々爺の笑顔に心を許し過ぎた。油断だった。後悔が走耳を襲う。
「俺なんぞ、皇家の血筋とはいえ末端の末端だ。一体どこまで粛清すれば気が済むんだ――」
走耳は吐き捨てるようにつぶやいた。
「もうお前に勝ち目はない、観念して刀を捨てろ。獄長は希代の剣士だ、十人で囲んだとしても正攻法で太刀打ちはできる相手ではない」
走耳の背後から獄長の声が聞こえた。
「お前と氷炎を煉州に差し出せば、俺も大金持ちになれる。獄長なんてしけた仕事とはおさらばだ」
闇の中に獄長の笑い声が響いた。
「さあ、ぐずぐずするな、刀を捨てろ。さもなくばこいつを切り刻むぞ」
氷炎の首筋に充てられた刀がきらめき、うめき声が響く。
「や、めろ」
走耳の絞り出すような声が闇に吸い込まれる。
「その人は、煉州の希望だ――」
「走耳、もうお前に勝ち目はない。観念しろ」
幻風の声の後、砂の上に小刀が落ちるかすかな音がした。
自分はどうなってもいい、だが氷炎だけでもどうにか助けないと。走耳は唇をかみしめる。獄長の乾いた笑い声が静寂の中に響いた。
無表情を貫いていたが、氷炎に対しては同郷の走耳も強い思い入れを持っていた。脱獄の手伝いをすんなりと受け入れたのもそのためだ。自らの命より、氷炎を無事に脱獄させられなかったという無念が彼を苛 んでいる。
「一思いにやってしまえ、幻風」
幻風の目が光り、小刀が振り上げられた。
「抵抗すると、氷炎の命はないぞ」
獄長の声とともに幻風の手が勢いよく動いた。
終わりか。
走耳は肩をすぼめ、無意識のうちに喉を守るように腕を首元で交差した。
「ん?」
安置所の警備をしていた獄吏の一人は、燭台が作る影がかすかに動いたように見えて顔を向けた。その瞬間、その獄吏はみぞおちを殴打され、無言で崩れ落ちた。
仲間の異変に、笛を吹こうとした別の獄吏は笛を口にすることなく仰向けに倒れた。別の獄吏が警棒を振り下ろす。が、走耳はひらりと身をかわすと相手の懐深く入り込んでニヤリと笑ってささやいた。
「舌を噛むぞ、歯を食いしばれ」
軽いが、鋭い打撃が相手の顎に決まり、獄吏はへなへなと崩れ落ちた。男の手から離れた刀は、床に落ちる寸前に走耳に拾い上げられ音を立てないようにそっと床に置かれた。
「先生、大丈夫か」
「ああ、銀老草のおかげでまだフラフラするが、なんとか――」
銀老草を吸い過ぎると呼吸回数や脈拍が減る。それで命を落とすものもいるが、幻風の絶妙なさじ加減で、獄長の目を欺くことができた。大分覚めているようだが、まだ氷炎の動作は鈍かった。
「走るぞ、いいか」
ずだ袋を、幻風が手術に使った小刀で切り開いて助け出すと、走耳は氷炎を支えて唯一の出入り口である大門に駆け出した。懐には勇儀からもらった鍵が入っている。これで大門を開けて半刻もひた走れば、姿を隠せる絶好の場所がいくつかあるのを走耳は知っていた。
大門は
しかも、その男はこちらを背にしてぼんやりと門の方を向いており、彼らに気が付いた様子はない。
「先生、ここで待っててくれ、始末してくる」
よろめく氷炎を座らせると、走耳は影から影に滑るように移動して、獄吏の背後に立った。
走耳の気配を感じても不思議ではない距離だが、なぜか獄吏は振り向かない。
走耳は背後から頸部めがけて手刀を振り上げた。
獄吏一人ぐらい、百戦錬磨の走耳にとっては赤子の手をひねるようなものだ。できるだけ目覚めた後に後遺症が残らぬ、しかし一瞬にして戦闘力を奪う場所。走耳の手が疾風のように振り下ろされた。
しかし、その手は目にもとまらぬ早業で捕まれる。ひねりを加えられて走耳の身体は宙を一転した。着地寸前の走耳の胴は、鋭い相手の蹴りを食らい砂の上に吹っ飛んだ。しかし走耳も負けてはいない、転がる反動で立ち上がり素早く戦闘態勢に入る。
だが。
暗闇の中、松明に照らし出された獄吏の顔を見て走耳は息を飲んだ。
「さすがの身のこなしだ、武勇の
浮かび上がったのは見覚えのある皺の入った顔だった。走耳の攻撃を片手のみで防いだその者の顔は、いつもと違い鋭い殺気を帯びている。
「な、なぜここにいる――、幻風」
常に冷静な走耳の声がかすかに震えている。
幻風はゆっくりと片手を懐に入れる。懐から出された手には鈍く光る小刀が握られていた。
その刃はまっすぐに走耳の方に向けられる。走耳も相手の視線から目を離さずにゆっくりと立ち上がった。お互い手に小刀をもったまま向かい合う。
二人とも、微動だにしない。
走耳の頭の中は激流に飲み込まれたかのように混乱し、身体は固まったままであった。
注意を怠らなかったはずなのに。まさか自分の真横に暗殺者がいたとは。
「思いがけない敵がいるから、油断するなと言っただろう」
好々爺の仮面を脱ぎ捨てた老人は、鋭い視線で走耳を射抜いた。
「
「私が誰なのか、知っていたのか――」
「ああ、お前さんの知らないことまでな」
幻風は意味ありげに笑った。
「ははは、罠にかかったな。その男は刺客だよ、当代一のな」
走耳の背後から聞き覚えのある大声が聞こえた。
「私にかまうな走耳、独りで脱出しろ」
氷炎の声。走耳は飛び下がって幻風との間合いを広げ、後ろを振り向く。
獄長の太い左腕が氷炎の首を背後から締め上げ、浮き出た首筋の血管には銀色に光る太い大刀が付きつけられていた。
「まんまと騙されるところだったよ。地塩からこいつの目が白いという報告を受けるまではな」
「お前ら、仲間だったのか」
低い声でつぶやくと、走耳は幻風を睨みつけた。
「正確に言えば、雇い主と雇われ刺客の関係だな。政権の危うい煉州は、反体制勢力の旗印になるような偶像を恐れている。前政権の遺児たちを探し出し、偶像化しないように闇から闇に抹殺しろという指令が出ているのさ」
「俺なんぞ獄中でいくらでも抹殺の機会はあっただろうに、なぜ殺らなかった」
「牢獄は案外暗殺のしにくい場所でな。偶像化を防ぐためには殺すところを人目に触れてはならない、殺されたとわかってはいけないという難しい仕事だった。しかもお前さんは用心してナツメヤシばかり食っていたから毒殺もできない。虫の奴に手柄を奪われるのはわしの自尊心が許さなかったから救ってやったが、偶然氷炎のおかげで一石二鳥の暗殺の機会を得たという訳さ」
もう袋のネズミだと思っているのか、余裕たっぷりに幻風が語る。そのゆったりした口調とは裏腹に殺気はますます研ぎ澄まされていく。
「時々呼び出されていたのは占いではなくて、獄長と密談するためだったんだな」
好々爺の笑顔に心を許し過ぎた。油断だった。後悔が走耳を襲う。
「俺なんぞ、皇家の血筋とはいえ末端の末端だ。一体どこまで粛清すれば気が済むんだ――」
走耳は吐き捨てるようにつぶやいた。
「もうお前に勝ち目はない、観念して刀を捨てろ。獄長は希代の剣士だ、十人で囲んだとしても正攻法で太刀打ちはできる相手ではない」
走耳の背後から獄長の声が聞こえた。
「お前と氷炎を煉州に差し出せば、俺も大金持ちになれる。獄長なんてしけた仕事とはおさらばだ」
闇の中に獄長の笑い声が響いた。
「さあ、ぐずぐずするな、刀を捨てろ。さもなくばこいつを切り刻むぞ」
氷炎の首筋に充てられた刀がきらめき、うめき声が響く。
「や、めろ」
走耳の絞り出すような声が闇に吸い込まれる。
「その人は、煉州の希望だ――」
「走耳、もうお前に勝ち目はない。観念しろ」
幻風の声の後、砂の上に小刀が落ちるかすかな音がした。
自分はどうなってもいい、だが氷炎だけでもどうにか助けないと。走耳は唇をかみしめる。獄長の乾いた笑い声が静寂の中に響いた。
無表情を貫いていたが、氷炎に対しては同郷の走耳も強い思い入れを持っていた。脱獄の手伝いをすんなりと受け入れたのもそのためだ。自らの命より、氷炎を無事に脱獄させられなかったという無念が彼を
「一思いにやってしまえ、幻風」
幻風の目が光り、小刀が振り上げられた。
「抵抗すると、氷炎の命はないぞ」
獄長の声とともに幻風の手が勢いよく動いた。
終わりか。
走耳は肩をすぼめ、無意識のうちに喉を守るように腕を首元で交差した。